35. 小文吾の長い一日(2)
■ 小文吾の長い一日(2)
小文吾は大変な窮地に立たされています。病気で寝込んでいる信乃を追手に差し出すか、父の文五兵衛を見殺しにするか、どちらかを選ばなくてはなりません。しかもタイムリミットは翌朝までなのです。
小文吾「どちらも避ける方法はないものか。現八はまだ帰ってこないし、オレ一人でどうすればいいのか…」
そこにフラっと気安く入ってきたのは、山伏の念玉です。賭け相撲で勝ったほうです。念玉はしばらくこの宿に滞在中だったのですが、昨日だけは別の観光のために帰ってこなかったのでした。
念玉「やあやあ関取、今帰ったよ。またお世話になる」
小文吾「(間が悪いな…)やあ念玉さん、今はスタッフが一人もいないんだけど、オレでよければ何か食事をこしらえますよ」
念玉「おなかはいっぱいなんだ、ありがとう。すぐ寝るよ。勝手に奥に行くね」
小文吾「ま、待った! 明かりをまだ置いてませんから、ちょっと待ってください。…え、えっと、それ立派なほら貝ですね」
念玉「大きいでしょ。さっき見かけてすごく気に入ってねえ。思わず買っちゃった。山伏にはこういうのがお似合いでしょ。フフン」
念玉は店の片隅に置かれていた尺八に気づきました。
念玉「その尺八もなかなかいいものだね」
小文吾「これは、たぶんほかのお客が置き忘れていったやつですね。尺八を持つのは、ちょっと前に流行りましたから」
念玉「これ、今晩貸してもらっていいかな。どうせ夜はヒマだから、これを吹いて遊びたい」
小文吾「ああ、いいですよ。さあ、部屋を準備しますから待っててください」
小文吾は別館に念玉の部屋をつくりました。(母屋は信乃がいますからね。)念玉はそこに案内されると、さっそく尺八をボロボロと吹いて遊び始めました。
小文吾「どうしよう、こんなときに客なんて。もし信乃どのを見られたら困ったことになるなあ。いっそ殺すって手もあるけど、さすがにダメだよな」
ふと近くを見ると、山伏はほら貝を置き忘れています。尺八を見つけたのを喜んで、こっちのことを忘れてしまったのでしょう。わりとのん気なオジサンです。
ところで、小文吾は、さっき新織から渡された信乃の似顔絵をどこかに落としてきてしまったようだと気づきました。あんなものは、できるだけほかの人に見せちゃいけません。
小文吾「あわてて家に帰る途中に落としちゃったんだろうか。どうしよう。ああもう、悩みの種が増えていくばかりだ」
そのとき、店の潜り戸を開いたものがいます。「おい小文吾」と呼びかけるのは、塩浜の鹹四郎と均太と孟六の三人組です。みな、小文吾の相撲の弟子です。
小文吾「こんな時間になんだお前ら。俺はいろいろ取り込み中なんだ」
鹹四郎「俺たちは、お前の弟子をやめることを宣告しにきたんだ。さっき、お前が房八に足蹴にされて黙っているのを見たぞ。あんな腰抜けだとは思わなかった。ウワサはもう村中に広がってるよ。もうだれもお前を相撲の師匠だなんて思わねえ」
小文吾「なんだそんなことか、勝手にしろ。スズメの群れがピーチク騒いだって、俺には関係ない。わかったから、帰れよ」
鹹四郎「ああそうするよ。しかし、破門の記念に、一発殴ってから帰らせてもらう。そらっ」
鹹四郎と残りの二人は小文吾に打ってかかりました。小文吾は鹹四郎の足を払って倒すと背中を踏みつけ、均太と孟六の腕をちょいとひねり上げました。
均太・孟六「ぎゃあー、腕がもげる、助けて、助けて」
鹹四郎「背骨が折れる、目玉が飛び出る、助けてー」
小文吾「くだらねえ。元弟子のよしみで今日だけは許してやるから、さっさと帰れよ」
三人はヨロヨロと帰っていきました。小文吾は、今のケンカで親父の約束を破ってないかな、とちょっと心配しました。でも、正当防衛だったし、たぶんセーフだろ。
また静けさが戻ってきました。夜がすっかり更けてきました。時々、念玉が尺八を吹く音だけが「プヒョー」と聞こえてきます。悩んでも悩んでも、小文吾にはこのピンチを切り抜ける方法はわかりません。
また、別の誰かが玄関にやってきた気配があります。
小文吾「どうしてこう、今夜みたいなときに限って人がいっぱい来るんだ」
やってきたのは妙真でした。房八の母親です。三年前に夫をなくしており、今は髪を短くして、尼の姿をしています。
小文吾「あっ、お義母さん、どうしたんです。お一人ですか」
妙真「いや、表にカゴをつけてあります。中には沼藺と大八もいるよ」
沼藺は小文吾の妹で、房八の妻です。大八はその子供で、まだ乳離れもできない年齢です。妙真はこの二人もカゴの中から呼んできて、隣に座らせました。
沼藺「こんばんは、お兄様…」
沼藺は大八をかかえ、目は赤く泣き腫らしています。
妙真「お父様はもうお休みなのかい。どうして今日はスタッフが一人もいないんだい」
小文吾「ええ、まあ、いろいろありまして… おもてなしできなくてすみません」
妙真「いいんですよ。私はすぐ帰りますから」
妙真は、今晩訪ねてきた理由を言おうとして、少しためらっています。沼藺と大八を連れてきているという時点で、小文吾にはなんとなく悪い予感がします。
妙真「沼藺ちゃんたちをウチから離縁することにしたのよ。房八がそう決めてしまったの。さきの相撲勝負で赤っ恥をかかされたあなたとの決着をつけるためだって言ってたわ。男の決断だから、もう翻すことはできないわ。沼藺ちゃんはわけがわからず泣きっぱなしなのだけど。それはまあ、無茶な理由だものね。私もこんな役目で来たくはなかったわ」
小文吾「はあ、事情はわかりました… しかし、離縁を受け入れるかどうかは、親父じゃなくちゃ決められません。お手数ですが、出直してきてもらうとか、そういうのではだめですか」
妙真「いいえ、今日、二人を置いて帰ります。お父様にはあなたから説明してください。なんなら今晩分の宿代を払いますよ」
小文吾「宿はきょうはいっぱいです! 受け入れられません。沼藺はもうそちらに嫁にやったのですから、うちの家族じゃありません。オヤジに聞くまでもない。連れて帰ってください。それとも、正式に三くだり半の離縁状でも持ってきたんですか?」
妙真は、不意にホホホと笑いました。
妙真「離縁状ねえ… 本当に見たい? 離縁状…」
小文吾「?」
妙真「見せずに済ましたかったのだけど、そこまで言うなら見ればいいわ。ほら」
妙真は、折りたたんだ紙切れを小文吾に渡しました。小文吾がこれを開いてみると、なんと、さっきなくした、信乃の似顔絵です。
小文吾「離縁状じゃないじゃないですか」
妙真「とぼけてはだめよ。あなたは、この指名手配の男をかくまっているそうじゃない。そんな人たちと縁続きでいれば、私たちにも罪が及びかねないわ。だから今のうちに離縁させてもらうのよ。これでも断るというのなら、仕方がないから私自身が荘官に密告します。…こんなことは言いたくなかったわ。わかってくれるわね」
小文吾はガックリしました。なぜ妙真がそんなことを知っているのかは分かりませんが、ともかくこの交渉カードは強力でした。
小文吾「…わかりました、離縁を受け入れるかはとにかくオヤジに相談しますが、今晩はとりあえず、沼藺と大八を預かります…」
妙真「ごめんないねあなたたち、私自身はなにも恨みはないのに、こんなことになってしまって。沼藺ちゃん、あなたはよいお嫁さんだったわ。大八は左の手が開かないという障がいがあって、世話がかかるぶん、私は別れるのがつらくて仕方がないのだけど」
そしてやがて、妙真はひとり、涙をぬぐいつつ、カゴを連れて帰っていきました。(妙真自身は、めまい症があるのでカゴには乗れないのです。あまり話に関係ありませんが)