85. 尻じゃなかったっけ
■尻じゃなかったっけ
氷垣残三と、落鮎有種は、やっと現八と大角が泥棒ではなかったらしいと分かってきました。
道節「ほら、お前らの中に、一目くらいはこの泥棒どもの顔をみた奴がいるんじゃないのか。屋敷に入って衣装箱を盗んでいったんだ。全く誰も見てないってことはないだろう」
集まっていた手下たちのなかの一人から、「確かにそいつを事件当日に見た」という証言があがりました。いよいよ氷垣たちは恥じ入って、顔も上げられないほどヘコみました。
氷垣「どうやら私はとんでもない勘違いをして、無実の男を殺すところであったらしい。今となってはよく分かるが、彼らはたいへんな勇士のようだ。まことに恥ずかしい。これはもう、死んで詫びるしかないようだ。さあ、殺してくれるがいい」
婿の落鮎も同様です。「いやいや、父上が死ぬことはありません。さっき帰ってきて、詳しい話もロクに聞かず、怒りに任せてこんな部隊を作って押しかけたのは俺だ。俺が全面的に悪いのだから、俺だけを殺して父上を助けてくれ」
氷垣「バカな。私が死ぬから、むしろこいつのほうを助けてやってくれ。彼は重戸の夫だ。重戸に免じて」
道節「(優しい声)いやいや、間違いを認めてそこまで反省してくれたからには、充分だ。殺すなんてことはしない。これで大角と現八の名誉も回復されたというものだ」
こうして、氷垣老人と落鮎は縄を解かれ、刀も返されました。二人は一同にヒザをつき、あなたがたの素性を教えてほしいと頼みました。
大角「非を認める潔さと、あなたがたの親子の愛情には感心いたしました。わたしは犬村大角、下野の浪人です」
現八「俺は下総の浪人、犬飼現八だ」
信乃「自分は、武蔵は大塚の犬塚信乃」
道節「そして俺は、武蔵は練馬の残党、犬山道節だ。われわれはみな義兄弟なのだ。四人の犬士と見知りおけ。ホントは八人いるはずなのだが、さしあたり、今は四人だ」
氷垣老人は、犬士という言葉に驚きます。
氷垣「犬士といえば、かつて庚申塚の刑場を襲って、無実の男を救った者たちのウワサがありましたが、それを行った義士たちも確か『犬士』と呼ばれていた」
信乃「ああ、それは私たちですよ。私とここの犬飼現八が、同じく犬士である犬川荘助をそこで助けたのです」
氷垣「なんと、なんと。そして犬山道節どの。練馬といえば、ここにいる落鮎有種もまた、練馬の生き残りなのですよ」
道節「本当か!」
落鮎「私の父は落鮎岩水。親は早く死にましたが、私は豊嶋に仕えていたのです。しかしさきの戦で主家が滅び、それ以来、父と義理の兄弟にあたる、氷垣残三どのの世話になっていたのです。犬山どのは、あの犬山道策さまの息子どのですね」
道節「うん、そうだ。練馬の生き残りに名乗られたのは初めてだ。うれしいぞ」
落鮎「道策さまは我々のヒーローでした! お懐かしい…」
これですっかり打ち解けました。はじめは敵として出会っても、これが却って強い味方となるのは、塞翁が馬のことわざ通りですね。
現八「氷垣どのは、ここら一帯を仕切ると聞いたが、これはどういういきさつがあるんだい」
氷垣「はい。わたしは若いころ、足利持氏どのに仕えていました。その持氏どのが亡くなったのち、御曹司の春王・安王を守って、大塚匠作どのと一緒に結城の城で戦いました。味方はほとんど全滅しましたが、私はその後ここまで落ち延び、ここの土地の地頭のもとに身を寄せました。ここら一帯は戦のせいで荒野原同然でしたが、わたしは地頭のイトコと結婚し、結城や豊嶋の落人たちも土地に迎え入れて、今までひたすら田地の開発を進め、地域を守ってきたのです」
信乃「ここで大塚匠作の名が出るとは! 私は匠作の孫です。あなたは祖父の戦友だったのですか!」
氷垣老人は、道節だけでなく、信乃までが自分に縁のある人物と知って、さらに驚きました。「なんと、なんと奇遇なことじゃ… 大塚どののお孫だったとは。しかし、名字が大塚でなくて『犬塚』なのは?」
信乃「それは話せば長い理由があります。あとで落ち着いたら話しますよ」
氷垣「ついでながら、犬飼どのと犬村どのに、もうひとつ伺いたいことがある。決して私たちは武芸に疎いつもりではないのだが、さっき、お主たちが胸元から激しい光を発しておったため、まぶしくてロクに槍で狙うこともできなんだ。あれはどういう秘密があったのです」
道節「もともと現八は強いから、氷垣どのがかなうはずはないぞ。達人・二階松の弟子だったのだからな。それに加えて、その光というのは、たぶん『玉』から出たのだろう。犬士はみな、秘蔵の霊玉を持っておるから」
氷垣「掘れば掘るほど、あなたがたは、なんというか、もう、普通のスケールの勇士ではないようですな…」
氷垣老人は、四人の犬士を屋敷に泊めるために手配をしました。また、捕まえた二人の(へんな名前の)泥棒の首を斬り、さらし首にするようにも指示しました。そして、翌日には座敷にみなが集まり、盃を交わしてそれぞれの出会いを祝いました。現八たちを捕まえた、世智介と小才二もいます。
大角「いやあ、あの落とし穴には参りましたね。お二人とも、なかなか有能ですよ」
世智介・小才二「と、とんでもない。あの時はどうもすみませんでした…」
現八「昨日は蹴飛ばしてごめんな。もう痛くないか」
世智介・小才二「はあ、大丈夫です。ありがとうございます…」
信乃「重戸さんはここにいないのですか。ぜひ呼んで、現八と大角を救ってくれたお礼をしたいです」
現八「そうだ。彼女にはいくら礼を言っても足りないくらいだ。ほんとうに賢くて勇気のある人だ」
氷垣老人「そうですな。さっそくここに呼びましょう。しかし、私としても不思議なのですよ。重戸がそんな知略を使いこなすほど賢かったかな、とも思うし、あれだけ証拠が揃っていたのに、なお犬飼どのたちを無罪と見極めた洞察力も、どうも私の知っている重戸の仕業とはいまだに信じられんのです」
やがて重戸が呼ばれて、夫の落鮎とともに、皆の前にかしこまりました。
重戸「みなが仲良く集うことができて、本当にようございました」
氷垣「重戸よ、昨日、お前がしてくれたことには感謝しておる。そのおかげで、ワシは無実の勇士を殺すという罪をおかさずに済んだのだ。しかし、なぜお前にあんなことができたんだ」
重戸「実は、その前の晩に、不思議な夢を見たのです。きれいな女の神様が出てきて、私に言ったんです。『明日、二人の男が現れて、ピンチに陥ります。彼らは決して悪者ではありませんから、なんとか知恵をしぼって助けてあげてください』って。うまくいけば福が来ますし、うまくいかなければ、父も夫も死んでしまいます、とも言われました。だから、本当、必死だったんです」
落鮎「そうだったのか…」
氷垣「このガンコジジイを相手に、よくがんばってくれたな」
犬士たちは、「女の神様」が誰だったのか、当然ながら瞬時に理解しました。伏姫の霊が、ここでも犬士を守ったのです。信乃たちは、目の前の氷垣老人たちに、伏姫と八房の物語から始まる、犬士誕生のいきさつを説明しました。聞いた人々は誰も、犬士たちが神に守られているという事実に肝をつぶすほどに驚き、そしてその不思議さに感動しました。氷垣と落鮎は、今後犬士たちにどんな協力も惜しまないことを約束しました。
さて、犬士たちはすぐに旅に戻るつもりでしたが、とても熱心に引き止められたので、しばらくここ穂北に滞在することにしました。四人は、それぞれ今までの旅で出会った事件を話として交換し、しばしば、時が過ぎるのも忘れるほどでした。特に、信乃と道節にとっては、犬村大角は今回はじめて会う犬士なので、彼について多くのことを知りたがりました。その中でも、例の「化け猫」の事件のことに強い印象を受けました。実に不思議で、実に悲しい話でした。
大角「そうだ、わたしの『玉』と『アザ』をお見せしていませんでしたね。ほら、玉はこのとおりです。『礼』の字が浮かぶものです。アザもお見せしましょう。ワキのあたりにあるのです」
現八「あれっ、アザは尻にあったような記憶があるが。俺は風呂で見せてもらったぞ」
大角「さ、さあ?」
現八「おかしいぞ、尻を見せろよ!」
大角「やめてください!」
(あらすじ筆者もよくわかりませんが、ここでは、大角のアザはワキにあることになっているんです。馬琴センセイが設定を忘れたのかな?)