椿説弓張月、読んだことある?

28. 舜天丸、誕生

前:27. 木原山に集う人々

舜天丸(すてまる)、誕生

さて、再会を祝った宴の翌日、紀平治(きへいじ)高間(たかまの)太郎(たろう)は、為朝にこれからのことについて提案します。

紀平治「為朝さまが戻ってきたからには、百万騎並みの戦力アップです。もういちど九州を支配しましょうよ。今なら、原田・菊池のやつらも恐るに足りない。積年の恨みを晴らすことができる」

為朝は、これに賛成しません。「確かに、九州を獲るのは簡単だ。だが、今は一応平和なんだから、これを乱して戦いを始める大義はないと思うぞ。新院もお隠れになり、その子も今では出家だ。オレたちは誰のために、何のために九州を獲るんだ。自分自身の富貴に興味はない」

白縫(しらぬい)は、関東を攻めることを主張します。「私は、前までの計画どおり、伊豆まで行って、工藤(くどう)茂光(もちみつ)を攻めるべきと思います。あなたの大島での家族のカタキ討ちよ。それに、あなたが東で旗揚げをすれば、源氏の仲間がたくさん集まって、一大拠点を持つことができるわ」

為朝はこれもよしとしません。「いや… そちらにしても、オレを攻めたのは官軍だ。茂光(もちみつ)の私怨から始まったにしても、征伐の軍は勅命に従って来たのだから、オレは茂光(もちみつ)に仕返しをして朝廷を軽んじるようなことはしない」

紀平治・白縫「では、我々はこれからどうするんです」

為朝「オレが許せないヤツはただ一人、清盛(きよもり)だ。あいつは主君を苦しめ、民をしいたげて、天も人も敵に回している。決してオレが個人的に憎んでいるんじゃない。あくまで公道(こうどう)に従って、あいつを討つ」

紀平治たちは為朝の理路整然さに感心しました。そして、こんなに彼が朝廷に尽くそうとしているのに、朝敵などと呼ばれることを心底くやしいと思いました。

それにしても、すぐに清盛を討ちに行けるわけではありませんし、今はなかなか彼にも勢いがありますから、しばらくは時をまってこの木原山に潜伏を続けることになりました。


さて、白縫(しらぬい)のもとに出現した簓江(ささらえ)のドクロは、しばらく祠堂(しどう)にまつって、みなで彼女の冥福を祈りました。この期間もやがて終わったので、次は埋葬するのが順序ですが…

白縫「埋葬は当分しないでほしいの」
為朝「どうして?」
白縫「夢をみたのよ。例の女性(簓江(ささらえ)だと思う)の霊が、また私の夢枕に立ったわ。そこで、『埋葬はあと何年か待ってちょうだい』と私に頼むの。どうしてかと聞いたら、『人を待っているから』ですって」
為朝「待つとは、誰をだろうな… まあいい、とりあえずそれに従おう」

白縫の見た夢に従い、ドクロは当分、今までのように祠堂(しどう)に安置することになりました。

為朝「それはともかく、明日は阿蘇の神社にお参りに行かないか。もともとオレはそのつもりで九州に来たんだ。白縫、お前にとっても阿蘇は故郷だろ」

白縫「いいわね。ずっと山ごもりして、ふるさとの神様にご無沙汰してたわ」

こうして、為朝、白縫、紀平治、高間と磯萩の5人だけで、翌日早くから阿蘇に向かいました。あまり目立ってはだれに見とがめられるか分かりませんから、少人数で行くのです。夜には目指していた神社に着き、そこで夜通し籠もって祈りをささげ、そうして翌日の夜には木原山に戻って来ることができました。

白縫は、このとき以来、妊娠の兆候を示すようになりました。翌年の秋には、健康な男子を出産しました。産声があがった瞬間に、この屋敷の屋根に老いた丹頂鶴(たんちょうづる)がとまり、澄み渡った声で三度鳴きましたので、みなはまことに縁起がよいと喜びました。

この子は、舜天丸(すてまる)と名づけられました。

為朝は、新院の預言を思い出しました。「この子が、『異国の王』となるのか?」

この預言は、白縫と紀平治にしか教えられませんでした。まことに得体の知れない言葉ですし、みなに教えたって、変に戸惑わせてしまうだけでしょうしね。

この木原山は海・山・荒野に囲まれており、九州の支配者の目をのがれて潜伏するには格好の場所でしたので、その後も為朝たちはここに潜み、舜天丸(すてまる)を育てながら、何年も暮らしを続けました。支配者たちには居場所を隠せても、近隣住民はいつしか為朝たちに気づき、彼を慕ってこっそりと食べ物などを運びづつけました。

これは余談なのですが、為朝が木原山に住みだしてからは、空を飛ぶ(がん)たちがこの上を飛ぶことを避けて通るようになったそうです。後に、この山は「雁回山(がんかいさん)」とも呼ばれることになったそうな。


さて、場面は変わって、凧に縛られて捨てられた朝稚(ともわか)があれからどうなったかという話をしましょう。彼は、下田の浦で、為朝の計画通り、梁田(やなだの)時員(ときかず)に救出されました。奇跡的に、朝稚(ともわか)は全く傷を負っていませんでした。

時員(ときかず)はこの子になにも教えず、その場で烽火(のろし)を上げて何者かに合図をすると、朝稚(ともわか)を背負ってひたすら走り続け、数日後に下野(しもつけ)足利(あしかが)義康(よしやす)の屋敷に到着しました。

義康(よしやす)「よくぞ戻った。その子が、それか」
時員(ときかず)「はい。為朝どのはこの子を捨て、それを私が拾って連れて参りました。この子は朝敵(ちょうてき)の子ではない、という名目をつくるためでございます」

時員(ときかず)は、この子の素性を示す証拠として、為朝に預かった鐺返(こじりかえし)の短刀を提出しました。

義康(よしやす)「うむ、よくやってくれた。朝稚(ともわか)くん、きみは今から私の子だ。為朝(ためとも)どのに私が頼んで、もらいうけたのだ。よろしくたのむ」

朝稚(ともわか)は、幼いながらにやっと、何が起こっているのかを理解しはじめました。「父上は、怒って私を捨てたわけではなかった」

時員(ときかず)「そうだ。これは為朝どのが優しさで行ったことなんだ。恨んではいけないよ」

朝稚(ともわか)は、父母や兄に別れを言えなかったことを非常に悲しく思いました。みなのこをと思って目に涙が湧きかけましたが、次の瞬間、自分はしっかりしなくてはいけないのだという気持ちが急に全身にみなぎりました。

朝稚(ともわか)「わかりました。時員(ときかず)さま、ここまで連れてきていただき、ありがとうございました。義康(よしやす)さま、どうぞこれからよろしくお願いします」

時員(ときかず)「(おっ、腹を据えたな。さすが為朝どのの子だ。彼は偉くなるぞ…)」

義康(よしやす)は翌日、家来たちを集め、朝稚(ともわか)のことを紹介しました。ただし、為朝の子であることは、時員(ときかず)しか知らない秘密です。

義康(よしやす)「わたしも50を超えてしまったし、もう実の子は望めない。実は私には隠し子がいて、七年前に山で狩りをしていたころ、里の女子に生ませてしまった子なのだ(彼女はすぐ死んでしまった)。恥ずかしい話ではあるが、今や彼だけが私の子なのだから、こうして家に迎え入れて、ゆくゆくは私の跡継ぎとすることとしたい」

家来たち「うわー、めでたい! なんだお子様がいたんじゃないですか、義康(よしやす)さま。心配してたんですよ」

こうして、吉日に披露の儀式が行われ、朝稚(ともわか)は正式に足利家の嫡子となりました。

しかしこの直後に、大島で起こった戦乱のウワサがここにも聞こえてきました。それによると、為朝とその一族がみなそこで死んだというのです。朝稚(ともわか)はさすがに憔悴し、しばらく人前には出ませんでした。

義康(よしやす)は大いに同情し、こっそり法事を行わせました。その後、彼には最高レベルの教育を惜しみなく与えつづけました。朝稚(ともわか)は文武ともに人並み外れた才能を持っており、それらは次々と開花していきました。養父への孝行ぶりも評判が高く、やがて足利の跡継ぎの風格が確かなものになっていきました。

月日は流れ、朝稚(ともわか)は13歳になりました。時が経っても、彼が為朝(ためとも)簓江(ささらえ)の死を悼む気持ちは変わっていません。あるとき、梁田(やなだの)時員(ときかず)を連れて、足利の八幡神社に参拝し、「夢の中でよいから、もう一度、父と母に会いたい」と強く念じました。

念じている途中に、不思議と朝稚(ともわか)は強い眠気を感じて、一瞬だけウトウトしてしまいました。そのとき見た夢の中で、彼はひとりの童子に話しかけられました。

童子「大神(おおみかみ)(みことのり)です、よく聞いてね。ここに(ぬさ)があります。これが倒れた方向に進んでいくと、父には難しいんだけど、母には会うことができるよ。すぐお行きなさい」

朝稚(ともわか)がハッと目をさますと、夢で見たのと同じ(ぬさ)が、ヒザの上に置いてあります。((ぬさ)ってのは、神主がよく振り回しているアレです)

時員(ときかず)もなぜか朝稚(ともわか)の隣で眠っていました。朝稚(ともわか)が揺り起こして自分の見た夢のことを話すと、時員(ときかず)もまた同一の夢を見たということでした。

時員(ときかず)「これはただの夢じゃなさそうですね。あなたの祈りが神に通じたんですよ、きっと」

朝稚(ともわか)は夢中で屋敷に帰り、養父の義康(よしやす)に事情を説明しました。義康(よしやす)は彼の思いが起こした奇跡に驚き、ぜひその夢に従いなさいと勧めました。

義康(よしやす)「表向きには、お前は病気で引っ込んでいるのだと説明しておく。その間に旅をしなさい。供には、時員(ときかず)だけを連れて行きなさい。人目も忍ぶ必要があるだろうし。神に守られて旅するのなら、たぶん無事だと信じよう」

義康(よしやす)は、当面の路銀と、もうひとつ、鐺返(こじりがえし)の短刀を朝稚(ともわか)に手渡しました。

義康(よしやす)「これは、お主の父から預かっていたものだ。親と名乗りあうときに、自分の正体を示すにはこれが一番だろう」

朝稚(ともわか)「ありがとうございます!」


こんなワケで、朝稚(ともわか)時員(ときかず)は、笠を深くかぶって屋敷を出て行き、旅を始めました。最初に出た道で(ぬさ)を立ててみると、これはパタリと西の方向に倒れました。

朝稚(ともわか)「まずは西だ」

この後も、分かれ道があるたびに、(ぬさ)を立てて倒れる方向を確認し、これに従って行く道を決めました。山を越え、海を渡り、二人は(ぬさ)に導かれてどんどんと進み…

そしてやがて、九州の肥後と阿蘇の境のあたりまで到着しました。


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