94. 八つの徳の歌
■八つの徳の歌
河鯉孝嗣は、父の遺志をついで道節と毛野と戦おうとしますが、とても二人はそんな気になれません。
毛野「守如どののことは非常に残念だ。優れた人だったのに… なあ孝嗣どの、父上の望みは、あなたが今私たちと戦うことではないと思う。定正への忠義を全うするには、今から彼のもとに追いついて、今までの迷いを覚ましてあげるべきだと思います」
孝嗣「それはそうかも知れませんが、敵を目前にして全く戦わずに手ぶらで帰れば、そもそも殿になんと申し開きできましょう。ここで討ち死にすることこそが殿への真心の証!」
道節「フン、勝手に死にたいやつを止める気はないが、少なくとも俺は、お前のような忠義の男を殺す刃は持っておらん。手ぶらで定正のところに行くのが恥だというなら、こいつをくれてやる。さっき俺は仁田山とかいう男を捕らえて馬を奪い、俺がその後使っていたのだ。この馬を連れて帰れ。少しは手柄になるぞ。あと、定正から奪ったカブトがある。これは今すぐ返すわけにはいかんが、明日、高畷まで取りに来たら、返してやる。これも主の恥を隠すという手柄だ。このほうがお前のためになる。さあ、行けよ」
孝嗣は、道節の陣営のほうから小川を渡ってこちらに向かってきた馬をつかまえ、ヒラリとまたがりました。
孝嗣「…おふたりの教え、感謝にたえぬ。ならば私は今は退くとするが… (キッと顔を上げ)犬山道節、君夫人の仇、父の怨み、いつか必ず返して見せる! この誓いの矢を見るがいい」
孝嗣は馬上から素早く弓を構え、道節の陣営に一本の矢を放ち、それから定正が落ち延びたと思われる忍岡の城の方向に走り去っていきました。
矢が刺さったのは、狗椿の木でした。また、木の節の真ん中に正確に当たっています。狗の、節…
毛野「ははあ、これは、犬山道節へのリベンジの誓い、というもじりですね。風流!」
道節「敵ながら見事な男だ」
ふたりの犬士が陣営に戻ると、これらを見ていたほかの犬士たちもみな、口々に河鯉孝嗣をほめました。「あいつも犬士のひとりだったらよかったのになあ…」
道節「うん、もっともだな… ところで、今までの戦いについて、ひとつ正しておかなくてはいかんことがある。落鮎!」
落鮎「はい」
道節「船を守れとあれほど言ったのに、勝手に持ち場を離れて定正たちと戦ったな。これは明らかな軍令違反だ!」
落鮎「! すみません! あのままでは仇をみすみす逃してしまうと思ったのです」
道節「確かに、それが役に立たなかったわけではない。しかし、軍の統率のためには、こういう勝手を放ってはおけん。罰をうける覚悟はあるのだろうな」
落鮎「…」
現八「おいおい、大目に見てやれよ。落鮎どのには、ここまで船を出してくれたという大きな手柄もあるじゃないか。差し引いたって、罰はやりすぎだろ」
道節「…そうだな。あとで改めて考えることにして、今だけは目をつむろう。落鮎よ、以後、ゆめゆめ忘れるな。引き続き、船で我々を待て。今から、五十子城にいる信乃を連れて帰ってくる」
落鮎「ははっ」
落鮎は、ほめられるかと思っていたらひどく怒られてしまったので、内心、かなりムカッとしました。しかし、考え直してみれば、戦において軍令を守ることは何より大事なことであって、内輪の情に流されることなく落鮎をあの場で叱責したのは、戦を指揮する立場としては絶対に必要なことなのでした。
落鮎「ああすることで、他の兵たちにも不公平感を抱かせない。さすが道節さまだ。俺なんかが及びもつかない英雄だなあ…」
この後、道節をはじめとする犬士たちは、五十子城を攻略した信乃の様子を見に行くのですが、毛野だけは落鮎と一緒に船を守ることにしました。河鯉守如への義理を守るためです。
毛野「さらに言うと、用が済んだら、できるだけ急いで城から離れたほうがいいですよ。まわりの同盟国から援軍が押し寄せる可能性もありますからね」
道節「なるほど、それもそうだ。じゃあ行ってくる」
さて、時間をすこしさかのぼって、犬塚信乃がどうやって五十子城を落としたのかに触れましょう。
林の中で、信乃は道節と城の様子をうかがっていました。(ついでに、逃げてきた仁田山を捕えたりもしました。)そして、偵察にやっていた雑兵から、「縁連が討たれたのに怒って、定正が出陣」という報告をうけました。
道節「よし、想定通りだ。ここで定正を待ち伏せるぞ」
信乃「しかし、ここで定正がピンチに陥ったことを知ったら、城の中にはまだまだ兵がいますから、援軍がキリもなく出てきますよ。そっちも押さえないといけないかも」
道節「ふうむ」
信乃「自分に考えがあります。兵を20人ほど貸してください」
信乃は、まず、捕えた仁田山の手下に会いました。
信乃「名前は。大塚から来たの? それとも五十子?」
手下「外道二といいます。五十子城の務めです」
信乃「よしよし。ちょっとこちらの計略に協力しなさい。そうしたら罪も許すし、褒美もあげるから」
手下「が、がんばります」
そうして、やがて定正は城から出撃し、さきにも書いたように、道節・現八・大角たちに挟みうちにされて敗走しました。信乃はそこで敵が落としていった武具やのぼり旗を拾いあつめ、自分の兵を変装させました。そうして、五十子城にいち早く逃げ帰った味方のフリをしたのです。そのときには、味方に顔が知られている外道二を先頭に出しました。
外道二「門を開けてくれぇー」
門番「おお外道二。殿はどうした」
外道二「敵をあざむくために、雑兵に変装している。早く、開けてくれ」
門番はそれを信じて城門を開けてしまいました。信乃はすかさず中に駆け入ると、刀を抜く手も見せぬ早業で、門番をふくむ2、3人を一瞬で斬り伏せました。
信乃「練馬の残党、犬山道節の義兄弟、犬塚信乃戍孝、ここにあり! 我もまた、祖父・大塚匠作の主君、持氏朝臣の公子、春王と安王のおん為に恨みを返すものだ。すみやかに降参せよ!」
こう言う間にも、手下の兵たちは城の各所に火をはなちました。たまたまこの日は風が強く、火はみるみるうちに城全体に広がってしまいました。火にとびこんだ夏の虫のように、城兵たちが焼け死んでいきました。また、城を捨てて逃げてしまった兵もたくさんいました。最終的に信乃の目の前で降参の意志を示したのはたったの50人ほどです。(このときすでに、河鯉親子はカゴとともに城を出て行っています。)
信乃「よし、敵は降参した。火を消そう。みんな手伝って。特に、兵糧の倉庫はすぐに消火しよう。城の外にいる人も、できれば百姓も商人も連れてきて」
消火作業はよくはかどり、かなりたくさんの品物が燃えずに済みました。信乃は、駆けつけてくれた百姓たちに礼をいい、また、そのついでに、領主の政治ぶりはどんな感じだったかを尋ねました。
百姓「はあ、もともと厳しい政治でしたが、竜山さま(籠山)が権力を得てからは、税金はものすごく上げられて、我々は子を売ったり、妻をひさがせたりして、それはひどい苦しみを強いられていました」
信乃「苛政は虎よりも猛かり、とはこのことですね…(ため息) よし、この城の倉をみんな開かせましょう。城主が貯めこんだ品々を、みんな百姓たちに返すのです。もともとあなた方の物だったのだ、なにも遠慮することはありません」
百姓「あ、あとできっと怒られます。ここの城の人たちが戻ってきたら」
信乃「自分が、心配なくしてあげますよ。ただし、公平に分けるよう約束してくださいね」
信乃は、倉庫の中の白壁に、下のような声明文をサラサラと書きつけました。
『足方持氏に仕えた大塚匠作の孫にして大塚番作の長男、犬塚信乃が、この城を20人の兵で落とし、先君の怨みを雪めた。また、この城攻めは、犬山道節の敵討ちという大義を手伝うものでもあった。しかし、我々は、城を壊しもしなければ、略奪もしない。すべては本来民のものだからだ。だから倉の中身はすべて民に返した。これをあとで取り返そうとするようなら、我々はいつでも同じように城を攻めるであろう。ゆめ忘れるな。〇月〇日』
ワッと歓声が上がります。これを読んだ人たちは皆、信乃の前に額づいてその徳をたたえずにはおきませんでした。信乃は、ニコニコしながら、自分用の弁当として持ってきたSOYJOYをカリカリかじるのみです。領地の人たちには祝いの宴会をさせるままにしておいて、自分自身では城の食べ物に一切手をつけませんでした。
道節・現八・小文吾・大角・荘助が五十子城に入ったのは、このあたりのタイミングでした。信乃が皆の前でここまでの経緯を報告すると、道節は「軍功、第一級だな」と手放しで称賛しました。信乃もまた、城外での戦いの様子を五犬士にそれぞれ聞いて把握しました。
道節「しかし、俺だったら、城を完全に壊して、投降した兵たちもみんな首を切るところだ。なんでそうしない」
信乃「今回我々が狙ったのは、扇谷定正ひとりです。それを討ち漏らしたからといって、怒りに任せて城を壊したり人を殺したりしていいものでしょうか。そこに大義はありません。それは「勇」でなく「暴」と言われてしまうでしょう。また、さきに聞いた河鯉守如や蟹目上といった尊敬すべき人たちのためにも、私はこれ以上の破壊を行おうとは思いません」
道節「うーん…」
大角「賛成です。犬塚どののこの意見、千金に値しますね」
荘助「私も賛成です。また、犬阪どのがさきにアドバイスしてくれたとおり、この城も早めに撤収しなくちゃいけません。壊しているヒマもないと思いますよ」
小文吾・現八「同じく、信乃に賛成」
道節は晴れやかな顔になりました。
道節「よろしい。多数決だ。フ、フハハ… その通りだな、定正に逃げられたことにイラついて、俺が間違っていたようだな。ここでヤツを討てなかったのも、天命と受け止めよう。毛野の占いにも、確かそんなことが出ていた。『恨みの相手を討つ計画は失敗、しかしそれでも敵は死んだと同然』だったかな。よし、ヤツのカブトまでは取ったんだ。これを先君に捧げて、俺の敵討ちは果たしたとみなすことにしよう」
道節はこう言いながら、さきに信乃が壁に書き付けた声明文をつらつらと読んでいました。
道節「なかなか名文じゃないか。蛇足かもしれないが、俺もひとつ、これに書き足してみようかな」
道節は、信乃の文章の横にこう書き足しました。
『親と先君の怨みを返す、これすなわち孝と忠。
少人数で多くの敵に勝つ、これすなわち智。
城を落としても略奪をしない、これすなわち礼。
投降者を許して民をにぎわす、これすなわち仁。
良臣をあわれんで城を壊さない、これすなわち義。
攻めたあとも一日で城を返す、これすなわち信。
人に譲って自分の手柄を主張しない、これすなわち悌。
我に、この八徳の兄弟あり。100万騎の敵にも、どうして負けることがあろう。
我らを敵とした罪をよくよく思い知るべし。犬山道節追書す』
道節「よし、これでよい。みんな、勝鬨をあげろ!」
さっきの信乃のときの歓声を上回る音量の勝鬨がいっせいに上がり、しばし鳴りやみませんでした。