92. 定正、忠臣の言葉をはねつける
■定正、忠臣の言葉をはねつける
籠山逸東太縁連は、犬阪毛野が敵討ちのために目の前に現れたので、死んだ馬を捨て、田んぼの方向に逃げました。すこしでも逃げて時間をかせげば、後続の手下たちが助けに来てくれるとの計算もありましたが、基本的にはビビって逃げただけです。
毛野は、刀から血をしたたらせて、鬼のような形相で縁連を追います。縁連はいよいよ追いつかれそうになってきて、近くの木の後ろに隠れると叫びました。
縁連「おい聞け。確かに俺は、やむをえぬ命令で粟飯原胤度を殺したことがある。しかしヤツの息子は、夢之助ひとりだったはずだ。しかもそいつはすでに死んでいるのだ。なぜカタキ討ちなどとウソを言う。お前は敵対勢力の回し者だな」
毛野「本当のカタキ以外を相手に、こんなことをするものか。私は、胤度が側室に生ませた隠し子だ。千葉の領地で馬加大記を討ったのも私だ。残るカタキはお前のみ。甘んじて天罰を受けろ」
このようにして、毛野と縁連の戦いが始まりました。湖水に走る月影のように、両者の繰り出す刃がうねうねときらめきました。縁連の槍の腕も相当なものですが、毛野の剣術はそれに勝ります。だんだんと縁連の調子が悪くなっていき、数か所の浅手を負いはじめました。
この様子を、後続から駆けつけた手下たちも目撃しました。田んぼの中は凍った水が張っていて細いあぜ道しか進めないので、三人がそれぞれ三方向から現場に追いついて縁連の助太刀に行くことにしました。一番近い正面コースは鰐崎、すこし遠回りな東西コースは竈門と越杉・仁田山が受け持ちました。それぞれが十数人の雑兵も連れて行きますから、このままでは相当な人数が毛野を追い詰めることになります。
しかし、西コースを取った竈門は、道の途中のワラ塚から何者かに突き出された槍に馬を突き殺されてころげ落ちました。東コースの越杉も同様です。そして両方向の男たちは同時に姿を現しました。
西コースの男「多勢をたのむ卑怯者どもめ、犬阪毛野の敵討ちを邪魔はさせん。われこそは毛野の義兄弟、犬田小文吾悌順!」
東コースの男「同じく、犬阪の義兄弟、犬川荘助義任! 誰一人、ここから先には行かせんぞ。とくにそこの仁田山よ、お前には個人的な恨みもある」
その後、竈門は小文吾と戦うもあえなく突き殺され、越杉は荘助の攻撃に倒れたところを、逃げる味方(仁田山)の馬に踏みにじられました。仁田山が逃げるのを荘助は許さず、全力で追いました。実は仁田山は、かつての庚申塚での事件のとき、信乃と荘助の首だと偽って、力二と尺八の首を持って帰った当人なのでした。ちょっと許せない理由があったんですね。
さて、鰐崎悪四郎だけは、最短距離の正面コースをとって、毛野と籠山の戦いに間に合いました。
鰐崎「籠山どの、無敵の男、悪四郎猛虎が来たからにはもう安心ですぞ! おのれ犬阪とやら、犬が虎に勝てると思うなよ」
毛野は鰐崎を後目に見ながら、縁連の槍先をハタと切り落として、ひるんだところの肩先を切って倒しました。深手ですが、まだ縁連の絶命にはいたりません。
毛野「もうちょっとなのに、邪魔をするな」
鰐崎「てめえの相手は俺だ」
鰐崎が猛然と向かってきました。たいへんなスピードで槍先を繰り出しますが、毛野はこれをことごとくかわします。やがて鰐崎の槍は近くの切り株に刺さってしまいました。このスキに毛野は刀を振り下ろそうとしますが、鰐崎はそれをよけて足払いで応戦しました。毛野はこれにバランスをくずし、持っていた刀を落としました。
鰐崎「もらった」
鰐先と毛野の勝負は、素手でのそれに移りました。鰐先は持ち前の怪力で毛野の体をつかみ、頭上に持ち上げました。
毛野「ううっ」
鰐崎「このまま地面に叩きつけてくれる」
鰐崎が手を振り下ろすと同時に、毛野は鰐崎の体を思い切り蹴って宙返りし、前方に逃れました。鰐崎はこの蹴りで肋骨を砕かれて倒れました。
毛野が鰐崎のマウントポジションを取ってとどめを刺そうとすると、追ってきた雑兵たちがそれを防ごうとして一斉に押し寄せました。毛野は鰐崎を押さえていないほうの手ですばやく石つぶてを投げつけ、数人の眉間を割って倒し、残りを追い払いました。邪魔がなくなったところで、毛野はもがきつづける鰐崎の髪をつかみ、腰から新たに取り出した短刀で首を切り取りました。
縁連は、このとき、ヨロヨロと起き上がって、毛野に気づかれないように後ろから刀を構えました。が、毛野が気づかないはずはなく、縁連が振り下ろした渾身の一撃に、すばやく振り向き、持っていた鰐崎の首を盾にしてかわしました。縁連がもう一度刀を振り上げると、毛野は今度はこの首を投げつけました。そしてよろめいたところを刀で横に一閃! 縁連はとんぼ返りをうって地面に倒れましたが、そのときすでに、縁連の体と首は離れていました。
毛野はあたりを見渡すと、落とした刀を拾い、血をぬぐって鞘におさめました。そうして「フー」と息をつくと、晴れやかな顔になりました。田の水で縁連の首級を洗うとこれを切り株の上に乗せ、ちょうどよい位置にあった若枝には父の名が記された小さな掛け軸をひっかけました。
毛野「(手を合わせて)籠山に殺された父の霊よ、そして馬加に滅ぼされた一族の霊よ、この首級を贄として受けたまえ。そして恨みを晴らし、安んじて成仏したまえ。ナムアミダブツ…」
毛野は静かに涙を流し、長い間、手を合わせたまま祈り続けました。
そして祈りが終わったころ、この場所に、小文吾と荘助が合流しました。ふたりとも、毛野が宿願を果たしたことを喜んで、満面の笑顔です。
毛野「おお、小文吾さんに、犬川どの! さきほどは思わぬ助太刀、感謝のしようもありません。あのまま三方向から敵に攻められていたら、私も危ないところでした。…しかし、どうしてここが分かったのです?」
荘助「説明すれば長いのですが、まずはここから離れましょう。ここらは開けていて、また攻められると面倒です」
毛野「確かに」
荘助「縁連の手下はほぼ片付けましたが、仁田山だけは逃がしてしまいました。まあ、深追いは危険なことですから、まずはこれでよしとしましょう…」
実は仁田山は、五十子城に逃げ帰る途中に、別に待ち伏せしていた犬士がまんまと捕まえたのですが、この話はまたあとで。
このカタキ討ちの事件は、すぐに五十子城の扇谷定正に伝えられました。
第一報は、「【速報】竜山(籠山の偽名)とその手下たちが、敵討ちを名乗る男ほか二人と交戦中」という程度のものでしたから、定正は安心していました。「そんなに少ない相手なら、まあ問題はないだろう。こっちには最強カードの鰐崎もいるからな」
(もっとも、このニュースを聞いたほかの家臣の多くは、ひそかに「竜山め、この機会に死んでしまえばいい」と思いました。嫌われていたんですね)
しかし、十数分後に届いた続報は「【悲報】竜山と手下たちは全滅、仁田山は行方不明」という、定正にとっては最悪のニュースでした。タカをくくっていた分ショックは大きく、定正は怒りを爆発させました。
定正「片腕と思っていた重臣を殺され、同盟の使節団まで壊滅させられるとは、こんな恥辱があるだろうか。これを放っておけば隣国の笑いものになることは必定だ。敵はまだ疲れているはずだ。俺がみずから出て行って、からめ捕ってくれる。その後、八つ裂きにするのだ。ヨロイと馬を準備しろ!」
定正は、いかめしい鎧で完全武装し、頭には竜頭の兜をかぶり、藤巻という名刀と、さらに小刀と長刀も身につけました。庭には300人近い雑兵が新たに編成されて、主の出陣の号令を待っています。
そこに、重臣、河鯉権佐守如が飛び込んできて、定正の乗る馬のくつわにすがりつきました。
河鯉「おやめください、定正さま、気はお確かですか!」
定正「守如、そこをどけ」
河鯉「竜山が討たれたことは、ついさっき私も知らされました。しかし、こんな早まったことをしないでください」
定正「せずに済むものか。どけ!」
河鯉「今回のことは、北条の下風に立とうとする今回の同盟が間違っているという神仏の思し召しとはお考えになりませんか。竜山はかつて籠山と名乗る男でした。千葉に仕えていたころ、忠臣・粟飯原胤度をだまして殺したのです。今日彼が殺されたのはそのカタキ討ちのためだったとか。そうです、これはきっと、北条との同盟が間違っているという印なのです!」
河鯉「むしろ、あの犬阪毛野を家臣に迎えることを考えてはいかがです。親の敵を長年追って、ついに今回カタキ討ちをはたしたその孝行ぶりのすばらしいこと。またあの猛虎さえ倒すというその武勇のたのもしいこと。口先だけうまく、自分の利益のために殿をたぶらかしつづけた竜山とは、天と地ほどの違いがありますぞ!」
定正「お前は味方をけなし、敵をほめるのか。私がたぶらかされたというのか。このまま敵を放っておいて、笑いものになれというのか。無礼者!」
定正は河鯉に向かって力いっぱいムチを振るいました。ひたいの肉が破れて顔面が血だらけになりましたが、河鯉は顔をそむけませんし、馬のくつわも放しません。血だけではなく、その頬には涙もつたって流れます。
河鯉「殿に忠義を尽くそうとするがゆえの諫言でございます。はっきり言いましょう、私は竜山が討たれてうれしゅうございます。他の家臣どもも同様でしょう。殿が目を覚ましてくれるかと思ってです。これでもまだ足りませぬか。犬阪毛野は、世にもまれな豪傑ですぞ。近くに彼の仲間が潜んでいるとすれば、それらも劣らぬ豪傑でしょう。殿が出て行くのは危険すぎます。どうしてもというなら、私が出て行って彼らを捕らえてきます!」
定正「お前のような腰ヌケが頼りになるか。もはや聞く耳もたん!」
定正は、馬のあぶみから足を上げて、河鯉の胸を蹴飛ばしました。そして、倒れて失神した河鯉を見返りもせず、「者ども、つづけ」と叫ぶと、脱兎の勢いで城門を出て行きました。