68. 神になった男
■神になった男
中城で母を失い、そしてここ八頭山では父に去られた舜天丸は、地面に伏してオイオイと泣きました。まわりで見ている紀平治や陶松壽らも、気の毒で慰めようがありません。
福禄寿「これこれ舜天丸よ、そう嘆くではない。今から立派に生きて使命を全うし、後に名を残すことが親孝行というものだぞ。これからの琉球の民の幸せはお前にかかっておるのだからな。なに心配するな、ワシも陰から手伝ってやるから」
福禄寿「ワシはこれから、しばらく琉球国内で人間に生まれ変わってやろう。顔はワシに似てるはずだから、たぶんすぐ分かるぞ。見つけたら、宮中に占い師として雇ってやるのがよかろう。ま、あんまり未来のことをバラし過ぎてもいかんから、この話はこんなところじゃ。それでは、さらば」
ここまで言うと、福禄寿はおもむろに鶴に乗り、バサリと飛び立つと遠くに去っていきました。舜天丸たちは、これが全く見えなくなるまで、伏し拝みつづけました。
この年の12月に、舜天丸(諱は尊敦)は琉球の新王・舜天王として即位します。為朝が昇天して琉球を去ったことを知った国民はいっとき悲しみに沈みましたが、その子が新国王になってくれたことに諸手をあげて喜びました。舜天王は聡明で徳にすぐれており、今までの悪政をすっかり改めて民をにぎわしましたので、民に広く愛されるようになりました。
今回活躍した人々は、すべて何らかの役職につけられました。詳しくは書きませんが、陶松壽の娘にあたる小萩が舜天王の王妃となったことは特筆しておきましょう。
新王は、例のふたつの玉を国王の印として受け継ぐことをやめるよう皆に提案しました。
舜天王「敵だったものの遺品を大事に受け継ぐのは変だよね。これは山に埋めて、石碑を建てて魂を鎮めよう。代わりに、父から受け継いだ真鶴の太刀と、仙人の鶴に結びつけらえていた金の札を代々の国王の印としたい」
この提案は賛成され、源氏と福禄寿にゆかりを持つこの二つのアイテムが伝国の神器と決められました。
この後も王は、神と先祖をまつって敬い、学校をつくって民を教化し、文化を振興させ、非のうちどころのない善政をつづけました。
舜天王の治世のときに、一度、日本からの侵攻軍がせまってきたことがありました。源頼朝の命令によるものです。
舜天王「彼は、私のイトコにあたる。頼朝は私のことを知らないのだろうが、こちらから敵対的な態度を取ることは絶対によそう」
こうして舜天王は、徹底的に礼節を守って、侵攻軍の使者であった宇都宮信房と天野遠景を接遇しました。二人は琉球王のこの態度に感服し、ついに和睦を受け入れて日本に戻っていきました。これも神の助けだったに違いありません。
舜天王の治世は50年つづき、ついに77歳のときに王は死去しました。それまでに紀平治は100歳まで生きて死に、陶松壽は80歳を少し超えてから死にました。鶴、亀、そして陶松壽の息子・高満がそれぞれ大臣たちの跡を継ぎました。
舜天王は死ぬ直前に枕元に息子の舜馬順熙を呼び寄せ、遺言を伝えました。
舜天王「私の心は、死んだら故郷の日本に帰るつもりだ。そして、母違いの兄である足利義包(朝稚)の子孫として生まれ変わる。何代かあとに、「尊」の字を持つ武将が生まれたら、それが私だ。父がなすべきであった仕事を、私がそこで継ぐ…」
ちょっと先の話ですが、この舜天王の予言にあてはまる人物は、義包の5代あとに現れました。その人物、足利高氏は、正慶の軍功によって、後醍醐院から一字を賜り、尊氏と名を改めました。彼こそは舜天王の生まれ変わりだったのでしょうか。その真偽は誰にもわかりません。
それはさておき、琉球では、舜馬順熙が即位して舜馬順熙王となりました。その子、義本が、三代目の義本王となりました。琉球はいよいよ栄えて、その黄金時代を迎えたのでした。
さて、時間はすこしさかのぼります。為朝が福禄寿の手引きによって天に昇ったころ、鎌倉にいた足利義包(朝稚・当時25歳)は、うたた寝の途中に長い夢を見ました。彼はすでに、家督を継いで従四位下・治部大輔の官名を持っていました。
彼は、息子の義氏(8歳)を呼び寄せて、夢の内容を彼だけに告げました。
義包「実に不思議な夢を見た… 私の実父にあたる八郎為朝が、清盛を討つために九州から船出して、嵐に巻き込まれて琉球に漂着したのだ。そして、カクカクシカジカといった波瀾万丈の冒険をし、そしてついに神となって昇天したのだ。長い、とても長い夢だった」
夢の内容はきわめて詳細で、為朝・白縫・舜天丸たちの琉球での冒険が、義包には目の前で起こったかのように鮮やかに記憶されていました。
義包「義氏よ、今はこの話を誰にも漏らさないでおけ。そして、お前が字を書けるようになったら、すべてを本に書きとめ、宝物として秘蔵せよ。私が為朝の子孫であることは、誰にも秘密なのだ。とくに、頼朝さまには絶対に知られたくない。あの人は、優れた人物を非常に強く憎むからだ」
義氏「わかりました、父上」
義氏は後にこの物語を書物に記し、代々、家督を継いだ子にのみこれを読むことを許しました。この本は、後に応仁の乱で焼失してしまったといいます。
さて、再び時間をさかのぼります。時は文治3年の9月25日早朝。讃岐国、白峯にある崇徳院の霊廟前で、一体の切腹死体が発見されました。腹を十文字にかき切って、廟の柱に身をもたれさせて息絶えたようです。
廟を守る武士たちはこれを見つけて騒ぎましたが、これが誰であるかは全く分かりません。唯一、筑紫出身の70歳の武士だけが、「筑紫の御曹司に似ている」とつぶやきました。これを聞いた他の人々は笑います。
他の武士「御曹司って、八郎為朝のことかよ。あいつは、伊豆の大島で死んだんだ。こんなところにいるわけがないだろう。こいつはおおかた、平家の残党とかそんなもんに決まっている」
そうして、この件を京都の守護に報告したのですが… その晩、この死体は忽然と消えてしまいました。キツネにでも化かされたのかとみな不思議がりましたが、この件はこれ以上追究されませんでした。
もちろん、これこそは、為朝の人間としての最後の姿だったのです。生きながら神に近づいた為朝は、琉球からここに戻ってきて、人間としての最後の仕事、崇徳院への忠義を全うするという仕事をここに終えたのでした。
こののち、為朝は完全に人の姿を解脱し、その子孫を守りつづけました。
義包が頼朝に随従して奥州藤原氏の征伐に行ったときにもおおいに義包を助けましたし、その後の子孫たちの戦いにおいても、ピンチを幾度となく救い、足利家の繁栄を草場の陰から支え続けました。
ただし、足利尊氏とその弟は、先祖である為朝に似ず、人としてあまり感心なものでなかったといいます。そのせいか、為朝の護りは代々薄れていき、足利13代の世の中は、平穏なものとはかけ離れた乱世の様相を年々深めていく、そんな時代になってしまったのでした。
歴史の表舞台には出ず、九州、伊豆、琉球を股にかけてその壮絶な生涯を駆け抜けた男、知られざるヒーロー、源八郎為朝の一代記は、これにておしまい!