189. さらば八犬士
■さらば八犬士
(原作「第百八十勝回下編大団円」に対応)
8人の犬士は、丶大が別れ際に言った「早く引退しなよ」という言葉が、あれ以来ずっと気になっていました。そのため、国政に関わることは辞退しがちになり、稲村ではもっぱら四人の家老に何事も任せるようになりました。
老臣・東辰相や荒川清澄が、老衰によりあいついで死去しました。しかしその子たちがそれぞれ跡を継ぎ、東・荒川・堀内・杉倉による四家老の体勢はそれから何代も続きました。
犬士たちは、たくさん子をもうけました。下にまとめておきましょう。
【親兵衛】二男一女。長男・犬江真平如心。後に親兵衛と改名。次男・犬江大八。市川の依介に子がなかったので、そこの養子に。娘(甫)は後に信乃の長男と結婚。
【道節】三男二女。長男・犬山道一郎中心。後に道節と改名。次男は落鮎有種の養子となり、余之八有与と名乗る。三男は仏教に興味があり、念戌の弟子となって、後に延命寺住職に。法名道空。二人の娘は、後に力二と尺八と結婚。
【現八】三男一女。長男・犬飼玄吉言人。後に現八と改名。次男(見兵衛道宣)は許我の足利成氏に仕える。三男は甘糟糠介と名づけ、上総の郷士に。娘は大角の長男と結婚。
【小文吾】二男二女。長男・犬田小文吾理順。後に豊後と改名。次男は那古小七郎順明、行徳の郷士に。娘はそれぞれ親兵衛の長男と次男と結婚。
【信乃】二男二女。長男・犬塚信乃戍子。後に信濃と改名。次男は大塚番匠戍郷、大塚の郷士に。娘はそれぞれ荘助の長男と小文吾の長男と結婚。
【毛野】二男。長男・犬阪毛野胤才。後に下野と改名。次男は粟飯原首胤栄と名乗らせ、千葉の郷士に。
【荘助】一男二女。長男・犬川額蔵則任。後に荘介と改名。娘は信乃の次男と蜑崎照文の孫とそれぞれ結婚。
【大角】二男二女。長男・犬村角太郎儀正。後に大学と改名。次男は赤岩正学儀武と名乗らせ、赤岩の郷士に。娘はそれぞれ、現八の長男と小文吾の次男と結婚。
親兵衛の妻・静峯は、39歳のときに死んでしまいました(親兵衛はこのとき30歳)。再婚をすすめる声はたくさんありましたが、親兵衛は決して後妻を取りませんでした。いわく、「私は9歳で神童と呼ばれたんですが、こういう人間って、必ず早死にすると思っているんです。30歳まで生きているのだって奇跡です。後妻なんかとってどうするんです」だそうです。
たくさんいた脇役的な登場人物たちは、基本的に「幸せに老いて死んだ」くらいに考えておけば良いでしょう。
この後、義成の妻が死去し、それに次いで義成も世を去りました。ここからは義道が安房を仕切るのですが、不幸なことに義道は短命でした。
義道の長男は筠孺、義道の弟は次丸です。本来、義道の後を継ぐのは幼い筠孺なのですが、彼が成人するまでは次丸(実尭)に国政を預けることになりました。実尭は性格がよくなく、政治は乱暴で、後に本当に筠孺に国主の座を譲る気があるのか怪しいものです。とってもよくある、内輪もめの黄金パターンのはじまりですね。
犬士たちは、このとき、実尭のもとに参じて、引退の願いを申し上げました。実尭はこれを許しましたので、犬士たちは自分の後継をそれぞれ長男に任せると、富山の観音堂の隣に小さな小屋を建てて8人で住みはじめました。妻たちは泣いてすがりつきましたが、置いていきました。
犬士たちは、富山に去る直前に、それぞれの息子に全員が同じようなアドバイスをしました。「今後、里見家が道を保つようなら、引き続き仕えなさい。しかし道を外れてしまうようなら、高給を惜しまず、さっさと去るのがよい」
それから20年がたちました。この頃には、息子たちが差し入れていた米・塩・衣装類も、犬士たちはほとんど受け取らなくなりました。犬士の妻たちは全員老いて世を去りましたが、犬士たちはますます元気で、軽々と山の中をとびまわって、四季を楽しみながら生活していました。
犬士のジュニアたちは、親の様子をたずねるために、あるとき全員で富山に登りました。犬士たちはこれを予知していたかのように、8人全員で静かに小屋にくつろいでいました。
犬士「やあ、来るのを待ってたよ。お前たちは気づいているか、この国の仁義が衰えて、内乱が起ころうとしている」
ジュニアたち「えっ!」
犬士「我々は、殿たちを諫めようとも思ったのだが、あの人は残念ながら聞く耳を持つタイプではない。怒って、諫めた我々を殺すだろう。だから我々は、他の場所に去ろうと思う。お前たちもそうしなさい。清貧を楽しみなさい」
ジュニアたちは、親たちでさえどうしようもないと言い放つこの安房の現状を悲しみ、思わず頭をたれて考え込んでしまいました。そして再び顔を上げると… 犬士たちはもう小屋の中におらず、部屋の中には馥郁とした香りがただよっているだけでした。
ジュニアたちはさっそく国主に引退を申し出て、安房を出て行きました。
この直後に、実尭と義豊(筠孺のこと)による、国主の座を賭けた内乱が勃発しました。最終的には実尭と義豊両方が討ち死にし、実尭の息子の義尭が国主の座につきました。義尭は出て行ったジュニアたちを再び呼び返し、ジュニアの息子、すなわち三代目たちが再び「八犬士」を名乗って義尭に仕えました。
この後の里見家の流れはちょっと置いておいて、この時代の周辺のエピソードをいくつか拾っていきましょう。
まず、政木大全孝嗣について。彼の家は代々里見に仕えてその剛勇で名を知られることになるのですが、孝嗣から四代目の時綱は、酒を飲み過ぎて吐血して死んでしまったとも、褒美の少なさを恨み、反乱を企てて殺されたとも言われています。そこで一旦政木氏は断絶するのですが、その後、里見家の庶流が政木の名を継ぐようになりました。
次に、細川政元について。彼は文明18年に京の管領の座に返り咲きました。しかし、香西復六に逆恨みされて、入浴中に暗殺されてしまいました。この後に起こった内乱によって、復六も流れ矢に当たって死にました。
次に、扇谷定正について。彼は、最後の最後まで愚かでした。「先の戦に負けたのは、巨田道灌が裏で糸を引いたせい」という怪情報を信じて、最後の忠臣・道灌を暗殺してしまったのです。これを知った巨田助友は、さすがに主を見限って敵国の北条氏に降ってしまいました。(しかし北条には冷遇されたので、その後、里見に仕えました。)定正は後に山内に追いやられて河鯉城に籠もり、やがてそこで淋しい死を迎えました。52歳でした。
その山内顕定はというと、こちらは北条に負けて討ち死にしました。
許我の成氏は、割と長くその地位を保つことができました。管領職は9代続きました。
千葉、長尾、三浦のあたりは、省略。
さて、里見家のそれからに話を戻しましょう。
といっても、あっけないものです。里見義尭は、北条と激戦を繰り広げましたが、それに敗れて領土を少なからず失いました。その子義弘も、国府台の城を北条に取られて(例の引き継ぎ不足)、安房以外の領土を失いました。この後も戦いに明け暮れ、やがて10代目の忠義に至って里見家は断絶してしまいました。先細りではありましたが、丶大が埋めた守護神のおかげで、一応10代先の世まで里見が続いた、と言えなくもありませんね。
いつか、里見義道が見つけた、10本の茎を持つ霊芝がありました。これは奇しくも、里見家の運命を象徴するものだったのです。
これにて、里見の八犬士の物語はおしまい。ヒーロー達が生きた時代ははかなく過ぎ去り、人の栄枯盛衰は一時の夢のようです。しかし人の生き方の基本はいつも変わりません。善をなし、悪をなさないよう心がけるのみです。八犬士はもういない、などと嘆くことなかれ。人は誰だって、八犬士のようになる素質を持っているのですから。
最後に、馬琴センセイが巻末に書いた詩を記して終わりにします。
里見名臣八犬伝う
精編百巻珠を集て全し
誰か云う咱他が戯謔を悪むと
驚き嘆ず流行独り傑然
ぬしをしる犬てふ八の氏人のこころ玉なす八つの行い
浮草のうきしすさびもいましめの筆をよるべの根なしことの葉