82. 犬阪毛野の迷い
■犬阪毛野の迷い
小文吾「そうそう、話が盛り上がって、肝心の『玉』を見せていなかった。ほら、毛野が持っているやつも、きっとこんなだと思うんだけど」
小文吾と荘助は、護り袋からそれぞれの玉を取り出して、毛野の手のひらに乗せました。毛野もまた、自分の護り袋から『智』の字が浮かんだ玉を取り出すと、同じ場所に並べました。三つとも、形も色も全く同じで、浮かぶ一文字だけが違います。人間の細工ではどうやっても作れなさそうな、まさに「浮かぶ」としか言えない文字です。毛野は、明かりにかざしながらつくづく見入りました。
毛野「本当に不思議なことだ…」
小文吾「毛野はどういう経緯でこの玉を持っているんだい。俺の場合は、メシの山から出てきた。荘助の場合は、土の中から出てきたらしい」
毛野「私の場合は、母がこれを手に入れたのです。さきにも話しましたが、母は私を三年間も妊娠しました。そして、粟飯原一族を滅ぼそうとする馬加大記の目から逃れて犬阪村で私を産んだのですが、その前日に、流れ星のように飛んできたこの玉が、母のふところに入ったのだそうです」
荘助「へええ」
毛野「その後、私の物心がつくころに、母はこの話をして私の護り袋に玉を入れて持たせてくれました。のちに名前を犬阪毛野胤智と名乗るようにしたのは、この玉に浮かんでいた『智』の字にあやかってです」
小文吾「やはり、毛野も我々と同じ運命を持っているのだなあ。玉の字を名前に使っているところは、俺も犬川どのも同じなんだ。俺の名前は犬田小文吾悌順。犬川どのは、犬川荘助義任。それぞれ、『悌』と『義』から取っているんだ。他の四人の犬士も同じだ」
毛野「不思議だ…」
毛野ほどの知力を持った男にも、「不思議」としか言いようがありませんでした。他の犬士たちにはまだ会っていませんが、彼らのことを想像すると、ずっと前から知っている兄弟を思うような気持ちになりました。
毛野「そうだ、これは単に好奇心で聞くんですが、犬川どののその刀、『落葉』と『小篠』と言うんですよね。その名の由来は何なんですか。人を斬ると葉っぱが落ちる、なんて馬加が言ってましたけど、別にそういうことはなかったみたいですし」
荘助「ああ、みんながその名前で呼ぶから私もそう呼んでみたけど、この刀の名前はそもそも『雪篠』だよ。犬川の家紋の雪篠がここにあるでしょ。落葉は、あとで誰かがつけた名前なんだと思いますけど… 小篠はまだ理解できても、落葉なんて、どうしてそう呼ぼうと思ったのかなあ」
毛野「なるほど、そこまで聞いてわかりましたよ。誰かは知りませんが、落葉じゃなくて、『落ち刃』と呼んだんですね」
荘助「ああ! 確かに、この刀は、切っ先の部分に少し欠けたところがあるんですよ。だから、私にとっては見間違えようのない品なんです。なあるほど、それなら分かります。落ち刃かあ」
小文吾「なるほどな!」
毛野「葉っぱが落ちる、なんていうデマをドヤ顔で語ったのが、馬加の運の尽きでしたね」
小文吾は、懐から金を取り出すと、十両を毛野の前に置きました。
小文吾「これを持っていてくれよ。もしものときに役に立つから」
毛野「えっ、受け取れませんよ。ちゃんと蓄えはありますからお気遣いなく。乞食の恰好をしていたのも、別にお金がないからじゃないです」
小文吾「このうちの一部は、里見殿から賜った路用の金だ。分けて持っていようよ」
毛野はすこし迷いましたが、やがて、頭上に押し頂いてからこのお金を受け取りました。「わかりました。ありがとう、小文吾さん」
荘助「さあ、明日は甲斐の国に入って、指月院の丶大様と犬山道節に会いにいこう。蜑崎どのもいる」
毛野はためらいます。
毛野「…私はまだ会うわけにいきません」
荘助・小文吾「えっ、どうして?」
毛野「仲間に会いたい気持ちは山々なのですが… 私には、父のカタキ、籠山逸東太を討つという宿願が残っています。これを果たさない限り、私はクズです。仲間たちの目の前に立つ資格がないのです」
小文吾「そんなことはないぞ。もしもカタキ討ちが宿願なら、皆の協力を仰いだっていいじゃないか。誰か、籠山の手がかりを知っているやつだっているかもしれない。ここから指月院は近いんだ。一目会っていったっていいじゃないか」
毛野「そうかも知れません… 一晩、考えさせてください。眠れば考えもまとまるでしょう」
荘助「確かに、話し込んで、ずいぶん夜が更けましたね。翌朝になったら、また話せばいいことです。寝ましょう、寝ましょう」
こうして、三人の犬士は、明かりを消して横たわりました。旅の疲れから、すぐに全員が眠りに落ちました。
そして、夜が明けました。小文吾と荘助が目を覚ました時には、毛野がいたはずの布団はカラッポでした。
小文吾「おはよう。んー、毛野はトイレにでも行っているのかな」
荘助「ちょっとまって、壁に何か書いてある。炭のかけらで書いたみたいです」
凝成白露玉未全(こりなすはくろ たまいまだまったからず)
環会流離儘自然(かんかいりゅうり しぜんにまかす)
めぐりあふ甲斐ありとても信濃路に
なほ別れゆく山川の水
小文吾「ど、どういう意味だ。毛野はまさか、一人で出て行ったのか」
荘助「ははあ。なるほど」
小文吾「説明してくれよ!」
荘助「『八人の犬士が完全に揃っているワケじゃないから、もうちょっとだけ好きなようにさせてください。きっとまた会えますから』といった意味のようですね」
荘助は、炭で薄く書かれたそのメッセージを、布切れでさっと拭き取りました。
小文吾「あっ、よく見れば、毛野の枕元に、金が返されている!」
荘助「ホントだ。砂金でちょうど五両、置いてありますね」
小文吾はちょっと涙目です。
小文吾「くそっ、水くさいじゃないか。あいつがキライになりそうだぞっ」
荘助「落ち着いてください、犬田どの」
荘助は、毛野が十両もらって五両おいて行くというナゾを考えました。
荘助「お金だけもらって出ていくのは、欲張りだ。だからといって、全部返していくのは薄情だ。だから、犬阪どのは、金を受け取って、別にお金を贈りなおしてくれたのですよ。十両に対して、砂金で五両。私は、絶妙なバランス感覚だと思いますよ。見事だなあ」
小文吾は気を取り直しました。「なるほど… 仲間への『義』より、親のカタキを討つという『孝』が先、か。確かにそれは重要だよな。あいつはたいしたヤツだ。きっとすぐにカタキを討てるさ。そして、また我々と会う日も決して遠くないだろう」
宿の主人が、一人欠けたのに気づかずに三人分の朝飯を出しましたので、小文吾は複雑な思いで二人分の食事を平らげました。
こんなわけで、結局、小文吾と荘助のふたりで、甲斐の指月院をめざして出発しました。犬山道節はもう信乃といっしょに出て行ってしまっているのですが、そのことはまだ知らず…
さて、話は、犬飼現八と犬村大角のいる場面に移ります。
現八たちは、犬村の故郷を離れてからまず鎌倉に行きました。その後も、仲間の犬士たちを探して日本中を駆け回りましたが、誰にも会うことができませんでした。やがて、大角の妻だった雛衣の三回忌が近づいてきましたので、いったん赤岩の故郷に戻り、怠りなく法要をつとめました。
大角「さて、犬飼どの、私用につきあわせてしまって悪かった。さっそくまた旅に出よう」
現八「俺たちは義兄弟なのだから、雛衣さんも、赤岩一角さんも、俺の親族さ。水臭いぜ。それはともかく、次は行徳あたりを探してみようと思うんだが、どうだろう。前に行ったときは小文吾もほかの人もいなかったけど、あれから時間がたっているから、なにか新しいことがあるかもしれない」
大角「よし、そうしよう」
そうして二人は軽やかに旅立ちました。
その後、穂北という土地を通過しようとしていたときです。
急なにわか雨に追われて、二人は笠をかぶって全速力で走っていました。近くに、雨宿りさせてくれそうな家もありません。
現八は、道端の石ころにつまづいて、足の小指を打ってしまいました。声にならない叫び声をあげて転げまわっているうちに、大角はそれに気づかず先に行ってしまいました。
大角のほうでは、旅の荷物をかついだヒモがほどけて、道端に転がり落ちてしまいました。
大角「おっとっと、荷物が落ちた。拾わなきゃ… あれっ、犬飼どのがいない。遅れてるのかな?」
大角が、雨の中、荷物を落としたところに戻ろうとすると、道端から出てきてそれを引っつかんだ者があります。
大角「あっ、泥棒」
大角はすかさずその泥棒を追いました。泥棒はなかなか素早く、千住川の河原のあたりまで逃げていき、仲間の泥棒と思しい男に「おい、助けろ」と呼びかけました。
大角「そこまでだ。逃げ道はないぞ。命が惜しければ、荷物を返しなさい」
ふたりの泥棒は、拳を固めて、大角に襲い掛かりました。当然この手の戦闘は大角のほうがはるかに強く、たちまち二人を投げ飛ばしました。しかしそのとき、大角の着物の袖が破れてしまいました。(着物というよりは、その下に着る、襦袢というやつですが)
大角がいよいよ刀をギラリと抜くと、泥棒たちは川に飛び込みました。ウミヘビのように器用に泳いで川を渡り切ると、岸の向こうに走り去っていきました。
大角「おっ、なかなかのワザ」
現八が、この騒ぎを道の上から見つけて追いついてきました。雨はいつの間にか止んでいます。
現八「どうしたんだ」
大角「二人組の泥棒にあいました。逃げられてしまいましたよ」
現八「荷物は? あれっ、犬村どのは、こんなつづらを持っていたか?」
大角「これは、泥棒が別に持っていたやつです。私の荷物は、結局持っていかれてしまいましたよ。いやはや、プロの根性ですねえ…」
現八「プロかどうかは知らないが、こっちのつづらを落としていったんじゃあ大したことはないな」
大角「そうですね。まあ、私の荷物のことはこの際いいのですが、たぶんこのつづらも盗品なのでしょう。せめてこれの持ち主を探して、返してあげましょうか」
現八「うん、それがいいな。ここに置いていったって、どうせまた泥棒が持っていくだけだ」
こんなわけで、大角と現八は、泥棒から奪った箱を抱えて、近くの村に運ぼうとしました。
そこに、十人あまりの若者たちがなだれこんできました。
「あいつらが泥棒だ!」
大角・現八「えっ」