74. 船虫再々登場
■ 船虫再々登場
牛相撲の神事が最高潮のとき、大会史上最強の怪物牛・須本太が暴走して、小文吾のもとに迫りました。
スタッフ「おい、あんた、逃げろ!」
小文吾は、ひらりと暴れ牛の突進をかわすと、両方の角を手でしっかりとつかみ、その場に踏ん張りました。須本太は全力で小文吾を振り払おうとしますが、少しも動くことができません。土にめり込む蹄が、須本太の全力ぶりを示しています。
観衆は逃げるのをやめると、口をあんぐりあけてこの場面を見守りました。小文吾を連れてきた磯九郎も同様です。
小文吾は、やがて十分牛が疲れたと見ると、一瞬力を右にかけ、バランスを崩させてから左にヤッと投げました。牛はひっくりかえり、地響きがズズンと鳴りました。そこをすかさずスタッフが全員で取りつき、しっかり綱でつなぎとめました。もっとも、須本太は小文吾におびえて、すっかりおとなしくなっています。そしてトボトボと控えの小屋に連れていかれました。
やがて静寂がやぶれ、観衆は小文吾をたたえてワッと叫びました。今回の神事のチャンピオンは、どの牛でもなく、小文吾だったといっていいでしょう。
角連次と須本太の飼い主、そして神事の運営スタッフが小文吾の前に一同並び、ヒザをついて礼を述べました。「我々、暴れ牛をおさえることには自信があったのだが、今回のような化け物は初めてであった。それをいとも簡単にのしてしまうとは、あなたはとんでもない剛力の人だ。感服、感謝、もはやどう言っていいかわからん。ともあれ、どうか名前を聞かせてくれ」
小文吾が「いや…」と口を開こうとすると、横から磯九郎が得意げに口をはさみました。
磯九郎「お前らは知らないのか、この人こそは、東国から武者修行に来た、史上最強の男、犬田小文吾さんだぞ。そして俺がマネージャの磯九郎だ。俺を通さずに勝手に話しかけないでくれよな!」
みんな「ははあーっ」
小文吾「いや、みなさん、気にしないでくださいよ。磯九郎、やめてくれよ。別に威張るようなことはしてないだろ。暴れ牛を一頭止めただけじゃないか。自分の身を守っただけなんだし」
須本太郎(飼い主のほう)「おお、その謙遜ぶりもまた見事。あなたのおかげでケガをしたり物を壊されたりせずにすんだ人がたくさんいるのです。角連次などは、何より大事な黒牛を殺されずに済んだ。あなたは英雄なのです。お礼をさせてください。今夜、ぜひウチに泊まってください」
磯九郎「そうしましょう小文吾さん。どうせ今日は夜までに帰れない」
小文吾「じゃあお言葉に甘えて、今夜の宿をいただくことにします。でも、ホントつまらないことしただけなんですから。お礼とか、おもてなしとか、そういうのは不要ですからね」
そんな感じで、虫亀村に一同でぞろぞろと向かいました。途中の道には、怪物・須本太をねじ倒したという男を一目見ようと、村人たちがひしめきました。
さて、小文吾はもてなしを断ったのですが、そもそも今日は牛相撲の神事を無事に終えた祝いが開かれる予定でしたから、ごちそうと酒が飽きるほど並べられるパーティーとなりました。あんな牛を養うことができるだけあって、須本太郎は裕福なのです。神事のスタッフ達も、妻も子供も近所の人たちも、皆がかわるがわる小文吾の目の前に座って、昼間の礼を述べ、菓子を差し出し、酒を注ぎました。
小文吾「いや、恐縮です。ほんと何でもないんですから」
小文吾はこの宴会をどうやって抜け出そうかと考えてばかりなのですが、同行の磯九郎は、思う存分に食って、飲んで、小文吾(と自分)の自慢をして、得意げに楽しんでいます。
須本太郎「さて、つまらないものながらお贈りしたいものがございます。酒の肴とでも思って、ご覧くだされ」
小文吾の目の前に積み上げられたものは、縮の反物と、十貫文の永楽銭です。
須本太郎「牛相撲の慣習で、暴れた牛をおさえた男には三貫文、というルールがございます。今回は、特別なケースでしたので、スタッフ一同で相談し、お礼はこれほどと決めました。受け取っていただければ幸いです」
小文吾はあきれました。「だーかーら、俺はお礼を受けるようなことは何一つしていないんですよ。武士が牛を転ばしたくらいで、何の自慢にもなりません。ほんと、受け取れませんからね」
そこに、すっかり酔っぱらった磯九郎が乱入してきました。若干ロレツが回らない様子です。
磯九郎「おいアニキ、遠慮にもほろがあるぜ。いいことしたお礼にくれるって言ってるんら。素直にもらって帰ればいいれしょうが」
小文吾「お前の知ったことではないだろう」
磯九郎「いーや、俺はアニキのマレージャなんだ。アニキがもらって帰ららいなら、俺が持って帰る!」
須本太郎は、この二人の言い争いで、気まずい思いになりました。「ま、まあ、酒が入ると、変わる人もいますからな… 犬田どの、別室で茶漬けなどを召し上がって、酔いを冷まされますか…」
小文吾はこの気遣いだけはありがたいと思いました。「うん、そうします。磯九郎、お前も酔いを冷ませ」
小文吾が宴会場から去った後も、磯九郎の独壇場は続きます。「別にあんな牛、アニキじゃなくたって倒せるんだ。俺の親分の次団太さんにだって、ちょろいもんなんだ。だから、親分だって、この品物をもらう権利はあるんだ! 俺は断じて持って帰るんだ!」
スタッフたち「わかった、わかったから、せめて明日にしなよ。明日、馬を貸してやるから。今からこんなもの担いで小千谷まで帰るなんて無茶だ。川も渡るんだろ」
磯九郎「うっさい、帰れるとも。馬なんかいらねえ、しょい棒一本だけ貸してくれよ。あのいい顔しいのアニキに知れると、みすみすお宝を置いて帰ることになっちまうんだ。断じて今すぐ持って帰るんだ」
ここまで言い張られては、もう誰も止める気になりません。磯九郎は、反物と十貫文の銭を棒にズッシリとぶら下げて、フラフラと小千谷を目指して歩き去っていきました。さんざん憎まれ口を聞かされたので、みんなひそかに磯九郎を嫌い、誰も彼の見送りについていきませんでした。
一時間ほどして、小文吾が会場に戻ってきてみると、磯九郎がいません。さっき起こったことを知らされると、
小文吾「えっ、こんな時間に一人で出て行ったんですって。あの品物をもって。危険です。俺もすぐ追いつこう。みなさん、今晩はありがとうございました。さようなら!」
須本太郎「ちょ、ちょっと!」
磯九郎はともかく、小文吾をひとりで行かせるわけにはいきません。あわてて、二、三人の手下が、提灯をぶらさげて必死で小文吾を追いかけていきました。
さて、磯九郎は、道のなかばで、すっかり酔いがさめて途方に暮れていました。疲れて荷物も持ち上げられません。
磯九郎「酔った勢いとはいえ、なんで俺、こんな無茶したんだろう… 銭が重くて、もう運べねえや。放り出していくわけにもいかないし… はあ、バカみたいなことしたなあ」
そのとき、「助けて」という声が近くで聞こえました。
磯九郎「ん?」
女の声「たすけて、そこのかた…」
磯九郎「どこだ」
女の声「道の、下です…」
足元は、とけ残った雪でいっぱいです。月の明かりでよく見ると、道端に、穴が掘ってあります。鳥を捕らえるときに、猟師はこういう穴を掘ってそこに身を潜めるものなのですが、その穴に女がはまりこんでしまったのでしょう。固められた雪が氷のようになって、這い上がる手がかりがなさそうです。
磯九郎「どうしたんです、こんな夜中に」
女「昼間にここにはまってしまって、この時間まで誰にも気づいてもらえなくて…」
磯九郎「そいつは気の毒に。これにつかまんなよ」
磯九郎はこういうと、棒から品物をはずし、その端を穴の中にさしいれました。
女「ありがとうございます。でも…」
磯九郎「ほらほら、早くしなよ」
女はしばらくモジモジしていましたが、磯九郎がスキを見せたときに、不意に強く棒を引っ張りましたので、磯九郎も穴に落ちてしまいました。女は手に短刀を構えており、磯九郎の胸を刺そうとしました。磯九郎はかろうじてこの攻撃をかわすと、
磯九郎「おい、ふてえアマだ。腕づくの勝負で、女が俺に勝てるかよ!」
磯九郎は女から刃物を奪い取ろうとしましたが、予想以上に女はしぶとく持ちこたえます。そうしてもみ合っていましたが、そのとき、穴の上から誰かの操る竹槍が突き出されました。竹槍は磯九郎の背中からあばらまで貫きました。女は刃物をとりなおすと、磯九郎のノドを切り裂きました。
女「あんた、遅いよ! 危なかったじゃないか」
男「おう、すまなかった。大丈夫か船虫。その男は」
女「死んだよ。わたしがトドメを刺したから」
男は、女(船虫と呼ばれました)を穴からひっぱりあげると、戦利品を検めました。
男「上々じゃねえか。銭が十貫文、縮の反物が五反だ。さらにこいつが差していた脇差もゲットだ。縮のほうはお前にやるよ。軽いから、持てるだろ」
男と女はホクホクと喜んで、荷物を抱えて現場から離れました。少し行ったところで、明かりを持った次団太に呼び止められました。次団太は、小文吾と磯九郎の帰りが遅いのを心配して、様子を見に来ていたのです。
次団太「おい、お前ら… 何を持っているんだ。怪しいな。おい、顔を見せろ」
男は、荷物をつかんで引っ張る次団太の方向を振り向くと、素早くみぞおちにブローを放ちましたので、彼もまた倒れました。