13. 伏姫、みずからの腹を裂く
■伏姫、みずからの腹を裂く
伏姫は悩んでいます。 親への恨みの身代わりとなって奈落に落ちるのは子のつとめとして本望です。だけど、まさか畜生の子を妊娠する羽目になるとは、神も仏もあまりにつらい仕打ちをするものです。この際、最初に八房に言い寄られたときに一緒に死ねばよかったとさえ思います。
伏姫「あの子供によれば、これを生んで幸いがあると言ったけど… ひどい恥辱には変わりないじゃない」
それにしても、あの子供は伏姫のことを何もかも知っていたようで不思議です。偶然近くを通りかかったように振舞っていましたが、きっと違うのでしょう。姫は、たぶんあの子供は例の老人、役行者の弟子なのだろうと思いました。しかし、もうすぐ私が父と夫に会うことになるとは? 八房のことじゃないみたいだし、夫って何よ。
夫はともかく、父義実に自分のこんな姿を見られることだけでも、とても耐えられません。伏姫は、谷川に身を投げて死んでしまえば、こんな浅ましい姿を誰にも見せずにすむだろうと想像しました。
伏姫「そうしよう… でも、せめて遺書を書いてからにしよう。誰かが読むかは知らないけれど。お父さんお母さんごめんなさい」
姫はここに来てから今までに起こったことをすべて書き残しました。読経の功徳で犬が改心した件、謎の子供に自分が妊娠していると告げられた件… 書いている間も、涙が流れて止まりません。
ついに書き終わり、筆をおきました。最後に仏に祈っておこうと思い、手に数珠を持ちました。ふと見ると、いままで「如是畜生 発菩提心」と表示されていた玉が、昔の「仁義礼智 忠信孝悌」に戻っています。
伏姫「あれ… これはどういうことだろう。八房(畜生)が菩提心を起こしたから、もうあのモード表示は終わったってことかしら」
伏姫「きっと、私ももう往生していいってことよね」
伏姫「さあ八房、私は今から死ぬことにします。あなたはどうしますか。私を今まで生かしてくれた恩があるお前を、わたしみずからが殺すことはできません。しかし、生き残っても、きっと不幸な目にあいますよ。あなたは菩提を得ることができたから、来世は人間になれるかもしれませんよ」
八房「ワン(一緒に死ぬー)」
伏姫「いい返事。きっとこれで里見の呪いも終わるのね。さいごに、法華経の中で私の好きなところを読ませてちょうだい」
伏姫最後の読経は、法華経の五巻、八歳竜女のくだりです。女人にしてはじめて菩提を得て成仏したという人物の話です。今回のようなときにふさわしい内容といえるでしょう。
…三千衆生発菩提心 而得受記 智積菩薩及舎利弗 一切衆生 黙然信受
読経を終えました。
八房は、おもむろに立ち上がると、トコトコと川岸まで歩いていきます。
そこに突然の銃声!
八房はノドを打ち抜かれて倒れました。
銃は、弾丸がふたつ飛び出すタイプでした。ひとつめは八房にあたり、二つ目は…
洞窟の入り口にいた伏姫の胸の下にあたりました。もともと狙ったのは八房だったのでしょうが、流れ弾が偶然にも伏姫にあたったのです。伏姫は、経の巻物をもったまま、横倒れに倒れました。
金碗大輔「手ごたえあった!」
大輔は谷川を夢中で渡ります。今までは誰も渡れない急流と思えたこの川ですが、結界の呪いが消えたのか、今は問題なく渡れるようです。大輔は向こう岸にわたり、倒れている犬を、猟銃で骨が砕けるほどめった打ちにしました。
大輔「姫! 伏姫! 助けにきました。犬は死にましたぞ」
しかし、姫のもとに走り寄ってみると、姫もまた倒れており、息がありません。弾丸が姫にも当たったのだ、と思い至ると、恐怖で大輔の全身の毛が逆立ちました。手持ちの薬を無理に飲ませてみましたが、生き返る気配はありません。
なんという罪を犯したことでしょう。大輔は衝動的に、自分の腹を切ろうと刀を振り上げました。そこに矢が飛んできて、大輔の刀をはじき落としました。
「大輔早まるな、しばらく待て」
声の主は、紛うはずもない、里見義実その人です。お供に堀内も連れています。大輔は、平伏するほかありません。体中を冷や汗がぬらします。
義実「堀内、そこに落ちている、姫の遺書をもってこい。大輔よ、なぜここにいる。今伏姫と八房を撃ったのはお前か。今までのことをすべて話せ」
金碗大輔は、安西の使いに送り出されてから今までのことを、すべて詳しく話しました。さいごに、どうぞ私を罰してください、とつけ加えました。
義実「もちろんお前に罪はあるが、姫にとってはこの死は天命だったとも言える。姫は今から身投げするつもりだったのだ。堀内、遺書を読み上げよ」
堀内が読み上げる遺書の内容を聞く間、大輔の涙はとまりません。義実の顔も沈痛そうです。
義実「私たちがここにいる理由は、かくかくしかじか。役行者の導きだったと言えよう。今までの一連の事件は、すべて私に原因があったと思っている」
義実はこの因果のサイクルを、自省をこめてまとめました。
○ 玉梓にうっかり罪を許すとか言いかけて恨まれた
○ 玉梓が犬に生まれ変わって、伏姫を連れ去った
○ 伏姫が大輔に撃ち殺された
○ 大輔は罪もないのに逃亡する羽目になり、忠義のつもりで却って罪をなした
義実「みんなオレから出たことだ…」
ここまで聞いて、大輔には、ふと疑問に思ったことがあります。
大輔「犬は改心して、呪いの連鎖はそこで終わったのでは? それなら、なぜ殿がここに着いたときに、姫は死んでいなければいけなかったのでしょう」
義実「うーん、姫が節操を守り通したことを私に知らせるために、ではないだろうか。姫が我々に見つからず投身自殺してしまえば、遺書も見つからないし、単に犬にはずかしめられた女って評判になってしまう。こんな感じかな?」
大輔・堀内「(なんかピンとこないな…)」
義実「謎の子供が言ったという、父と夫に会うことになる、って予言は、あながち間違っていないのだ。わたしはひそかに大輔に伏姫をめとらせることを考えていた。今いっても仕方がないのだが…」
大輔「ありがとうございます。ですがもう取り返しのつかないことです。速やかに罰を与えてくださいませ」
義実「姫が死んでいれば、そうするべきだな。しかし、よく見ると、案外キズが浅いようなのだ。もしかしたら、生き返らないか? この数珠は、いかにもって感じの重要アイテムじゃないか?」
落ちていた数珠を、義実みずから、姫の襟首にかけてみました。すると、驚くべし、本当に伏姫は生き返って目をひらきました。数珠を手放したから気絶していただけだったのです。
みんな「やった!」
姫は呆然としていましたが、まわりの様子に気づくと、あわてて袖で顔を隠して泣き始めました。手を差し伸べても振り払います。
義実「もう大丈夫だ、帰ろう。みながここに集った事情は、話せば長い。母も心配しているぞ」
伏姫「もう戻れないのです。戻れないのです! 私の犯した罪は重すぎます。この姿をさらして、生きているわけにはいきません。今すぐ私の腹を切り開いて、自分の迷いも、みなの疑念も解かなくてはいけない!」
みなが止める間もなく、伏姫はみずからの腹を一文字にかき切りました!
傷口から、白い気がたちのぼります。その気は数珠にまとわりついて、それを空中たかく持ち上げました。山の風がどうと吹き、数珠のなかの8つの玉が、流れ星のように八方に飛び去りました。残りの玉は、数珠につながれたままで再び地面に落ちました。
伏姫「うれしい、私のおなかには不義なものは宿っていなかった。わたしは運命を全うでき、みなの疑いも晴らすことができました。もう気がかりはありません。弥陀如来よ、わたしを西方浄土にお導きください」
血にまみれた刃を抜き捨て、伏姫は息絶えました。