62. 船虫再登場
■船虫再登場
犬村角太郎と犬飼現八は、庵の中で心ゆくまで文武の話に花をさかせ、すっかり仲よくなりました。
そこに籠で乗りつけたのは、角太郎の継母であり、赤岩一角の後妻である船虫です。(その一角はニセモノなんですが)
角太郎「おや、母上がこんなところに訪ねてくるとは、なんだろう。犬飼どのは、すみませんが、少しの間、隣の部屋に隠れていてください」
現八「おう」
船虫は、角太郎が結婚したときの仲人である氷六をつれて縁側から上がってきました。召使もぞろぞろ連れていますが、外側に待たせているようです。
角太郎「母上、氷六さん、よくいらっしゃいました。まず茶でもおあがりください」
船虫「元気そうだねえ角太郎」
角太郎「私は父に嫌われるという不孝を恥じて、こうして念仏して引きこもっていますが、母上がこんなところまで訪ねて私の身を案じてくださるとはうれしいです。父上はお達者ですか。持病の腰痛は大丈夫ですか」
船虫「腰痛は大丈夫のようだけど、最近目をケガしたのよ。道場で弓を教えているとき、弟子の矢が跳ね返って左の目に刺さったの」
角太郎「なんと!」
船虫「本人は自分で応急手当てをしたらしくて、私は今朝はじめてそれを知ったのです。何人も医者を呼んだのだけど、あまり傷の処置がうまくいかず、今もずいぶん痛がってつらそうだわ。私は平癒祈願のためにさっき神社に詣でたところなのだけど、そこで氷六に会ったのよ。氷六、さっきあったことをもう一度ここでおっしゃい」
氷六「はい、奥様」
そこで氷六が語ったのは、自分が仲人をつとめた嫁である、雛衣のことです。
氷六「さっき、川に身を投げようとしていた雛衣さんを保護しました。家を出たきり帰ってこないというので捜索をしていると、ちょうど犬村川に飛び込もうとしているところを発見したのです。そのとき、たまたま船虫さまも神社に行くために近くを通りがかったところでしたので、この事件の収めどころを話し合い、そしてここに連れてくることにしたのです」
船虫「表にもうひとつ籠がつけてあって、中には雛衣が乗っているわ。角太郎、ほかでもないわ、雛衣と復縁なさい」
角太郎は驚きました。
角太郎「それはこの上なくうれしいお話ですが、父から勘当を受けている身でありながら、わかれた妻と復縁するということはありえません」
船虫「それはそうだろうけど、考え方をちょっと変えてみるのよ。これは、一角さまの平癒祈願の一環だと思ってはどうだい。雛衣をこうして救うことは、間違いなく良いことよね。善根を積み、それで父のケガが早く治るとすれば、これも親孝行のひとつの姿でしょ。誰にとってもいいことばかりだわ。そうでしょう。よく考えてみなさい」
氷六「そうですぞ角太郎どの。船虫さまは実によいアイデアをお持ちだ。この名案、受け入れない理由はありませんぞ」
角太郎「…わかりました。父上のためなら、そもそも私は死んでもよいと思っているのです。母上のご意見のとおりにいたします」
船虫「さすがは角太郎。キマリね。さっそく雛衣をここに呼ぶわよ」
雛衣が、氷六に助けられながら庵に上がりました。すっかり泣き腫らして力がありません。
船虫「(ニコニコ)ほら、しっかりなさい。あなたはまた、角太郎と一緒になるのよ」
雛衣「お母様、ありがとうございます…(涙を袖でぬぐう)」
氷六「いやいや、実にめでたい。仲人のつとめを果たすことができて私もホッとしましたぞ。よかったよかった。私がいまここに預かっている三行半、これはこうして焼いてしまいますからな」
氷六は、懐から取り出した離縁状をいろりにくべて燃やしてしまいました。船虫はそれを扇であおいで手伝いました。「オホホ」
船虫「これでさしあたり、もとの鞘に納まったというもの。角太郎、父親の勘当が解けるまで、ここで夫婦一緒に神仏に祈っていておくれ。わたしもうまく取りなしてみますから。雛衣や、もうあんな早まったことをしてはいけないよ」
角太郎・雛衣「(感激の涙)ありがとうございます。父上との件、どうぞよろしくお願いします」
そして船虫は、氷六を使って外にいる召使たちを呼びつけると、ゆるゆると籠に乗って帰って行きました。
ところで、船虫はなぜこんなところにいるのでしょう。
かつて船虫は、犬田小文吾を殺すことに失敗して捕まり、石浜の城に護送される途中で、馬加大記の助けによって脱出しました。
その後船虫は、下野のある村に隠れていたのですが、あるとき、赤岩一角武遠という高名な武士が後妻を募集しているというウワサを聞いてオーディションに応募しました。そこで一角の側女として採用されると、男にこびる才能をいかんなく発揮して、やがて正妻に取り立てられたのでした。この一角は実は妖怪が化けた姿なのですが、船虫は妖気にあてられて衰弱するところか、かえってウマの合う男に巡りあったと感じました。
船虫にとっては、角太郎も牙二郎もおなじ継子なのですが、どうも気が合うのは牙二郎のほうで(妖怪の血が入っているからでしょう)、角太郎夫婦のことは嫌いでした。彼らが育ての両親を亡くすと、船虫は策を弄して角太郎夫婦の相続していた財産と土地をうばい、家を追い出してしまったのです。
そんな船虫が今回、雛衣の自殺を思いとどまらせ、角太郎と復縁させたのは、当然ながらウラがありました。一角は帰ってきた船虫からその作戦を聞かされると、「それは名案だ。ワシの目もすぐに治ることになるな…」と喜びました。
さて、現八は、隠れていた隣の部屋から這い出してきました。
角太郎「犬飼どの、狭いところにお客を押しこめて、たいへん迷惑をかけてしまった。許してくだされ」
現八「いやいいんですよ」
角太郎「妻の雛衣を紹介します。事情は、さっき聞いていてご存知のとおりです」
雛衣「はじめまして犬飼さま。さきほどの話をお聞きだったでしょう。お恥ずかしいところを見せてしまいました。ここには好きなだけ留まっていってくださいね」
現八「ありがとうございます。しかしさしあたっては、すぐに出て行くことになります。犬村どの」
角太郎「どうされた」
現八「あなたの継母の船虫どのについて… オレにはちょっと引っかかるところがあった。正直なところを言っていいか」
角太郎「うん…」
現八「オレが先に茶店で犬村どののウワサを聞いたところでは、船虫どのがあなたがた夫婦の仲を引き裂き、財産を奪って家から追い出した、ということだったんだが」
角太郎「…」
現八「それでいて、さっきの様子は、ずいぶん優しい、慈しみのある人のように見えた。オレはあの様子、何かウラがあるんじゃないかと感じたよ。さっき、戸のスキマからちょっとだけ覗いたんだ。あの人、ニコニコしているように見えたが、目が笑っていなかったぜ」
現八「本当に優しい人なら、最初からあなたたちを家から追い出したりしなかったはずだ。今になって妙に恩を着せるようなマネをする理由… 犬村どのさえよければ、オレが赤岩の屋敷に行って探ってこようと思うんだが、どうだろう」
角太郎「…実は、私も、母上の今回の行いについて、疑問がなくもない。母上が何を考えているのか知りたいと思います」
現八「じゃあ任せてくれるってことだな」
角太郎「父も弟も、あまり客を歓迎するタイプではありません。さらに、父上の道場には、荒くれものの内弟子たちがたくさんいます。あまり怒らせるような行動をとると、犬飼どのが危険な目にあいますよ。大丈夫なのですか」
現八「なあに、うまくやるさ。柳の枝に雪折れはないというじゃないか。向こうの出方にあわせて、柔軟にやるから大丈夫だ。犬村どののために事情を探ることだけが目的なんだから、無理はしないよ」
雛衣「道場には、強い人たちがたくさんいます。私が知っているのは、玉坂飛伴太、月蓑団吾、八党東太、仡足潑太郎… 気をつけてください」
角太郎「できれば本当に危険なことは避けてもらいたいのだが…」
現八「虎穴に入らざれば虎子を得ず。明日のうちに必ず戻るよ。じゃあ行ってくる。今晩は夫婦水入らずで過ごしなよ!(ぱっと外に駆け出す)」
夫婦は、夕方が迫って暗くなりかけた中、フロシキひとつ担いで現八が駆け去っていくのを、なかば呆然と見送りました。
雛衣「晩ご飯も食べていかないで…」