33. 小文吾が尻を見せる
■ 小文吾が尻を見せる
信乃、見八、文五兵衛たちの目の前に現れたのは、ほかならぬ犬田小文吾でした。
文五兵衛「おま… おまえ、ひとをビックリさせるにもほどがある! 心臓とまるかと思ったじゃないか!」
見八「まあまあ、小文吾は、俺たちが危ない立場にいることを忘れかけてたから、注意してくれたんだよ。なあ」
小文吾「ごめんなさい、みなさん。あんまり父(文五兵衛)がエキサイトして声が大きくなってきたんで、ハラハラしたんですよ。ここは千葉家の領地ですが、千葉家は許我の御所(つまり成氏)と友好関係ですからね。捜査の手が伸びていてもおかしくないんですよ。あと、オヤジ、あんまり俺のどうでもいい話をしないでくれよ、恥ずかしい…」
信乃「あなたが小文吾どのか。はじめてお会いする。まあ、この舟に上がってくださいよ。そこは濡れます」
小文吾「いやいや、ここに長居しないほうがいいと思います」
小文吾「オヤジが釣りをしていると聞いたんでここまで探しに来たんですが、最初に見つけたのが俺でよかった。大体の話は、そのとき立ち聞きさせてもらいました。みなさんが危険な立場にあることが分かったんで、ひとっ走りしていろいろ準備していたんですよ」
小文吾は、信乃たちの安全のため、短い時間の間に下のような準備をしてくれていました。
○ 信乃と見八の着替えを持ってきた(血がついた服や、ズタズタの防具のままでは目立つ)
○ キズ薬を持ってきた
○ 信乃が腰に帯びる、大小の刀を持ってきた
○ 文五兵衛の宿屋のスタッフに休みをとらせた(安心して密談できるよう)
小文吾「あと、犬塚どのと見八が今着てるやつは、このフロシキに包んで俺が持って帰りますから」
信乃「すばらしい気づかいのできる人だ。恐れ入る!」
文五兵衛「ふん、それほどじゃあないよ(にやにや)」
見八「(息子のことほめられて、うれしそうだな)」
そんなわけで、信乃・見八・文五兵衛は、祭り帰りの人たちにまぎれて、文五兵衛の宿屋(古那屋)に向かいました。小文吾は、舟を沖に流してしまってから、あとで追いかけることになりました。舟をこのままにしておくと、追っ手がこれを見つけて面倒になりそうだからです。
小文吾は、泳いで舟を充分遠くに押しやってしまうと、岸に戻り、フロシキを背負って帰り始めました。もうすっかり真っ暗ですが、家への道に迷うことはありません。しかし、小文吾は、誰かが背後についてくる気配を感じました。
小文吾「ん、誰だ?」
曲者は、小文吾の背負っていたフロシキを引っ張りましたので、ほどけて中身が飛び出ました。小文吾は、それらを拾って守りつつ、曲者に応戦します。敵は体術に心得があるようで、お互いの攻撃は簡単に当たりません。しかも、真っ暗ですから、どっちもときどき転んだりします。しかしついに、小文吾のパンチが曲者のわき腹にヒットしました。曲者が「うっ」とうめいてかがみこんだところを、小文吾はフロシキをまとめなおして足早に立ち去りました。
曲者の闇討は失敗したのでしょうか? いいえ、彼の手には、信乃の着ていた麻衣が握られています。事情は不明ですが、どうも目的は達成したようです。小文吾は、フロシキの中身が一部なくなったことに気づいていません。
小文吾「ただの強盗… なのか? 万一、我々の話を聞いていたのでなければいいが… ともあれ、客人に余計な心配をさせたくない。しばらく様子を見ることにしよう」
小文吾が古那屋に着いたころは、三人はおおむね食事を終えていました。このシーズンにしては暑すぎるため宿の利用者が少なく、たまたまこの日はカラッポでした。スタッフにも休みをとらせたので、みな人目を気にせずリラックスできました。
(いまさらですが、文五兵衛が宿の名前を古那屋にしたのは、名字が那古だからです。話には関係ないですが)
信乃「文五兵衛どの、小文吾どの、今日はありがとう。今夜だけ、お言葉に甘えてここに泊まらせてもらう」
文五兵衛「何をいう、居たいだけいてよいのだぞ。例の『玉』と『アザ』の件で、おまえら三人は兄弟みたいなもんだ。ならばワシは、全員の親ってことじゃないか。遠慮はいらんさ、ハハハ」
小文吾「そうだ、さっそく私の『玉』をお見せしましょう」
小文吾はふところを探ると金襴の袋を取り出し、そこから取り出した半透明の白い玉を手のひらに載せてみんなに見せました。信乃と見八も同様に玉を差し出しましたので、明かりの下、三つの全く同じ玉がぼうっと光って表れました。玉を見分けるのは、その中に浮かんだ「孝」「信」「悌」の文字だけです。
文五兵衛「小文吾、アザもみせてあげなさい」
小文吾「そうですね。私のアザは尻にあるので、少々かっこ悪いですが…」
この尻を見せるシーン、直接原文を引用しましょう。『帯引解きて、衣を退け、背向になりて示すにぞ、文五兵衛は行燈の、灯口を其方に向たりける。当下信乃・見八は、目を斜にしてこれを見るに、肥膏づきたる肌膚の、白きは雪をも欺くべし…』妙に作者の筆がノッてますね。
ともかく三人は「玉」と「アザ」を確認しあって、あらためて義兄弟の誓いを交わしました。「我々は、楽しみを共にせずとも、憂いを共にしよう。生まれた日は違っても、同じ日に死のう」
信乃は、「玉」と「アザ」の持ち主は、全部で8人いるらしいということを明かしました。いつか、梅の木に八つの実が房をなして実っているのを見たときに、その玉に「仁・義・礼・智・孝・悌・忠・信」の字を読んだことがその根拠です。
信乃「一応、そのときの梅の実を手元に持っているんだ。まあ、種しか残っていないけど。友人に犬川荘助という男がいるんだけど、彼も『玉』と『アザ』を持っている。だから、これで4人そろったってことだね。残りの4人に会うのも楽しみだ」
一同はこの話を聞いていよいよ驚き、感動しました。まだよく分かりませんが、8人そろったら何かすごいことが起こりそうです。
小文吾「しかし… この宿にずっといるわけにもいかないね。許我の捜査がきっと来るから、明日、信乃さんと見八さんはいったんどこか遠くに離れるといいよ」
見八「そうだな。俺は名前が割れているから、ちょっと変えて、これから『現八郎』と名乗ろう」
さて、こんな話をしているうちにすっかり深夜になってしまったのですが、そのときに宿屋の扉を叩く音がありました。
小文吾「誰だよ、こんな夜中に」
男「俺です、塩浜の鹹四郎です。小文吾さんにケンカの仲裁をしてほしいんです。さっきの祭りの帰りに、あなたの弟子と房八さんの弟子が乱闘したんですよ」
小文吾「人騒がせな… すいませんみなさん。ここは自分でないと収められないと思うんで、ちょっと行ってきます」
こんなのはよくあることのようですが、文五兵衛は何か悪い予感を感じました。最近小文吾を恨んでいる房八が絡んでいるのもイヤな感じです。
文五兵衛「小文吾、行くのはいいが、その前にちょっと」
小文吾「はい?」
文五兵衛は、小文吾の脇差の鍔のあたりに、紙でつくったこよりを結び付けました。同様に、右手の親指と小指も同じようにこよりで縛りました。
小文吾「何です、これは?」
文五兵衛「お前はムカついたときについ暴力をふるって間違いを犯しがちだ。絶対にこのこよりをちぎらないようにするんだぞ。これを人からの信頼の象徴と思え。破るのは簡単だが、その後は取り返しがつかないものなのだ」
小文吾「ありがたい教えです。絶対に破りませんから、安心してください」
こう言うと、小文吾は出かけていきました。
そして朝が来ました。昼ごろになっても、小文吾は戻ってきません。それはそれで心配なのですが、もうひとつ、信乃がキズがひどく腫れて、寝込んでしまいました。
見八あらため現八「これは破傷風だな。許我で戦ったときのキズが治らないうちに、河の風にあたりすぎたのが悪いんだろう。俺のほうは大丈夫なんだが」
文五兵衛「炎症がかなりひどい。放っておくと命にかかわるぞ」
信乃「放っておいてくれて大丈夫です。あまり自分のことで世話をかけたくありません(ゼエゼエ)」
現八・文五兵衛「いやいや、そうもいかんですよ」
この土地にも医者は何人かいますから、誰かに診せにいきたいところですが、今は世を忍ぶ暮らしなので、あまりおおっぴらにもできません。
文五兵衛「破傷風を治す秘法ということで、兄(那古七郎)から教わった方法はある。若い男女の血液を一リットルずつ混ぜて、それでキズを洗えばいいらしいのだが」
現八「それって、血を取られるほうがすごく大変だよな。ほとんど致死量じゃないか。ちょっと頼める相手はいないなあ… 武蔵の志婆浦まで行けば、自分が知ってる薬屋があるから、ひとっ走りして買ってこよう! 急げば夜に帰ってこれると思うし」
文五兵衛「わかった、気をつけて行ってくれ…」
現八は、信乃に内緒で家を飛び出しました。信乃の性格だと「自分のことで苦労しないでくれ」と止めるに決まっていますからね。