36. 房八の真意
■ 房八の真意
いまや、真夜中といってよいくらいの時間です。小文吾のピンチは、数時間のうちにいよいよにっちもさっちもいかない感じになりました。
○ 朝までに信乃を差し出さないと、文五兵衛が殺される
○ というか、信乃も破傷風で死にそう
○ 現八が薬を探しに行ったきり帰ってこない
○ 義母の妙真が、ここに信乃をかくまっていることを知っている
○ 妹が子連れで出戻ってきちゃった
○ お客(念玉)の尺八がうっさい
小文吾「どうするんだ、もはやハチャメチャだぞ。作者は本当にこれだけの話を収拾できるのか」
妹の沼藺は、幼児の大八を抱えてトボトボと家の奥に入っていこうとします。
小文吾「おいちょっと待て、どこに行くんだ」
沼藺「どこって… 大八を奥の部屋に寝かせるのよ」
小文吾「だめだ、そっちには行くな」
信乃がいることを目撃されるわけにはいきません。
沼藺「なによ、親の家に戻ってきたんだから、勝手にしていいじゃない」
小文吾「だめだ、えーと、俺は最近トランプタワーをつくるのに凝ってるんだ。作りかけがあるんだよ。振動厳禁なんだ」
沼藺「本当に?」
小文吾「あと、中古のファミコンがつけっぱなしなんだよ。ちょっと触っただけで暴走しちまう。危険なんだ、行くな」
沼藺「うそに決まってるわ! なんでイジワルするのよ! 私が出戻りだから?(大八泣く)」
小文吾「とにかくダメなんだ!」
こんな押し問答をしていると、もうひとりの男がくぐり戸からやおら入ってきて、沼藺の肩をつかむと横に押しのけました。
小文吾「…房八か」
房八「きたぜ、小文吾。夕方の続きだ」
房八はこれ見よがしに腰の刀をチャラチャラさせました。沼藺はおびえて部屋の隅にちぢこまりました。
房八「妻も離縁したからには、晴れてテメエとは他人同士。これで心置きなく勝負をつけられるわ」
小文吾「オヤジが帰ってきて判断するまでは、まだ離縁とは決まっていない」
房八「はっ、帰ってこれるのかも怪しいもんだがな」
小文吾「なんだと、お前、何を知っている」
房八「さあな。そうだ、こいつを返してやろう」
房八は、血で汚れた麻衣を懐から取り出すと、ピラッと小文吾の前にひらめかせました。小文吾は、それが何か、また何を意味するのかを一瞬で理解しました。
小文吾「…みんなお前の仕業だったのか?」
房八「そうだ、最初にお前らが船の上で話していたことも、たまたま俺がみんな聞いたのさ。そのあとお前を襲ってこの証拠物品(麻衣)を奪い、曲者をかくまっていることを荘官にチクったのも、俺サマよ」
房八「もちろん、沼藺を離縁したのは、罪の巻き添えを食らわないためだ。今からお前をぶっ殺して、信乃を追っ手に引き渡してやらあ。ちょろい小遣い稼ぎだぜ」
ここまで聞くと、沼藺は思わず房八の足元に駆け寄って叫びました。
沼藺「あなたはそんなことができる人じゃないのに、どうしたのよ。人の不幸を喜んで、いたぶろうとするなんて!」
房八「うっせえ、邪魔すんな」
房八は沼藺を蹴り飛ばそうとしました。不幸なことに、房八の足先は沼藺が抱えていた大八のわき腹に当たりました。大八はギャッと声を上げてたちまち絶命しました。沼藺は恐怖に凍りつきました。
房八「…信乃は奥にいるんだな」
房八は、顔色ひとつ変えずに、ゆっくりと小座敷に向かって歩き出しました。小文吾が立ちはだかると、有無をいわさず刀を抜いて振り下ろしました。小文吾はそれを鍔で受け止めたので、今までつけていたこよりがちぎれて落ちました。同時に、小文吾の堪忍袋も、ブチリと音をたててちぎれました。
小文吾もついに刀を抜き、それから両者の火の出るような応酬が始まりました。部屋の中には太刀風が吹き荒れました。
沼藺「お願い、もうやめて!」
沼藺は半狂乱です。大八を床に捨て、再び房八にすがりつこうとしました。房八は、手元がくるって、沼藺の胸の下の急所を切り裂いてしまいました。
沼藺「ああっ!」
房八「あっ、お前」
房八が一瞬だけスキを見せたので、小文吾は房八の右の肩をズンと斬り裂きました。房八は尻もちをついて倒れましたので、小文吾はさらにとどめをさそうと刀を振り上げました。
房八「まて小文吾、言いたいことがある」
小文吾「今さらなんだ、卑怯者!」
房八「この傷は致命傷だ、俺は助からん。これこそ、俺が望んでいたことだったのだ」
小文吾「どういうことだ?」
房八「少し長い話になる。ちょっとだけ、止血をしてくれねえか」
小文吾は、いぶかしく思いながらも、房八の傷を縛って、さしあたりの応急処置をしました。房八は、肩で息をしながら痛みに耐えています。
房八「まったくアニキは偉い男だ。俺がさんざん怒らせようとしたのに、がまん強いったらありゃしねえ。さっき足蹴にしたのも、ガマンし通したしな。ここまでやって、やっと俺を斬ってくれた」
小文吾「どういうことなのか分からない。もっと説明してくれ。お前が死んだからどうなるっていうんだ」
房八「似てるんだろ、俺は信乃ってやつにさ」
小文吾「!」
房八「信乃の身代わりに、俺の首をもっていって欲しいんだよ」
なるほど、それなら信乃は救われるでしょう。また、文五兵衛も助け出せます。
小文吾「どうしてだ、どうしてそこまでして俺たちを助けようとする」
房八「罪滅ぼしだ。俺の、祖父のな」
小文吾「?」
房八「俺の祖父は、杣木朴平といって、安房で百姓をしていた。祖父は、領主の神余光弘を、他人と間違って暗殺してしまった。これが安房の戦乱のきっかけになった」
小文吾「…」
房八「そのとき、家臣であった那古七郎という男も殺しているのだが、それは、俺の義父、文五兵衛の兄だ」
小文吾「那古七郎というと、俺と沼藺のおじのことか」
房八「そうだ。俺はこのことを、おととし、親父が死ぬ間際に聞いたんだ。親父自身もこのことを最近知ったらしくて、ひどく後悔したようだ。俺はそもそも、沼藺を嫁にもらう資格なんてなかったんだよ」
房八「俺が相撲でアニキに負けたことを恨んでいる、なんて、誰が言ったか知らねえが、とんでもねえ、万一にも勝たなくてよかったと思っているくらいだ。坊主頭にしたのは、俺の首を差し出したとき、人相を紛らわしくするためさ。信乃に顔が似てるったって、よく見りゃ分かっちまう」
房八「たまたま、義父を探していたときに、アニキたちが船の上で密談しているのを聞いたときは、これはチャンスと思ったもんだ。恩人のために死んで、祖先の汚名をすすぐときが来たってな。その後、アニキがひとりのときに、このことを伝えようとしたんだが、そのときは曲者と誤解されてうまく伝えられなかったが」
房八「信乃の麻衣は、アニキが落としたのを、他の誰かが見つけないよう俺が預かっていただけさ」
房八「そのあと、家に帰ってオフクロ(妙真)に今回の計画を伝えたよ。オフクロは泣いたが、ついに俺の決心を分かってくれて、沼藺の離縁にも同意してくれた。すべてを覚悟した上で、さっき、ここに来て沼藺たちを置いていったんだよ」
房八「しかしまさか、こんな形で二人の命を失うことになるとは、これだけは悔やんでも悔やみきれない。すまなかった」
房八の長い話を聞いている間に、小文吾の目はうるんでいきました。
小文吾「お前は立派に祖先の名誉を回復したぞ。こんな立派な男が、ほかにそうそういるものか。決してお前の死を無駄にはしない。厚意にあまえて、信乃とオヤジを救うためにお前の首を使わせてもらうぞ」
小文吾「もうひとつ、非常に悲しいながら、役に立つことがある。オヤジに聞いたことがあるのだが、若い男女の血が1リットルずつあれば、破傷風を治す秘薬が作れるのだ。信乃を助けるために、お前と沼藺の血を使わせてくれるか」