61. 世捨て人、犬村角太郎
■世捨て人、犬村角太郎
犬飼現八は、赤岩一角の亡霊に、今いるニセ一角が父のカタキであることを息子の角太郎に知らせてくれるよう頼まれました。しかも、敵をうまくあざむくために正しいタイミングでそれを教えてやってくれという追加注文もあります。
現八「けっこう難しいこと言うよなー」
ふもとの村まで道をくだり、亡霊があらかじめ教えてくれた道順に進むと、犬村角太郎礼儀の住む庵を簡単に見つけられました。窓の内側に本人の姿をみつけることもできました。伸びっぱなしの髪を束ねた、色白で眉の秀でた男です。現八は外から呼んでみました。
現八「ごめんください、わたしは犬飼現八と言います。犬村角太郎どのに会いたくて来ました」
しかし返事はありません。数珠をかけ、松の葉を口にくわえ、香炉からのぼる煙も乱さずに精神を集中しています。
現八「おっと、今は無言の行の最中か。出家同然の暮らしって言ってたもんな。行が終わるまでここで待とう」
現八がボーっと昼ごろまで待っていると、今度は一人の若い女性がこの庵の前に近づいてきました。頭巾をつけてうつむき、顔を隠しています。おなかが若干ふくらんでいるように見えます。
現八「(あれがきっと、雛衣さんだな。ちょっと隠れて様子を見ていよう)」
現八が物陰で様子をうかがっていると、雛衣は泣きながら庵の中の角太郎に呼びかけ始めました。
雛衣「角太郎さま、聞こえているのでしょう。どうぞ私に一声だけでもかけてください。無言の行なんて、私に冷たくするための口実なのでしょう。あなたから離縁の言葉をはっきり聞いた上で、私は死にたいのです。その一言だけでいいのです。このままでは私はなにもできません」
雛衣「私のおなかが大きくなったのは、絶対に妊娠ではありません。医者だって、よく分からないと言ってるじゃないですか。継母が何か言ったって、それが本当じゃないことは角太郎さまも分かっていることじゃないのですか。どうして事情も確かめないで私を追い出してしまったのです。どうしてそんな平気な顔をしていられるのですか。どうしてそんなに心を閉ざしてしまったんです」
雛衣「…分かりました、私はきっと死にます。死んだら私のおなかの中を確かめて、誤解を解いてくださいね。そして一言だけ、死んだ私に慰めの言葉をかけてくださいませ。私はそれだけで満足しますから。…さようなら」
ここまで言うと、雛衣はトボトボと去っていきました。
現八「これはいかん、あの人は今にも川かどこかに身を投げてしまいそうだ。止めないと」
現八が雛衣を追って庵を離れかけると、中から「はい終了! 無言の行終了しました! 犬飼どの、どうぞ上がってくだされ」と角太郎の声があがりました。
現八「えっ… いや、ありがたいが、今、あの女性がね…」
角太郎「(小声)あなたを信じて申し上げるが、雛衣は死なない。今はまだ大丈夫なんです」
現八「そ、そうか。それではお邪魔する…」
現八が庵にあがると、角太郎は茶を出してもてなしてくれました。
角太郎「さっきはすみませんでした、ちょうど無言の行をしていたので返事ができなくて。あなたのような立派そうな人物が私なんかを訪ねていらっしゃるとは、なにか理由がありそうですね」
現八「いやあオレなんか、勉強もできん体力バカですよ。義兄弟たちにはすごい奴もいるんですが、オレはだめです。この近くの茶店で、武芸と学問に優れた男のウワサを聞いたので、ぜひ知り合いになりたいと思って訪ねた次第なのです」
角太郎「確かに、ちょっとは勉強しましたが… 大成したとは言いがたいです。今は、いろいろと運に恵まれないことがあり、こんなところで世捨て人をしています。しかしそれでも、私を慕って訪ねてくれる友がいるとはこの上なくうれしいことです。実を言うと、昨日、予知のような夢を見たのです」
現八「ほう」
角太郎「七匹の大きなブチ犬がいました。(そのうちの一匹は仔犬でしたが。)私はその犬たちがすばらしいものだと感じたので、手を叩いて呼んだのです。するとその中から一匹が私のもとに走ってきました。それをモフッと抱くと、私自身も犬に変身してしまったのです。あなたの名字は犬飼、わたしの名字も、養父のをとって犬村。これは何か関係があると思いませんか」
現八「うーん、その夢は興味深いです。先に言いかけたわたしの義兄弟のことですが、彼らの名字は、それぞれ、犬塚、犬川、犬山、犬田、犬江…」
角太郎「なんと、犬だらけだ。私の夢は正夢だった! あなたとその仲間たちのことを、どうかもっと教えてください」
現八「(ニコリ)今それをお話することもできるのですが、ちょっと理由があって、今はまだ言えないのです。いいタイミングのときに必ずお話します。ついでにもうひとつお尋ねしていいでしょうか。あなたは、「礼」という字のついた玉をお持ちではないか」
角太郎「…持っています。なぜそんなことまでご存知なんでしょう… しかし、その玉は今、雛衣の体の中にあります」
現八「えっ」
角太郎「あの玉は、私の生みの母・正香が、とある神社で拾ったものです。そこの砂利は病気を治す霊験があるという評判に従ったのですが、偶然拾ったあの「玉」は例外的な凄さでした。幼いころに私が病気で死にそうになったときに、あの玉を水に浸したものを飲むと一日で完治してしまったくらいです」
角太郎「ただし、私にしか効き目がないというのがあの玉の特徴でした。先日、妻の雛衣がひどい腹痛を起こしたときに、同じ処方を試してみましたが効き目はありませんでした」
角太郎「何度も雛衣にその玉の水を試したのですが、あるとき、雛衣はその玉も誤って飲み込んでしまいました。腹痛はそれ以来すこし治まったようですが、今度はその玉が雛衣の体から出てこなくなりました。トイレに行くたびに確認しているそうなのですが、まだ彼女の体内にあるようです」
角太郎「その後、雛衣の月経が止まり、妊娠の兆候を示すようになったのです。養父母の病気や喪中の都合で、私自身はまだ彼女と共寝したことはありません。これは浮気が原因である、と今の父母は言いました。もしかしたらそうなのかもしれません。私は、あの『玉』が原因かもしれないとも考えているのですが」
角太郎「ともかく、過ちは誰にでもあるもの。なんにしても、私は雛衣を許したい。私はここで世捨て人となって、今の父母も雛衣を許してくれるよう、神仏に祈りつづける毎日を送っているのです。せめて父母が、犬村の田地を本来の持ち主の雛衣に返してくれるようにも祈っています」
現八「直接、親御さんを説得はしないのかい?」
角太郎「それは親に逆らうことになり、不孝です。私ができることは、親の怒りがとけるのを祈ることだけ」
現八「なるほどなあ。では、さっき犬村どのが、雛衣は死なない、と言ったのは? 見てると、どこか身投げでもしかねない様子だったぞ。本当に追わないでもいいのかい」
角太郎「あの『玉』が体の中にある限りは、水にも溺れませんし、火にも焼けません。だから今はあのままでよいのです。私が彼女を追えば、父母たちには背くことになり、不孝です」
現八「(筋金入りの親孝行、だな…)」
角太郎「初対面から、ひどく恥の多い話をしてしまいました。これも、よい友を得た喜びからです。許してください。食事にしませんか。もう昼ですし」
現八「うん、お言葉にあまえて」
ふたりは質素な食事を楽しみました。
現八「ところで、あなたのお知恵を少々拝借したい悩みがあるんだ」
角太郎「私に分かることなら」
現八「私は『太平記』を読むのが好きなんだけど、その中に時々出てくる『三人張りの弓』がどういうものか分からないのです。三人がかりでないと張れないような弓がそうそうあるんだろうか?」
角太郎「中国の夢渓筆談っていう文献に、三石の弓という表現があります。ここでの石とは、引くのに必要な力を表す、重さの単位ですね。日本ではそれが『人』になりました。ホントに人が引く力とは直接関係ありません」
現八「ははあ、謎が氷解しました。もうひとつ、太平記に出てくる源氏の宝刀『吼丸』というのがあります。刀が吼えることが本当にあるんだろうか」
角太郎「酉陽雑俎っていう文献に、そういう吼える刀のことが出ていますね。きっと本当に吼える音がするんでしょう」
現八「もうひとつ。最近の浄瑠璃や歌舞伎で、親子の判定をするために、双方の血を混ぜたり、骨に血をたらしたりすることがありますね。あれは本当なのかな」
角太郎「ええ、梁書の列伝、予章王綜の伝に書いてありますよ。五十五巻の最初のページです。親子であることを判定するために、親の骨に子の血をそそいだところ、固まってくっついたそうですよ」
現八「まったく、あなたは若いのに大したものだ! この世の本がみんな焼けても、あなたがいれば大丈夫そうだ」
角太郎「いやいや、お恥ずかしい。こんなこと人には言わないでくださいね」
ふたりは大いに盛り上がり、意気投合しました。
そのころ、庵の前に二挺の籠がとまり、そのうちの一つから、きらびやかな衣装に身を包んだ女が降り立ちました。
船虫です。