76. 船虫の悪運
■船虫の悪運
船虫はマッサージ師に化けて小文吾を殺そうとしたのですが、小文吾はさいわいその悪意に感づくことができ、次団太の協力も得て彼女を捕らえることができました。
小文吾「我ながら、この目でよくこの女の殺意に気づくことができたもんだ。何か不思議な力の助けでもあったのだろうな」
実際には、小文吾に「痛み」という形で警告を伝えたのは、懐に納めた例の「玉」の力なのですが、今はそのことに気が付かないようです。
次団太「危なかったなあ、小文吾さん。俺はとんでもないマッサージ師を連れてきてしまったようだ。すまなかった。それにしたって、何か女に命を狙われる心当たりはあるのか?」
小文吾「いや、何にも… まてよ、この女は、もしかしたら、鷗尻並四郎の妻だった、船虫じゃないのかな。五年くらい前に、この人たちに命を狙われかけて、俺は並四郎を返り討ちにしたんですよ。そのことで逆恨みされている、ということはありそうだなあ。今は目がよく見えないので、はっきりは判別できないんだけど」
次団太「ほーう。おい女、お前は船虫というのか。もしかして、この前の磯九郎殺しについても何か知っているんじゃないのか。この短刀、血の曇りがついてるぜ」
船虫「違いますよ! 私は赤岩一角という武人の妻で、窓井というのです。磯九郎さんという男なんて知りません」
次団太「本当か。正直に言わないと痛い目みせるぜ」
船虫「夫の赤岩は、弟子であった籠山という男に殺されました。私にとってはカタキです。ここのお方があまりに籠山に似ているので、つい本人であると思い込んでしまい、今日のような暗殺のチャンスを狙っていたんです。この方の思わぬ力の強さに負けて暗殺計画は失敗してしまいましたが、人違いだったとは恐ろしい。万に一にも、成功してしまわなくてよかったです… 本当にごめんなさい」
次団太「む、そうなのか… 事情が分かってみれば、かわいそうな女なのだな」
小文吾「ちょっと待ってください次団太さん。この女の言い分はおかしいですよ。もし俺がカタキに似ていて、それを本気で殺そうと思ったのなら、俺に投げられたあとも、捕まったあとももっと必死なはずです。今のは多分デマカセですよ」
次団太「なに、すると、今のはウソか。女め、本当のことを言わないなら、叩いて懲らしめてやろうか」
船虫「みんな本当のことなのに、疑うなんてひどいわ! やめてよ、ぶたないで」
そこに、次団太の相撲の弟子である、泥海土丈二と百堀鮒三が、騒動を知って手助けに入ってきました。
土丈二「次団太さん、この女はいかにも怪しいですが、ここで叩いて大声をあげられると、近所を驚かせてしまいます。アレをやりましょう」
次団太「む、そうだな。アレをするか」
小文吾「アレって何なんですか?」
百堀「『神慮まかし』だ。ここらの名物よ」
次団太は、神慮まかしの説明をしました。これはここらで行われている私刑のことで、ここから離れた場所にある庚申堂というところの梁に容疑者を吊るし、三夜連続で鞭で打つのです。それで死んでしまえば有罪だったとみなして川に捨て、死ななければ無罪とみなして放免するといいます。
土丈二「しかしまあ、この女の場合は、罪がないなんてことはない。三日たって死ななくても、やっぱり殺してしまって川に捨てることになるかな」
小文吾「えっ、そんなひどいことをするんですか。さすがに残酷ですよ。もうちょっとこう、やさしいやり方はないんですか。カツ丼を食べさせて尋問するとか」
次団太「これが黙認されているのは理由があるのだ。ここの領主は長尾景春どのなのだが、居城はここからかなり遠い。裁きに時間がかかりすぎるのは不合理なのだ。近くには、領主の母君である箙の大刀自さまもいらっしゃるから、こちらに裁きをお願いしてもよいのだが、この方はちょっと贔屓なところがあって、必ずしも公平な判断をしてくださらん。そこで、神慮まかしのような方法が許されているのだ」
土丈二「この『神慮まかし』が恐ろしい仕打ちであることは悪者たちの間でも有名で、おかげでこのあたりの犯罪率はすごく低いんだぜ。抑止力になっているんだよ」
百堀「まあ、まかせておいてくださいよ、小文吾さん」
小文吾「はあ…」
その夜、次団太たち三人は、女をつれて、庚申堂に出向いていきました。小文吾は、宿でゆっくり休んでいなさい、と言われました。(一緒に行ったとしても、目が見えないのですから、どうしようもないですね)
小文吾「目が見えないばかりに、あの女がどういう人物かわからないままに、ひどい拷問にあわせてしまうのはモヤモヤするな… あの女のことだけじゃない。これからオレはこんな病気をかかえて、どうやって他の犬士たちと活動すればいいのか… なにか神仏の助けにでもすがりたい気持ちだ」
小文吾は、今自分が言った独り言の中の「神仏の助け」の部分に自分で驚きました。
小文吾「あるじゃないか、助けなら! 毒で死にそうになったときに、俺を助けてくれたアレがあるじゃないか! わかった、さっき女に殺されかけたときに、俺に危険を知らせてくれたのも、きっとアレなんた!」
小文吾は、守り袋から「アレ」をあわただしく取り出します。言うまでもない、「悌」の字の浮かんだ例の玉です。それを持った手で、自分のまぶたのあたりを撫でてみると…
目の痛みがウソのようにひいていきます。
小文吾は、ぱっちりと目を開きました。「見える… 枕についた埃まで見える。なんで今まで気づかなかったんだろう。玉よ、忘れていてすまなかった」
小文吾は、明日になったらすぐに女が何者だったのか確かめよう、と心に決め、安心して眠りにつきました。
さて、この夜、なんと犬川荘助が小千谷のあたりを通りがかりました。
荘助は、丶大法師と犬山道節と一緒に、甲斐の指月院に集結していました。そこでは順番に旅をして犬士を見つけることに決めてあり、まずは荘助の順番ということで、ひととおり陸奥を巡ってきたのです。犬江親兵衛が神隠しにあったということも聞いて知っていますから、それも探すために、山に登ってみたり、谷底に下ってみたり、なかなかハードな道中でした。しかし、特段の手がかりは得られませんでした。
宿をとりそびれた荘助は、どこか屋根のあるところで野宿しようとして、やがてボロボロのお堂を見つけました。見上げると、「庚申堂」という看板が見えます。
荘助「ひどくボロいお堂だな。よく倒壊せずに残っているもんだ。あと、庚申という名前は少しイヤだな。私が大塚で処刑されそうになったのも庚申塚だったから。それもずいぶん昔のことに感じられる…」
ふと、女のうめく声が聞こえました。
荘助「なんだ? 私をだまそうとする妖怪か何かかな…」
声の主を探してみると、梁からつるされた、40くらいの女がいます。
荘助「どうしたんです、あなた。大丈夫ですか」
女「たすけてください…」
荘助「どうしてこんなところに吊るされているんです」
女「私はある宿屋に女中として勤めていました。あるとき、そこの主人に口説かれたのですが、私は断ったんです。そうしたら逆恨みされてしまい、こんなところで鞭打たれることになりました。あの男、私を殺して千隈川に流すとまで言っていました。兄のところに帰りたい…」
荘助「ひどいことをする男がいるんですね。私が今助けてあげます」
女「ありがとうございます…」
荘助は女(船虫ですよ、もちろん)の言うことを信じ、助けました。おぶって家まで送っていきましょう、と申し入れましたが、女は悪いからと断りました。
女「少々足がしびれますが、杖をついていくから大丈夫です。しかし夜道が不安ですから、家まで着いてきてください。今夜の宿も差し上げられると思います」
荘助「ありがたいことです。行きましょう」
そういうわけで、船虫は酒顚二のいる隠れ家まで帰ってくることができました。船虫は、荘助を少し遠くに待たせておいて、まず一人で帰宅しました。
酒顚二「おっ、船虫、遅かったな」
船虫「今まで大変だったんだよ。それはともかく、『客』がひとり来る。さしあたっては、いろいろと口裏をあわせておくれ。ヒソヒソ…」
酒顚二「なるほど、わかった」
酒顚二は今まで手下たちと酒を飲んでいたところでしたが、大部分を引っ込めさせ、簡単に部屋を片付けました。そうしてから荘助を迎え入れます。
酒顚二「やあ客人。さっきは妹を助けてくれたそうで。感謝のしようもありません。妹はさっそく奥の部屋に休ませました。どうかお名前を聞かせてください。しばらく滞在してもらいたい。おもてなしもしたい」
荘助「犬川荘助といいます。人を探す旅をしています。一晩だけご厄介になったらすぐまた旅に出ます」
酒顚二「酒がありますぞ。飲まれませんか」
荘助「いや、私は下戸なので… ともかく眠らせてもらえれば」
酒顚二「そうですか、すぐに用意いたしますぞ。ゴザ、布団、枕、蚊帳、ひと揃いありますからな」
そうして、荘助は別室に用意してもらった布団に、ありがたく身を横たえました。