23. 網乾左母二郎登場
■網乾左母二郎登場
犬塚信乃は、蟇六のところに養子に行って以来、なかなか里の人たちと親しく口を聞く機会がありませんでした。蟇六たちに止められていたからです。ただし糠助だけは古いなじみということで許されていました。その糠助が死にそうだという知らせが信乃に届きました。
糠助は前の年に奥さんが亡くなり、病気がちのままひとり暮らしをしていました。信乃が薬代として小判一枚を援助したこともあったのですが、それでも良くはならなかったのです。
(番作が信乃にこっそり、小判十枚の遺産を残していたのです。このうち三枚は、養子先の蟇六に渡しました。父の三十五日の法要の費用にも一枚使いました。このときに蟇六が宴会をしましたが、信乃のカネだったんですね)
信乃はすぐに糠助の枕元まで駆けつけました。
信乃「糠助さん、具合はどうです」
糠助「ああ信乃どの、よく来てくれた。私は一人身だし、死ぬことに未練はないが、実はひとつだけ心残りがあるので、それをこっそりあなたにだけ伝えたいのです」
信乃「心残りとは?」
糠助「この里の人は知らせていませんが、私には実はひとり子供がいたのです」
糠助は、もともとは安房の洲崎の出身だということでした。そこで結婚して子供もできたのですが、妻が産後すぐに死んでしまい、子供まで病気がちなので、たちまち貧乏になりました。そこでつい密漁に手を染め、逮捕されてしまったのです。
糠助「洲崎の浦は役行者の霊地なので、漁は禁止だったのです」
糠助は水漬けの刑を言い渡されたのですが、ちょうどそのころは安房の領主の娘である伏姫の三回忌だったので、恩赦にあずかることができました。だからといって、今後の生活の当てがあるわけでもありません。子供(村長があずかってくれていました)は返してもらったものの、もう心中してしまおうと思って、ある橋の上まで来たのでした。
糠助「玄吉(子供の名前)を抱えて飛び込もうと思ったときに、飛脚に声をかけられました」
その飛脚は、足利成氏の臣下で、安房の里見に遣いにいく途中でした。その人が子供を育てたいと申し出てくれたので、ありがたく預けることにしたのです。その後糠助はひとり、この大塚の里に流れついたというわけです。
糠助「そのときは、その人の名前を聞くこともできませんでした。いま成氏様は、許我から離れて千葉にいると聞きます。玄吉が生きていれば、彼もその付近にいると思います。もし玄吉に会うことがあれば、実の親がここにいたということを伝えてほしいのです」
信乃「わかった。なにか彼に特徴はないかな」
糠助「玄吉の右の頬には、牡丹のようなアザがあります」
信乃「!」
糠助「あと、彼は玉の入ったお守り袋を持っています。誕生祝いに鯛をさばいたとき、そこから出てきたんです。『信』っていう文字が書いてある、不思議な感じの玉です」
信乃「!!」
糠助「手がかりはこんなものです。おねがいします…」
信乃「なんか、絶対に見つけられそうな気がするよ。安心してください、糠助さん」
信乃はここで聞いたことを帰って額蔵にも教え、ふたりでこの偶然のめぐり合わせに驚きました。
次の朝、糠助は死にました。信乃は蟇六から金を借りて糠助の葬式を世話しました。後には糠助の家を売り、その金を蟇六に返しました。村人は信乃の心づくしに感心し、「早く信乃くんに村長になってもらいたいなあ」とウワサしました。
さて、話は変わって、網乾左母二郎という男のことを話しましょう。
左母二郎は、関東管領である扇谷定正に仕えていましたが、素行が悪くてクビになってしまいました。独身の身軽さでフラフラとこの大塚の里までやってきて、習字や楽器などを教えて生活費にしていました。(糠助の家を買ったのはこの男です。)
左母二郎はまだ25歳でけっこうハンサムです。しかも流行の歌やダンス、楽器などが特技なので非常にモテました。さらに軽薄なので、あたりの女性たちとしばしば浮名を立てました。亀篠が左母二郎のファンなので、村長の蟇六にも大目に見られ、村を追い出されることはありませんでした。
ある晩、蟇六は城から来た巡検役(陣代の簸上宮六)を接待する必要がありましたので、左母二郎を宴会の盛り上げ役に呼びました。左母二郎は歌も踊りも披露し、さらにはお調子のいいことを言いまくって客をよろこばせました。さらに、蟇六は、浜路にはきれいな薄羅を着せ、陣代のコンパニオン役をさせました。陣代は浜路のことを非常に気に入り、鼻の下を伸ばしまくって、たのしく朝まで宴会をしました。(ついでに言うと、信乃は呼ばれませんでした。)浜路はこんな宴会に出し物にされたことを非常に恥ずかしく、悔しく思いました。
ところで、左母二郎もまた、普段からから浜路をとても気に入っており、何度かラブレターを送ったりしていました。亀篠に歌や楽器の個人レッスンをするために屋敷に来ることが多かったのです。もっとも、浜路はこれを軽蔑して絶対にそれらを読みませんでしたが。
しかし亀篠は、左母二郎を浜路と結婚させるのは悪くない考えだと思っています。
亀篠「左母二郎は見込みがあるわ。本人は扇谷様にとても可愛がられていたらしくて、また召し返してもらえる見込みだって言ってたし、それなら身分は上々だわ」
亀篠「さらに重要なことに、彼はハンサムよ。まだ私が若かったら放っておかないくらい。浜路はどうやら信乃なんかが好きみたいだけど、左母二郎とつき合わせたら、きっとそのハンサムによろけて、信乃のことなんかすぐ忘れるはずだわ」
左母二郎は浜路が欲しいので、亀篠と蟇六に媚びまくります。亀篠は、左母二郎がハンサムなので可愛がります。蟇六は、媚びられるのがうれしいので可愛がります。お話は、なかなかイヤらしい感じになってきました。