58. 長い留守
■長い留守
小文吾がよじ登った荷船の長は、依介でした。
(ああ、あの依介か! とすぐ分かった人の記憶力はすごい。依介は、妙真たちが安房に旅立ったときにお供について行った使用人ですよ)
依介「いったいどうしてこんなところで溺れかけていたんです」
小文吾「話はあとだ。頼む、前方の小舟を追ってくれ。あれはオレの命の恩人なんだ」
依介「わかりました。みんな、全速力で漕げ! この人が、あの犬田小文吾さんだぞ!」
船はスピードを上げ、向こう岸にいる千葉家の追っ手たちも次第に見えなくなりました。それでもなお、毛野をのせて流れてゆく小舟とは距離を詰められず、やがて完全に視界から失われてしまいました。
依介「うーん、この船は荷物を満載していますから、あの軽い小舟にはちょっと追いつけそうにないですね… これ以上追っても無理っぽいです」
小文吾「そのようだな… 仕方がない。がんばってくれてありがとう」
依介「この件はあとで考えることにして、まずは一緒に市川に戻りませんか。積もる話もあります。小文吾さんがいない間にいろいろありましたし、あなたのことも聞きたいです」
小文吾「いろいろあったのか」
依介「はい、しかし大きな声で言えないような話もありますから、続きは戻ってからにしましょう。お疲れでしょうし、どうぞ朝食を食べてください。船の上ですから簡単なものしかありませんが」
依介の船は、やがて市川について、荷物を荷主に無事引き渡しました。この船は、干しイワシを千住に届けて、豆を運んで返ってきた輸送船だったのです。依介の商売はなかなかうまくいっているようでした。
依介は犬江屋(妙真と房八のいた家)に入っていくと、「水澪よ、お客人だ、茶をいれてくれ」と中に叫びました。
小文吾「お前がここを仕切っているのか。義母上(妙真)や親兵衛は今どこにいるんだ」
依介「はい、私がここの経営を妙真さまに任されたのです。いろいろ説明するために、順を追って話していかなければいけません」
小文吾が知っているのは、この「まとめてみる」の39話目くらいまでです。妙真、親兵衛、丶大法師、蜑崎照文たちをここに待たせて大塚に旅立ってから、ここで何があったのかは全く知りません。下のような要点を、まず依介から聞かされました。
○ 信乃・現八・小文吾が旅立ってからなかなか戻らないので、丶大法師が大塚に様子を見にいった。その後、今まで消息がわからない
○ 舵九郎が色々イタズラして邪魔なので、妙真と親兵衛が照文に連れられて安房に避難することになった。依介もお供した
○ その途中、舵九郎に襲われて、親兵衛が殺されそうになった。しかし謎の雲が現れて舵九郎を殺し、親兵衛は神隠しにあった
小文吾「親兵衛が!?」
依介「妙真さまは非常に悲しみましたが、ともかく残った私たちだけで安房に行きました」
依介「文五兵衛さまは、このことを皆さんに伝えるために大塚に渡りました。そこで、額蔵(犬川荘助)が処刑される寸前に、三人の義士がそれを奪取するという事件があったことを知りました。その後、すくなくとも額蔵と犬塚信乃という男がつかまり、さらし首になったという続報がありました」
小文吾「ああ、そのさらし首になった二人は、本当は力二郎と尺八というのだ。オヤジ(文五兵衛)は驚いただろうな」
依介「はい、あとになって、あの首はニセモノだったというウワサも流れてきましたが、それまでは文五兵衛さまはひどく憔悴していました。そのまま安房にこのニュースを持って帰ったのです。安房の妙真さんは、今も本当に心配していますよ」
小文吾のほうでも、自分自身が今まで何をしていたのかを依介に語りました。庚申塚で犬川荘助を救った件、その後犬山道節の敵討ちに巻き込まれて戦った件、その後荒芽山で戦った件、さらにその後、馬加大記に軟禁されて、犬阪毛野という男に助けられた件…
小文吾「そして、さっき舟を追いきれずにはぐれてしまった男が、その毛野なのだ」
依介「大変な冒険を切り抜けてこられましたな… 無事で本当によかったです」
小文吾「さて、ここまで来たのだから、オヤジにも会いにいかなくては。いまはどこにいるんだい。行徳かい。それとも安房なのかな」
依介「…」
小文吾「おい、どうした」
依介「まだ話には続きがあるのです。順に説明しますから、最後まで聞いてください。また、お気を強く持って聞いてください」
小文吾「な、なんだよ…」
依介「里見の殿様は、蜑崎照文様から、ここ行徳と市川で起こったことを詳らかに知らされ、犬士たちと丶大法師さまの安否をおおいに心配されました。そして、あらためて屈強の兵たちを照文さまにつけると、捜索隊を編成したのです」
依介「文五兵衛さまも捜索隊に加わりたがりましたが、殿は老身をいたわってそれを許さず、安房で静かに妙真さまと隠居するようにすすめました。文五兵衛さまはそれを受け入れました」
依介「文五兵衛さまと妙真さまはしばらく相談していましたが、やがて私を呼ぶと、妙真さまは私を養子にし、犬江屋を継がせるとおっしゃいました。また、姪の水澪を嫁に取らすともおっしゃいました」
依介「私は身に余る話に胆がつぶれるほど驚いたのですが、文五兵衛さまにも説得され、ありがたくこのご厚意を受け入れることにしたのです」
依介「文五兵衛さまは、ご自分の古那屋は売り払ってしまいました。小文吾さんは武士となるのですから、もう宿屋はいらないだろうとのことです。文五兵衛さまは、店を売ってできた150両のうち、50両を供養や施しに使いました。10両は私にくださり、その残りを小文吾さんに渡せとことづかっています。あとで、水澪が持ってきます」
小文吾「…そして、オヤジは?」
明らかに依介は、一番言いたくないことを最後に残しています。小文吾はこれ以上聞くのがつらくなってきました。
依介「文五兵衛さまは、その後、安房で寝たきりになりました。ずいぶん色々なことを体験した疲れが一度に出たのでしょう。里見の殿もいろいろと医者をつけてくれましたが、一向によくなりませんでした。ただ、まったく苦しそうな様子はなかったのだそうです」
依介「やがて危篤の知らせを受けて、私も安房に飛びました。最後に文五兵衛さまが枕元の私と妙真さまにおっしゃったことは…」
「息子の小文吾も、孫の親兵衛も、今は行方不明だが、伏姫の霊に守られた八犬士なのだから、必ず無事でいることだろう。たとえ鬼神でも、彼らを害することはできまい。そして犬士が八人そろったときには、里見に仕えて名を挙げること、疑いない。わたしはここで、ずいぶんよくしてもらった。穏やかな最期を迎えられて幸せだ。悔いはない。小文吾があとで親の末期に会えなかったことを悔やむだろうが、まあいいからって言ってやってくれ」
依介「これがオヤジ様のさいごの言葉でした。眠るような安らかな死に顔でした」
小文吾は、話の途中からもう涙が止まりません。
小文吾「…オレは親不孝者だ! チンタラほっつき歩いて、親の死んだことも知らなかったなんて…」
依介「仕方なかったことですよ。文五兵衛さまの死後、里見どのは手厚く供養をしてくれました。四十九日を終えてから、私はここに戻ってきて商売をはじめたのです。残された妙真さまは本当に心細そうでした…」
そこに、依介の嫁の水澪が、包んだお金を持って部屋に入ってきました。
依介「おお、ありがとう。小文吾さん、これがオヤジ様から預かったお金です。100両あります。中を検めて、受け取ってください」
小文吾「うん、一年前に照文さまからもらった路用がたくさん残っており、特にお金には困っていないのだが、親の残してくれたものだ、ありがたく受け取ろう。このうちの10両は、依介のものだろう。ほら」
チャリン
小文吾「そして、さっき助けてくれたお礼に、オレからあらためて10両」
チャリン
依介「そんなにいりませんよ!」
小文吾「いいんだよ、取っておいてくれ。そこにいらっしゃるのは、水澪さん、でしたっけ。どうかこの家を支えてやってくださいね」
水澪「は…はい! ありがとうございます」
小文吾「さあ、俺は、オヤジの供養のための四十九日をここで済ませたら、また旅に出る。仲間の犬士たちを探さなくてはいけないし、任された曳手さんと単節さんのことも探さなきゃ」
依介「えっ、安房には寄らないのですか? 妙真さんに会ってあげないのですか? 里見殿も、犬士たちに一目会いたいと言って、首を長くして待っているんですよ」
小文吾「女性たちを守るという友との約束も果たしていないのに、親の墓参りがしたいという程度の理由で、おめおめと安房に行けるはずがない。やるべきことをなし終えて、八人みんなそろった上ではじめて、里見殿にも見参できるというものだ。義母上には、小文吾が無事なことだけ伝えてくれ。ただし、オレがここを旅立った後にな。(今伝えたら、捕まえに来かねないからね…)」