73. たのしい牛相撲
■たのしい牛相撲
甲斐の国主、武田信昌は、正義をわきまえることのできる人物でした。指月院で会った犬士たちにたちまち惚れ込んだので、城に戻ると自分が見聞きしたことを家臣たちに伝え、道節たちの罪(役人の名を騙った罪)を公式に免除しました。また、信乃に殺人の罪を着せようとした夏引と、泡雪の手下の幮内(たまたま捕まえた)を死刑と決めました。(夏引を手伝った出来介は、何をしているのかをよく知らずに夏引を手伝っていただけなので、ムチ打ちの上国外追放で済ませました)
また、信乃たちの頼みに従い、木工作の親戚を見つけ、もとの屋敷と家督を継がせました。
信乃「さあ、これですべて片付きましたね。浜路姫は安心して安房にお帰りください」
照文「当初の予定通り、わたしが安房までお供していきます」
道節「さっきの気配から思うに、たぶん、武田殿は、我々を家臣に迎えようとして、これから色々ともてなしてくれるだろう。それを言われるままに受け入れていては恩がたまっていき、簡単に頼みを断れなくなってくる。だから我々もすぐに出発したい」
丶大「それがいいね。私ひとりがここに残って、武田殿によろしく言っておきます。また、旅に出ている犬川荘助どのが帰ってきたときも、今までの事情を伝えないといけないしね」
こんなわけで、翌日の早朝、浜路姫のカゴと照文、信乃、道節が指月院を去って東に旅立っていきました。照文の率いる犬士捜索隊のうち、数人の兵が丶大のもとに残されました。
武田信昌の使者、甘利尭元が、犬士たちへの贈り物を山ほど持って指月院を訪ねてきたのは、これから3日後でした。
甘利「…えっ、もう旅立っちゃったんですって!」
丶大「はい、みんな、浜路どのを送って出ていきました。犬塚どのと犬山どのは、それが済んだら人探しの旅に戻ります。ここには帰ってきません」
甘利「そんなあ。じゃあ、この贈り物、せめてご住職が預かってくださいよ。銀10枚と衣装、その他諸々です」
丶大「拙僧は、こういう高価な布施は一切いただかないのですよ。ごめんね。察してね」
甘利は仕方なく贈り物を城に持ち帰りました。
武田信昌「うああ、逃がしてしまった。チート級のウルトラレア家臣を逃がしてしまった。しかも2人も! きっと、プレゼント攻勢で義理を作る作戦が見抜かれてしまったんだ。こんなチャンス、一生に一度あるかないかなのに。うああ! 優れた男を家臣にするほど難しいことはないものなのだなあ…(ため息)」
信乃たちの人物を見抜くことができただけに、却って国主の無念も思いやられますね。
さて、逃亡中の泡雪奈四郎(と、手下の媼内)に話を移します。彼らは今は八王子のあたりまで到着していました。
しかし、忘れものの金をとりに行かせた幮内がちっとも追いついてきません。八王子で5日ほど待ってみましたが、なんの音沙汰もありませんでした。
泡雪「あいつめ、しくじりやがったな。ちくしょう、こんなところで時間を無駄に使っちまった… 仕方がねえ。これからどこに行ったものか」
媼内「鎌倉は戦のためにひどく荒れているといいます。だからそっちはやめて、陸奥のあたりに向かえば、裕福な領主も多いと思います。大崎まで行けば、私の昔の主君もいますし」
泡雪「ふん、じゃあそうしてみるか」
こうして主従は北に歩を進めました。しかし、途中、四谷のあたり、林を通り過ぎている途中で、媼内は突然泡雪に斬りかかりました。
泡雪「(傷をおさえて)何をする!」
媼内「…へっ、お前の命運もこんなもんだったな。落ち目になったボスにこれ以上仕えていたって仕方ねえ。俺は勝手に俺の道を行かせてもらうことにするぜ。だから、今までの退職金として、お前の有り金をいただいていくのよ」
泡雪「てめえ! この恩知らずが。今に天罰がくだるからな」
媼内「ギャハハハ! 言うに事欠いて、何が天罰だ。お前のやってきたことこそ、天罰テキメンじゃねえか。バーカ!」
媼内は泡雪にトドメを刺そうとしましたが、付近に人の気配を感じたので、泡雪のサイフだけを奪うと、とっとと逃げていきました。
重傷を負った泡雪奈四郎のもとに通りがかったのは、浜路姫を安房に送ろうとする、照文たちの一行でした。信乃と道節もいます。信乃が集団から離れて先頭を歩いていました。
泡雪「てめえ、戻ってきやがったな、媼内め。殺してやる」
信乃「むっ、誰… あっ、お主は泡雪奈四郎」
泡雪「そういうテメエは、犬塚信乃か! チクショウ、お前のせいで、この俺は! この俺は! うおおお」
泡雪が最後の力を振り絞って信乃に斬りかかってきたので、信乃はこれをかわして刀を奪い、それを使って泡雪の首をはねました。そこに、照文や道節も追いつきました。
道節「これは?」
信乃「この男が泡雪奈四郎ですよ。逃亡中だったのでしょうね。媼内が云々と叫んでいましたから、おおかた、手下に裏切られてここで金を奪われたのでしょう」
照文「悪人には天罰が下るものですな。…むっ、これはちょうどいい。この男は、木工作を殺した張本人であり、浜路姫のカタキではないですか。浜路姫は、養父の遺骨と、カタキの首級をもって故郷に帰ることができる。すばらしい」
浜路姫も、これを喜び、父のカタキを討ってくれた信乃に感謝しました。
やがて一行は、隅田川に着きました。ここを渡れば里見の領地にほど近く、もう安全といっていいでしょう。
信乃・道節「ではここで、いったんお別れです。残りの犬士たちがすべてそろったら、私たちも安房に見参しますからね。照文どの、あとはよろしく頼みます」
こうして浜路姫は、無事に実の父である里見義成のもとに帰ることができたのでした。義実・義成たちと近習たちの喜びようは、ここでクダクダしく書くまでもありませんから省略しましょう。浜路姫は、甲斐であったすべてのことを父親たちに詳しく語り、犬塚信乃と犬山道節の功績を言葉を惜しまず称えました。(ただし、信乃の許嫁であった浜路の霊が彼女に乗り移って云々、という部分だけは、ささやかな秘密として胸にとどめ、誰にも話しませんでした…)
ここでいったん信乃たちの話に切りをつけ、犬田小文吾がどうしているかを見てみましょう。
彼は、石浜の馬加大記の屋敷で命を救ってくれた犬阪毛野(やほかの犬士たち)を探して日本全国をまわるという雑な誓いを立てました。そうして各地をウロウロしていましたが、あるとき、下田から伊豆に行こうとして、乗った船が三宅島まで流され、そこで一年足止めされました。たまたま船が近くを通ったのでそれを捕まえ、やっと三宅島を逃れて大阪に着き、そこから有馬温泉に行って体を休めました。(サラッとこんな風に書かれていますが、何やってるんだ小文吾は!?)
その後は北陸道をメインに歩き回り、やがて越後の小千谷というところに着いたのですが、ここの宿の主人と小文吾は、やたらと気が合いました。主人は大変な相撲ファンだったのです。小文吾が相撲の達人であるらしいことは、体つきを一目みればすぐ分かりました。主人自身も、若いころはなかなか強い力士として有名だったのです。
次団太(宿の主人です)「若いの、もう出ていくのか。もっと泊って行けよ」
小文吾「人を探す旅をしてるんですよ。あまり一か所に留まっているのも…」
次団太「長い旅なんだろう。少しくらいいいじゃないか。明後日は、ここの郡の名物、牛相撲の神事もあるんだぜ。相撲人として、あれを見ないのは後悔するぞ」
小文吾は興味をおぼえました。「へえ、牛相撲ですか。それはどんなものなんです」
次団太「文字通り、牛と牛とを、角をあわせて闘わせるんだ。飼い主たちは、この日のために前々から牛にいい餌を食わせて、毛並みをキレイにして、飾りをつけさせて、とにかく万全のコンディションで臨むんだ。ここで立派な相撲を見せることは名誉なんだ。全力で押し合って戦う牛の迫力は、それは大したもんだぞ。見物客が観光バスで続々と押し寄せるからなかなかいい場所では見られないが、オレのコネでいい席を確保してやる」
小文吾「なるほど、それは見応えがありそうですね。ぜひ見ていきます」
すぐに神事の当日が来ました。はじめは次団太が小文吾を案内するつもりだったのですが、この日の朝、次団太にケンカの仲裁の依頼が舞い込んでしまいました。次団太は宿屋の主人であると同時に、ここらの治安も受け持っているのです。
次団太「すまん客人、オレには仕事が入ってしまった。弟子の磯九郎に代わりに案内させるよ」
小文吾は磯九郎に連れられて牛相撲の会場に行きました。道を歩いて、川を渡って、何里も離れたところが会場でした。祭りのためにオシャレをした見物客や物売りがたくさん集まり、たいへん華やかな雰囲気です。
そこで小文吾たちはよい席にむしろを敷いて、次々と闘わされる牛相撲を観戦することができました。番付が下の牛から取組が始まり、だんだんと小結、大関といった格上の牛たちが出てきました。少し離れた場所からも、角をぶつけるゴン、ゴンという音が響き渡り、たいへんな迫力でした。時々、興奮しすぎた牛が、倒した対戦相手をさらに攻撃して殺そうとすることがあり、そうすると飼い主やほかのスタッフが一斉に牛に組み付いてこれを制止しました。この様子もまた神事の名物だということでした。(特に、睾丸を強くにぎると牛がおとなしくなったそうです)
小文吾「これは勉強になるなあ。実に面白いものだ」
磯九郎「さあ小文吾さん、いよいよ次が結びの一番ですよ。逃入村の角連次のところの黒牛と、虫亀村の須本太のところのブチ牛です」
牛相撲では、牛の名前を飼い主の名前で呼びます。黒牛の角連次は、びろうどのようなツヤのある毛と、剣のように長くて鋭い角を持った巨大な牛でした。また、相手の須本太はさらに大きく、体中のブチ模様が竜のウロコを連想させます。
磯九郎「あの須本太は、竜種だってウワサですよ。すなわち、牝牛が竜とつがって生まれた牛なんだそうで。飼い主が国主に差し出すのを拒否したという逸話まである、とにかくとんでもない怪物なんです。みんな今日は、こいつだけを見に来たようなもんでさあ」
小文吾「へえー」
取り組み直前に、少しスタッフが揉めていました。「須本太が本気を出すと、何が起こるかわからない。非常に危険なのでやめさせよう」という意見と、「こいつがメインイベントなのだから、出さずには皆が納得しない」という意見が対立していたようです。最終的には、「もしものときには、スタッフ総出で須本太を止めるから」ということになり、ついに注目の試合が決行されることになりました。
このようにして角連次と須本太の闘いは始まったのですが、しばらくは両者ともにらみ合っているのみでした。やがて角どうしをぶつけはじめると、首が折れるのではないかというほどの激しい衝突戦となりました。両者とも水を浴びたように汗に濡れ、ひづめは地面にめり込みました。観客は、今までと段違いの迫力に熱狂しました。
角連次が先に疲れ、戦意を喪失しました。「よし、勝者は須本太だ! 闘いを止めさせろ!」
牛の飼い主と数十人のスタッフ、さらにはほかの牛の飼い主たちが一斉に須本太に取りつきました。しかし須本太は非常に興奮し、それらの人たちをいとも簡単に振り払いました。角連次は控えの小屋に避難しましたので、これを見失った須本太はますます怒り狂って暴れ始めました。出店や舞台が暴れ牛に壊され、パニックが始まりました。だれも須本太を止めることができません。
磯九郎「うわあ、こいつはひでえ。小文吾さん、逃げてください!」
小文吾のもとに、須本太が突進してきました。