72. 道節、甲斐の国主を感動させる
■道節、甲斐の国主を感動させる
蜑崎十一郎照文は、信乃といっしょに助け出してきた浜路のことを、「浜路姫」と呼びました。
信乃「姫って、どういうことなんです」
道節「おお、それを聞いて思い出した。照文どの、言われたとおり、彼女が拾われたときに着ていたという衣装も、ドサクサ紛れにもらって帰ってきたぞ」
照文「うん、ありがとう。一緒にこれを見ながら説明しましょう。(衣装を受け取って)そう、これです。笹竜胆の紋のついた、この服。いやあ感動です」
信乃「これが、彼女の素性を示すものなんですか?」
照文「そう。笹竜胆は、里見の副紋です。彼女こそは、里見義実朝臣の長男である、安房守里見義成朝臣の五女、浜路姫ですよ」
里実義実は、もう引退して国主の地位を息子の義成に譲っていますが、浜路はその義成の五人目の娘だというのです。
照文「証拠はこの紋だけではありません。姫の右の耳たぶにはほくろがあるはずなのですが、さっきチラ見したところ、確かにあの方にも同じほくろがありました。もうひとつ。浜路姫は、三歳のときに巨大なワシにさらわれて行方不明になっていたのです。夏引と泡雪の密談の中にも、このワシのエピソードが入っていました。ここまで符合するからには、もう疑いの余地はありません」
信乃は驚愕しました。「里見どのの姫だったのですか… さぞやお探しになっていたのでしょうね」
照文「もちろんですとも。しかし、何かが見つかるにしても、まず生きてはいないだろうと考えられていました。ですから、付き人たちは悲しみのあまり出家してしまい、浜路姫を産んだ蘆橘様はショックで寝込み、やがてお亡くなりになってしまったのです。本当にお痛ましいことでした。蘆橘さまは、結城の戦いで討死にした、井直秀どのの従弟の娘にあたる人でした」
信乃の驚きはさらに倍増しました。「では、浜路どのは、井直秀どのの親戚ですか!」
信乃は、自分と井直秀の関係をその場のみなに説明しました。彼は、信乃の母方の祖父にあたるのです。さらに、浜路を拾って育てた四六城木工作は、井直秀の家来の息子でした。
照文「なんと、なんと、奇なる縁だ!」
道節「不思議な縁といえば、浜路姫と、オレの妹だった浜路のこともだ。信乃の許嫁だった浜路が円塚山で殺されたとき、オレは救うことができなかった。そして今日は、同じ名前の浜路姫を救うことになるとはな」
照文「まるで糸を手繰るように、人々がつながっていく。犬士たちを中心に、運命づけられた人が次々とつながっていく…」
丶大「なんかもう、このままずーっと待ってるだけでも八人の犬士が勝手に揃いそうな勢いだね。勝手にいろいろ集まってくる感じで」
照文「や、そういう、お話を先読みするような発言はいかがかと…」
関係が妙に複雑になってきましたが、まあここは、「登場人物が意外なところで親戚関係だったり主従関係だったり、または名前が似ていたりしていろいろフシギ」という程度の理解でいいでしょう。
丶大「これらの話は、ぜひ浜路姫本人にも伝えよう。さっきから薬を飲んで別室で休んでもらっているが、そろそろ落ち着いたと思うので、改めてあいさつしよう」
照文が、姫の容態を確認しました。大丈夫そうです。ふたりの犬士が姫のもとに見参しました。
信乃「よかったですね浜路姫、故郷に帰れますよ」
浜路「ありがとうございます。しかし、正直、不安です。私がそんな身分だなんて言われても、田舎育ちの私が今さらうまくやっていけるわけがないわ。母上も私がさらわれたときに亡くなってしまったと聞きますし… ずっと木工作お父様が本当のお父様だったほうがよかった。ねえ丶大法師さま、もう私は世の中がいやになりそうです。いっそ私を尼にしてくれませんか(涙)」
丶大は少し考えると、小坊主の念戌を呼びました。
丶大「この念戌君が、偶然あなた様の素性を知る手がかりを見つけたので、今回のように犬塚どのと浜路さまを助け出すことができたのです。禍福はあざなえる縄のごとしです。この運命を受け止めましょう。お気を強くもちましょう。ね」
浜路「はい…」
丶大「さあみんな、今後のことを考えましょう。犬山どのの作戦は成功しましたが、遅かれ早かれここに追っ手がくることは容易に予想されます。みんな、この土地から速やかに去りましょう。照文どのは姫を安房まで送ってください。犬士たちも逃げるのがいいでしょう」
道節「オレだけは、もうすこしここにいて、甲斐の国主に会うつもりだ」
照文「むむっ、それはなぜ」
道節「オレは代官に変装して容疑者である信乃たちを奪った。ここまま去ったのでは勇士じゃない、ただの詐欺師だろ。ちゃんとここのボスに説明して、こちらの正義をわかってもらわなきゃな。万が一分かってもらえなかったら、仕方ないからひと暴れするまでだ」
信乃「うん、自分もそれに賛成だ」
浜路「じゃあ、それが済むまで私も残ります」
丶大「姫。姫はすぐに安房に行きましょうよ。これから危険になるんですよ。もしも何かあったら、殿も悲しむし、私がものすごく後悔します」
浜路「いいえ、そのような危険を犬士たちに任せておきながら、私だけがここを去ることはできません。彼らの仕事が終わったら、堂々と父上(木工作)の遺骨を貰い受けて安房に行こうと思います」
照文「(すごいな、いきなり姫の風格が出てきた…)」
丶大「わかりました。姫がその覚悟なら、みなでつきあいましょう」
さて、甲斐の家臣、甘利兵衛尭元があれからどうしたかに話を移します。木工作殺しの罪を信乃に着せようとした罪で夏引と出来介を牢屋に入れると、事件の経緯を国主の武田信昌に報告しました。
信昌「ほう、家臣の泡雪奈四郎はそんな悪人だったのか。さっそく逮捕しにいってくれ。そうしたら、犬塚信乃と浜路を奪還した曲者についても手がかりが得られるかもしれん」
甘利「はっ」
しかしそのころ、泡雪たちは屋敷を捨てて逃げてしまっていました。手下の幮内が村を偵察にいっていて、そこで夏引と出来介が捕まったことを知ったからです。
幮内「泡雪さまが木工作を殺したことも、すべて吐いたようですよ」
泡雪「いかん、それはヤバイ。もうここにはいられないぞ。お前ら、すぐに逃げる準備をしろ」
その夜のうちに主従三人は甲斐から武蔵を目指して出発し、明け方にはもう篠子嶺のあたりまで到達しました。しかし、泡雪はひとつ忘れ物をしたのに気づきました。
泡雪「そうだ。お上に納める予定だった30両を、タンスの中にしまいっぱなしだったじゃないか。大金だ。捨てていくのは惜しい。おい、お前らのうちどちらか、行って取ってきてくれよ。30両のうち10両やるから」
媼内は知らん顔をしましたが、幮内が勇んで手を挙げました。「オレが取ってきます」
そうやってやがて泡雪の屋敷まで戻ってきて、さっそくタンスを物色しはじめましたが… そこに甘利の捜査隊が待ち伏せていました。「泡雪の手下がいたぞ! 捕らえろ!」
こんなわけで幮内もあえなく捕まり、泡雪の行なったことを洗いざらい白状させられてしまいました。その内容を、あらためて甘利は信昌に報告します。
甘利「泡雪はかなり遠くに逃げてしまいました。今から追うのは難しいでしょう」
信昌「うーん残念だ」
甘利「夏引と泡雪が密談したのは、石禾の指月院という寺だそうです。曲者は、ここでその密談を聞き、無実の罪に陥れられた信乃たちの奪還を計画したのだと思われます。調べてみましたが、今でもその寺には浪人風の武士が数人滞在しているようです」
信昌「なるほど、そこが怪しいな」
甘利「私が行って曲者たちを捕らえてきます」
信昌「いや、私が行こうと思う」
甘利「えっ!」
信昌「彼らを逮捕する必要はないと思うのだ。もともと悪事を働いたのはウチの泡雪だしな。たしかに代官の名を騙った罪はあるが、これも、泡雪のような者ばかりがウチの家臣にいるかもしれないと考えてのことなら、無理もない。だから、そうではないことを示すためにも、私みずからが行って彼らと話をしたい。勇士たちへの礼儀だ」
甘利「あ、危ないですよ。相手にどんな野心があるかまだ分かりません」
信昌「私の直感では、そこにいる者たちはとんでもない逸材だ。家臣とすることができれば、比類なく頼もしいことだろう。だから、国主みずからが三顧の礼で彼らに接しなければならないのだ(ニコニコ)」
こんなわけで、国主である武田信昌は、鷹狩りと称して外出し、ふらっと指月院を訪ねました。(一応、甘利と三十人くらいの兵も後ろに連れています)
信乃・照文「げげっ、役人じゃない、国主みずからが来ちゃったよ。どういうつもりだろう」
道節「ははん、面白くなってきたじゃないか。受けて立とう。丶大様を中心にしてオレと信乃が横につく。それで堂々と議論してやろうぜ」
こんなわけで、三人は寺を出ると、しずしずと国主の前に出て挨拶しました。
信昌「やあ御住職。となりのお二人を紹介してくださらんか」
丶大「武蔵の浪人、犬塚信乃と犬山道節です」
信昌「犬塚信乃とは、さきに四六城木工作の殺害容疑をかけられた信乃という男のことか」
信乃「さようでございます。先に思わずも泡雪奈四郎どのに憎まれて、無実の罪に陥れられそうになったところを、親友に助けられました」
信昌「親友とは、お隣の犬山道節どののことか」
道節「さようでござる。信乃とは義兄弟の仲。夏引と泡雪のたくらみを思いがけず知ることになったので、まずは国主に信乃の無実を訴えようと考え申した。しかし信乃の相手は国主の家臣。どのようにして訴えが握りつぶされないものとも限らん。よって、緊急の手段として私が代官に変装し、出来介という男をだまして信乃たちを奪取いたした。これが罪とはもちろん承知していたが、罪なきものを罰する悪政にくらべればずーっとマシと考え、あえて決行したのでござる。その上で、なお罪あらばそれを堂々とつぐなうため、我々はここに残ってお待ち申していた」
信昌はこの道節の返答に感動しました。「権力を恐れず、たくさんの敵にひるまず、困難に背を向けないこの堂々たる様子。まことの豪傑と見た!」
信昌「なに、私がここに来たのは、お主たちの罪を問うためではないのだ。私の家臣が悪事を働いたのは、単に私の徳が至らなかったからだ。犬山どのたちが、私の落度を補ってくれたとさえ考えているくらいだ。お二人よ、うちの家臣になってくれ。私の心からのお願いだ。ご住職、どうかあなたからも説得してやってくれまいか」
丶大「さすがでございますな。武田どのは人を見る目がある。この二人にとっても幸いなことです。しかし… この二人には事情があって、まだ仕官はできないのですよ」
信乃・道節「(頭をたれて)罪を許されるばかりか、家臣として招かれるとは、ありがたき幸せ。しかし、私どもにはまだ見ぬ義兄弟たちを探すという宿願があります。これを果たすまでは、たとえ一国を頂いたとしても、お仕えはできないのです。ご免くださいませ。望むものは、身の暇、これのみです」
信昌「そ、そうかあ。じゃあ、せめて一年くらいはここに滞在してよ。その間、ときどきご馳走に招待するからさあ」
信乃・道節「私どもは田舎者でして、美食はどうも合いませぬ。しかしせっかくのご好意に甘えて、いくつかお願いをしてよいでしょうか」
信昌「なに、なに! 何でも言って」
信乃・道節「木工作の養女である浜路は、もとの故郷が分かったのでそこに帰るのですが、木工作の遺骨を持って帰っていいでしょうか。もうひとつ、木工作の親類を探して家督を継がせてやってほしいのです」
信昌「それだけ?」
信乃・道節「それだけです」
信昌「もちろんいいとも。簡単なことだ。甘利に言っておく。今日はすばらしい男たちに会えて幸せだ。また来るからね。また来るから、勝手にどこかに行っちゃわないでよ! 絶対に!」
こうして、信昌は名残惜しそうに城に帰っていきました。