109. 八百比丘尼の、次の作戦
■八百比丘尼の、次の作戦
犬江親兵衛が参戦したおかげで、館山城は落ち、蟇田素藤は追放され、周辺の敵対勢力もすっかり平らげることができました。里見チームの完勝です。
里見義成は、親兵衛に、素藤を追い出したあとの館山の城主をまかせることにしました。
義成「周りの勢力を一旦追い払ったとはいえ、たとえば武田信隆は甲斐の本家のもとに逃げていったらしいし、まだいろいろと油断はできない。だから、しっかりした人物にここの城主を任せたいんだ。どうだ、引き受けてくれるか」
親兵衛はひどく恐縮します。「まだ八人の犬士はそろっていません。城をしばらく守る仕事は喜んで引き受けますが、ほかの七人の義兄弟を差し置いて、若輩の自分が城主だなんて…」
義成「いいや、親兵衛がここの城主をつとめるからこそ、残りの七人も安心して参上してくれるというものだ。『隗より始めよ』とも言うじゃないか。お主の謙虚な心がけは大いに買うが、ここは受けてくれ」
親兵衛「はい…」
こういうわけで、親兵衛が館山城をおさめ、周辺の城(榎本、丁南)はさしあたって重臣たちの何人かで守ることになりました。親兵衛が、滝田にいる祖母(妙真)に会えるのは、少し先のことになりそうです。
この決定の翌日、義成は館山を離れて帰途につきました。爽やかで豪華ないでたちに身を包んだ義成たちの凱旋行列は見事なもので、周辺の村人の中には、これを伏して拝むものまでありました。
義成は直接自分の城に帰らず、まずは父・義実のいる滝田に寄りました。
義実「うおお、よくぞ寄ってくれたな。照文からおおむね聞いてるぞ。親兵衛が活躍してくれたそうだな。すばらしい、ホントすばらしい」
義成「ありがとうございます。親兵衛もこの場にいてほしかったところですが、今は館山城を守ってくれてるので… 今回の勝利は、とにもかくにも、父上の威徳と、姉上(伏姫)の神助のたまものですよ」
この晩は大宴会となりました。猿楽の楽団まで呼ばれました。兵士たち全員に、酒と食い物がふんだんに行き渡りました。妙真と、矠平ファミリーもこの宴会に呼ばれました。(矠平自身は、親兵衛に仕えて館山城にいますけどね)
義実「妙真どの、親兵衛にすぐにも会いたいだろうが、向こうの領地がもうちょっと落ち着くまで辛抱してくれ」
妙真「はい、ちょっとくらい待つのは何でもありません。本当に今まで生きていた甲斐がありました。孫の今回の活躍は、自分のことのようにうれしいです」
義実「音音どの、矠平の今回の働き、莫大だったよ。あの駿馬に遅れず走る男がいるなんて、信じられないね。たくさん恩賞が出るからね」
音音・曳手・単節「ありがとうございます。これも伏姫さまのおかげです…(ウルウル)」
こうしてこの晩は楽しく更けていきました。
義成と義実は、途中から宴会を抜けて一部屋にこもり、今回の賞罰やその他のことについて色々と相談をしました。
義実「富山で私を襲った賊たちだが…」
義成「ああ、それらの者たちの話は聞いています。館山で色々と資料を調べたところ、供述した内容はすべて本当だと確認されましたよ」
義実「じゃあ、死刑は許してやってくれないかな。そうやって約束もしたし」
義成「わかりました。一応取り調べは続けますが、たぶんそうできるでしょう。まあ、今回は素藤でさえ死刑にしなかったくらいですから」
義実「そうだね。よろしく。あと、館山に、神余光弘の子供だという人物はいたのかな」
義成「いました。上甘理墨之介と名乗っていました。かなり病弱そうで、相当に保護がいる感じです」
義実「彼のことも里見で面倒をみよう。賊の中に天津という男がいたが、彼をそばに仕えさせてやってくれ」
義成「わかりました」
こうして、大体の後始末が完了しました。翌日、義成たち一行は、威風堂々と稲村の城に帰っていきました。
さて、追放された素藤がその後どうなったかに話を移しましょう。これだけ話数を割いて生い立ちを紹介してきた素藤が、これっきりで終わるわけはないのです。
素藤はひとり、墨田川のほとりで途方に暮れていました。罰として叩かれた背中がヒリヒリ痛みます。ここは武蔵のどこか辺境と思われます。仲間だった者たちがどこに追放されたのかは分かりません。額には十字の入れ墨が入っており、どういう形であれ、これから前科者として後ろ指を指されながら生きていかなくてはならないのです。
素藤「けっ」
水草の茂る場所で、あたりには泊めてくれるような人家もありません。腹も減ってきましたし、だんだん日も暮れてきました。
素藤「なんも、することねえや。さしあたり、寝るくらいしかねえな。…おっ、あそこに舟がある。捨ててあるのかな。満ち潮でたまたま岸についたのか」
素藤は無人の小舟に乗ってみました。そこにはボロい蓑が入っていました。これをかぶって寝るとちょっとは暖かそうです。蓑を取り上げてみて驚いたことに、舟の底には弁当箱が置いてあり、中には米のメシと味噌が入っていました。
素藤「こいつはラッキーだ。メシと、かぶる物と、寝床をゲットしたぞ。案外幸先がいいんじゃねえのか」
素藤は弁当をたいらげ、早速舟の上で眠りました。ドロドロに疲れていましたから、波に揺られながら、思う存分に眠りました。
どのくらい眠ったでしょう。ふと気がつくと、あたりの風景は全く違っていました。鳥のさえずる声がします。
素藤「…あれっ、舟がねえ。ここはどこなんだ。山なのか。どうなっているんだ」
しばらく呆然と立ち尽くしましたが、それでは仕方がないので、素藤は適当な方向に歩いていきました。日中なのに、あたりには誰もいません。さらに歩くと、たった一件、家が見つかりました。
素藤「もしもし、誰かいませんか。誰か」
中から女の声がします。「えっ、どなたです。ここは人が来られるような所じゃないのに… あっ、あなたは、蟇田どの」
素藤「なんだ、オレの名前を知っているなんて… あっ、お前は妙椿か!」
なんと、ここには八百比丘尼こと妙椿がひとりで住んでいたのでした。前に会ったときより、若干若返っている様子です。坊主だった髪はちょっと伸びて黒々としています。
素藤「おい、この前は中途半端でどっか行っちまったのはどうしてだ。義道をさらうあたりまでは順調だったのに、あれからちっとも助けてくれなかったじゃないか。犬江親兵衛とかいうガキがメチャクチャしやがってよ。本当にひどい目にあったんだぜ」
妙椿「こちらにも色々と事情があったのよ。まあ説明しますから、とりあえずお上がりなさいよ」
素藤が家にあがると、いろりのそばに座らされました。なかなかセンスのよい住まいですが、掛け軸に「南無阿弥陀仏」ならぬ「なむあみ駄物」と書かれているのがなにやらバカにした感じです。
妙椿「私は、蟇田どのがどういう目に会っていたか、全部知っていますよ。天眼通の技で、みんな見ていたんです。お気の毒だったわねえ」
素藤「だったらなんで助けなかったんだよ」
妙椿「あの犬江親兵衛が持っている霊玉、あれが本当に強力でねえ。私でさえも、太刀打ちできないのよ。あれはもともと、役小角が、天津八尺の勾玉を刻んで作ったものなの。私もちょっとした法術の玉を持ってはいるけど、このテの類似品と比べて、ケタ違いなのよ。あれに勝てなかったからといって、恨まないでちょうだい」
素藤「ふーん」
妙椿「でもね、私も割と頑張ったんですよ。あんたが死なないように計らったの」
素藤「どういうことだ」
妙椿「親兵衛が、あんたを死刑にしなかったでしょ。いくら『仁』でも、これはさすがにやりすぎなのよ。私がね、ここから念じて、彼の『仁』の力をちょっとだけオーバーな方向に狂わせたのよ」
素藤「ほう、なるほど」
妙椿「あと、あんたに舟と弁当を送ったのも私なのよ。私なりに、あんたを守っているの」
素藤「そうかー、言われてみれば、不幸の中にも、色々とラッキー続きだった。お前のおかげだったのか。感謝するぜ。で、オレはこれからどうすればいいんだ」
妙椿「言うまでもないわ。リベンジよ」
素藤「リベンジ? できるのか?」
妙椿「犬江親兵衛に、真っ正面から当たらなければいいのよ。やつさえどこかに追い払っておけば、館山を取り戻すのだってワケないわ。協力してあげる」
素藤「どうやればいいんだ。教えてくれ」
妙椿「ま、そこらへんは追い追いね… しばらくはこの家でのんびりなさいよ。そのうちいい機会もあるわ」
そうしてしばらくは、妙椿と素藤はこの庵に一緒に住みました。妙椿がどこからともなく持ってくるままに、気ままにメシを食い、酒を飲み、夜は寝床で運動会。実に乱れた暮らしでしたが、どちらにも性に合っていました。妙椿が「尼さん」という設定はどこへ行ったのやら。
そうこうしているうちに3月になりました。妙椿は「そろそろいいタイミングね。しばらく出かけてくるわ。まあ一ヶ月ってところかしら。留守番しててね」と言い残すと、素藤を家に残して、フッといなくなってしまいました。
さて、妙椿がいなくなったのと同じ頃、稲村では、城の中に女の幽霊が出てきて、人々を不安がらせるようになりました。不思議なことに、この幽霊は、もっぱら浜路姫の寝床を狙って現れるのです。浜路姫は恐がり、寝不足と恐怖で病気のようになってしまいました。薬をのませても全く効き目がありません。
義成はこの謎の現象をなんとかすべく、洲崎にある役行者ゆかりの神社に使者を派遣し、姫の平癒を祈願しました。この使者が、神社の帰り道に、白い眉とヒゲをたたえた謎の老人に出会います。
老人「もしもし、おぬしは、浜路姫のたたりを除こうとして参拝した方じゃな」
使者「そ、そうなんです」
老人「彼女に憑いているのが何者なのか教えてやろう。それは夏引という女で、甲斐にいたときの継母よ。彼女は自らの悪事がもとで死刑になったんじゃが、どうやら浜路姫を逆恨みしているようじゃな」
使者「どうすればいいんです」
老人「どうすればいいのか教えてあげよう。犬江親兵衛という男が、『仁』の玉を持っているじゃろう。その玉を借りて、浜路姫の寝床の下に深く埋めるんじゃ。それで幽霊を追い払うことができるであろう。殿にもこの話を教えてあげなさい…」
義成はこの話を聞いて喜びました。
義成「ずいぶん昔のことだが、かつて姉上(伏姫)の感情が不安定だったころ、父上が同じようなことをして、役行者のお告げを受けたことがあった。今回もそれにシチュエーションがそっくりだ。この預言、信じる価値があるかもしれん」
義成「しかしなあ… 確たる証拠がある話でもないんだよな。こんな変な用事で、親兵衛から玉を借りて地面に埋めるなんて、いいのかなあ」
義成が迷っていると、その晩から、幽霊の出現頻度は今までの倍くらいになり、姫は夜ごとに体力を失っていきました。
義成「これはいかん。仕方がない。ダメもとだ、親兵衛を呼ぼう」