93. 勝利、そしてやりきれなさ
■勝利、そしてやりきれなさ
籠山が討たれた怒りに我を忘れ、河鯉守如の諌めも聞かずに飛び出した扇谷定正の一隊(300人くらい)は、先を争うようにどんどん進んで、やがて鈴の森に近いところまで来ました。
そこに伏兵がいました。定正たちは敵はせいぜい3人と思い込んでいたのですが、林の中から30人ほどの雑兵が飛び出してきて、定正たちの前をさえぎりました。これを率いているのは、大きな槍と刀をそれぞれ持った、二人の勇士です。
二人「お前が定正だな。我らは、お前に滅亡させられた練馬倍盛の旧臣、犬山道節忠与…の義兄弟、犬飼現八信道と犬村大角礼儀だ。いざ、勝負!」
(本来、現八と大角は毛野の助太刀に割り当てられていましたが、小文吾と荘助が十分活躍しているので、そっちは任せて、道節の戦いを手伝うことにしたのでした)
定正「ははあ、豊嶋・練馬の残党も、今回の騒ぎに関わっているということか。しゃらくさい、そんな少人数で勝負になるものか。者ども、もみ潰せ!」
定正の手下のうち、地上織平は現八と槍を交え始め、また、末広仁本太は大角を相手に戦い始めました。犬士自身はもちろんのこと、犬士側の兵たちは士気がきわめて高く、一人あたりで二、三人を相手によく張り合っています。
そのとき、定正たちの後ろにも別の伏兵が現れて迫ってきました。こちらの大将は、火の形のカブトをつけ、巨大な刀と弓を身につけた大男です。道節です。
道節「練馬の老臣、犬山道策が嫡男、犬山道節忠与、ここにあり! 先日は巨田助友に裏をかかれて失敗したが、今日こそ旧主のカタキを討つ。覚悟せよ!」
これは全くの想定外で、定正はさすがに危険を感じました。
定正「囲まれてはまずい。はやく、どちらか一方を破って逃げるのだ」
定正の兵はパニックに陥りはじめました。どちらか、とは言っても、どちらも簡単に破れそうにない上、敵側には、凄まじい働きをする勇士が全部で三人もいるのです。さらに、両方向は海と林でさえぎられていますから、逃げ道がありません。定正の兵が、あれよあれよという間に倒れて減っていきます。やがて、地上織平は現八の刀にノドをつらぬかれ、末広仁本太も大角に突き伏せられました。
定正「まずい。なんでもいい、誰か血路を開け!」
数人の兵が命を捨てながら定正を守って敵陣の薄いところに飛び込み、定正は、10人たらずの近習に伴われながら、やっとのことで囲みを脱出しました。そして城に戻る方向、品革のほうに逃げていきます。
それを道節が見とがめ、たった一騎で追いかけました。そして、射程距離までやっと近づくと、満月のごとく弓を引き絞りました。
道節「卑怯なり定正! 逃がしはせんぞ。このオレの恨みの矢を受けてみよ」
道節がヒョウと放った矢は、定正のカブトに当たりました。貫通こそしませんが、カブトにはヒビが入り、緒がちぎれて地面にガランと落ちました。定正は必死で頭を沈めます。
定正「ひいっ!」
近習のうち4人ほどが道に留まって決死の覚悟で道節を止めにかかりましたが、たちまち切り倒されるか馬に踏みにじられるかしました。しかしそれでも、わずかに時間を稼ぐことはできたので、定正たちは九死に一生を得て品革までたどり着きました。
しかし、そこにまた、新たな伏兵が現れました。落鮎有種の率いる、7、8名ほどの小隊です。落鮎の仕事は船を守ること、と道節からは厳命されていたのですが、船のあたりからも定正が逃亡する気配が分かったので、いくらなんでもこのチャンスを逃しては武士とは言えないと考えたのです。
落鮎「その鎧と馬から見るに、おまえが定正だな。先君の恨みを晴らすため、お前を討つ。覚悟しろ」
定正「げえっ!」
定正たちは、もはやなりふりを構っていられず、即座に背を向けて別の方向に逃げ始めました。しかし落鮎たちは追いすがりながらさらに数人を討ち取ります。定正がやっと城に近い高畷まで来たときには、残っている手下は二階堂と三浦という二人のみでした。しかもどちらも、全身に傷を負っています。
定正「河鯉の意見をオレが受け入れてさえいれば… しかし、今それを言っても始まらん。もうすぐ城だ。城にさえ戻れれば立て直せる…」
いよいよ五十子城に近づくと、様子が変です。城から黒い煙がおびただしく立ち上っています。
定正「…燃えている。城が火攻めにあったのだ! おお、何もかももうだめだ。(涙)死んだ! オレ死んだ!」
そう嘆く定正のところに、現八と大角の隊が追いつきました。定正はひとり高台に逃げます。二階堂と三浦はこのとき犬士たちを足止めして討死にしました。これでついに、定正ひとりになりました。万策尽きた定正はこの場で腹を切る覚悟を決めましたが… 不意に、眼下に援軍が来ているのを見つけました。30人くらいの隊で、リーダーが乗っていると思しいカゴには、『河鯉権佐守如』という旗が立てられています。
定正「(歓喜)生きた! オレ生きた!」
定正は丘を駆け下りると、河鯉の隊に飛び込み、「守如、まかせたぞ」と叫んで、さらにその奥に逃げていきました。隊から10人あまりが定正をかばってついていきました。
当然、現八と大角の隊は、この河鯉の隊と戦って、さらに定正を追うべきですが… この隊は、実に静かです。カゴの中から隊長が出てくるわけでもないし、誰もこちらに向かってくる気配がありません。
現八「大角、どう思う?」
大角「あのノボリを見るに、カゴの中に河鯉が乗っていると思われますが… 本人も出てきませんし、何か変ですね」
現八「ワナかな」
大角「そう疑うべきかと」
ここに道節も追いつきました。
道節「おい、何をしているんだ。前方の敵を蹴散らして、定正を追わなきゃ」
現八「なんか変なんだよ。何かワナがあるんじゃないかと、今大角と話していたんだ」
道節「あの看板つきのカゴか。あんなのはハッタリに決まっている! 何を迷うことがある」
さらにそこに、荘助・小文吾・毛野も追いつきました。毛野は敵討ちが終わったので、道節の戦いを手伝おうと思ったのです。また、落鮎もここに集まりました。ほぼ全員集合です。(信乃だけいませんが、理由はあとでわかります)
毛野「犬山道節どの、はじめてお目にかかる。私が犬阪毛野です。(実際には、湯嶋天神で一度会っていますが。)私の敵討ちを手助けしてくれたこと、深く感謝します」
道節「お、おう」
毛野「今回の作戦全体のことは、大体犬川どのと小文吾さんに聞きました。実にあざやかな作戦です。それで、目の前にいる河鯉守如どののことなのですが… あれは私の恩人と呼ぶべき人なのです」
道節「む…」
毛野「道節どのもご存知のとおり、私に籠山逸東太の居場所と人相を教えてくれたのは河鯉どのです。少なくとも私は、ここで彼と戦うわけにはいきません。また、定正を倒すことに私が協力すると、これもまた河鯉どのの信頼を裏切ったことになってしまいます。すみません、道節どのをないがしろにする気はまったくないのですが…」
道節「確かに、それは理屈の通っている話だ。うーむ」
道節がしばし悩んでいると、向こうの河鯉の隊から、一人の若者が出てきました。向こうとこちらは小川でさえぎられているのですが、その小川のほとりまで歩み寄ると、「犬阪毛野どの、犬山道節どの、お話したいことがござる。私は河鯉守如の子、河鯉佐太郎孝嗣」と呼びかけました。
なかなか堂々としています。道節と毛野は、これに応じてこちら側のほとりに立ちました。
道節「俺が道節だが」
毛野「私が犬阪毛野です」
孝嗣「父・守如は急病で人前に出られないので、私が代わりに出てきた次第だ。まずは犬阪どの、われらの依頼にみごと応え、管領家に巣くう毒虫、籠山逸東太を討ってくださり、まことにありがとうござった」
孝嗣「しかし、わが主、扇谷定正さまは、これを見てもまだ迷いから覚められなかった。籠山を失った怒りに我を忘れ、守如の必死の諌めも聞き入れず、無理に出陣してしまった。その直後、手薄になった城に潜入した犬塚信乃と名乗る男によって、城に火をつけられてしまったのだ。城のものたちは、みなちりぢりに逃げてしまった」
道節「そのようだな。信乃はよくやった」
孝嗣「父は、この様子を見て、せっかく信頼した犬阪毛野に裏切られたものと思い込み、深くみずからを責められた。犬阪どのが、あの晩の密議を犬山どのたちに漏らした、と」
孝嗣「ゆえに、父は、私に向かって、殿への忠義を示すために、せめて犬阪毛野と刺し違えて死んでこい、と命じられた」
毛野「…」
孝嗣「しかし、さきほどあなた達の会話するところを漏れ聞いた限り、そうではなかったようだな。犬阪どのは、籠山の仇討ち以外には、今回の戦いに一切関与していなかったということで間違いないか」
毛野「間違いありません」
孝嗣「それを聞けば、父にとってはせめてもの慰めだ… それではなぜ、犬山どのは今回の敵討ちのことを知りえたのか。そして城攻めのチャンスがあると知りえたのか。それも聞きたい」
道節「それは、偶然のことだったのだ。オレは五十子城のまわりを探って日々を送っていたが、たまたま河鯉どのと毛野の密談を聞いてしまったのよ。もし、定正が怒って城の外に出てくるようなら、そこを狙い撃ちにしてやるつもりだった。そして今日、その読みは的中したというわけだ。オレからも誓ってやろう。犬阪毛野は、五十子攻めのことは何も知らなかったよ。だから河鯉どのにもなんら不義はしていない」
孝嗣「よくわかりました。ありがとう」
毛野「孝嗣どの。守如どのに一目会わせてもらってもよいでしょうか。直接話をして、誤解をはっきりと解いておきたい。また、私から改めて礼も言いたいのです」
孝嗣「…分かりました。断るのも失礼ですね。それでは失礼して…」
孝嗣はカゴの引き戸をゆっくり開けました。中には… 腹を切って死んでいる守如の姿がありました。毛野も道節も絶句しました。「これは一体…」
孝嗣「父はすでに、城の中で腹を切っていたのです」
孝嗣は涙声をはげまして、顔を上げて堂々と話し続けます。たぎり落ちる涙をぬぐおうともしません。
孝嗣「城に火がつけられたとき、自分の判断ミスが招いた事態であると嘆いて、また殿への忠義を明かすため、その場で腹を切りました。また、蟹目御前も同様に、自ら刃に伏して死にました。あの方もまた、父といっしょに籠山の暗殺を画策していたのです。こんな事態を招く意図はなかったのだという赤心を示すために、死んでしまわれた」
孝嗣「御前の遺体は、別に城の外に運び出しました。そして、父の遺体をこうしてここに運んできたのは、父子もろともに戦場に果てて、私自身も殿への忠義を示そうという意志からだったのです。しかし、これが不思議とあなたたちの足止めに役立って、殿を遠くに逃がすことができた。死んでなお敵をくじく、父の魂のまことに偉大なことよ」
毛野・道節「…」
孝嗣「さあ、私の話はすべて済んだ。あとは、戦いあるのみだ。お二方、いざ参られよ!」
毛野・道節「…」