89. サルと次団太を救った男
■サルと次団太を救った男
湯嶋神社に参詣にきた蟹目上の従者、河鯉権佐守如に、サルのピンチを笑ったことを厳しくとがめられても、物売りの男はちっとも物怖じしません。
物売り「私に命じていただけば、あの木の上のサルを助けてあげますよ」
河鯉「なんだと、それはすばらしい。さっそくやってくれ。うまくいけば褒美をとらす」
物売り「ご褒美には、私の願いを聞いていただきたいと存じますが、よろしいですか」
河鯉「願いにもよるが、できるだけ聞いてやる」
物売り「一応、私も命がけなのです。必ず願いを聞いてくださると約束していただきたいのですが」
河鯉「内容を聞かなければ『なんでも』とは約束しがたいが、とにかく善処する。武士の言葉だ、信じろ。はやくしないとサルが死ぬ。そろそろグッタリしかけているではないか」
物売り「たしかに、死んでしまっては元も子もないですな。それでは…」
物売りは静かに銀杏の大木の下に歩み寄ると、懐からカギ縄を取り出し、高い所にやっと突き出ている枝のひとつに引っかけました。これはただのカギ縄ではなく、縄ハシゴです。物売りはそこをクモのようにスルスルと登り、サルのいる頂上まで素早く登り切りました。そして、からまっているヒモを冷静に外すとサルを片手に抱きました。グッタリしていたサルでしたが、男が懐から丸薬を取り出してひとつ与えると、元気を取り戻しました。男は、来たルートを逆にたどり、縄ハシゴを下りきると、ちょいとたるませて枝から外し、クルクル巻き取って懐におさめ直しました。すべてが実にあざやかでした。
物売り「はいどうぞ」
従者たちからもワッと歓声があがります。
河鯉「あっぱれだ! おぬしには必ず褒美を取らす。住所と名前を教えてくれ。後日連絡するからな」
物売り「ありがとうございます。私は門前町の宿に滞在している、物四郎と申します。私の願いは、後日でなく、たった今聞いていただきたく存じます。というのも、わたしの願いとは、ある訴えを蟹目御前に聞いていただくことだからです」
河鯉「ふーん… よろしい、御前に申し上げてみる」
河鯉はサルを受け取ると蟹目上のカゴまで行ってそれを渡し、物四郎の件を伝えました。蟹目上はサルの無事を喜んで、その訴えを詳しく聞いてあげなさいと河鯉に命じました。
物四郎「ありがとうございます。私は、無実の罪で投獄されているある男を救いたいのです。彼の名は石亀屋次団太」
物四郎は、さきに鮒三から聞いた内容のあらましを述べ、このままでは彼が獄中で死んでしまうと訴えました。蟹目上の賢慮と慈悲をもって、方貝にいる箙の大刀自、白井にいる長尾景春にそれぞれ事の真相を伝え、この無実の罪人を釈放してほしいと頼みました。
河鯉「なるほど、分かったが… いろいろと通すべきところもあるので、いったん城に帰って検討させてもらいたい。それでよいか」
物四郎「次団太どのは、今でも拷問を受けていると聞きます。一分でも早く救っていただかなければ、死んでしまっては元も子もありません。私がサルをあれほどスピーディーに救ったのに、河鯉様はずいぶんノンビリと取りかかりなさる。お恨みもうします」
河鯉「むむっ… その通りだ、お主が正しい! わかった、御前には、今すぐ手を打つよう申し上げよう」
蟹目上はこの訴えを聞いてくれました。そして、ここの社務所で手紙を書き、今すぐ密使を送って対応してくれるということになりました。箙の大刀自は蟹目上の義理の姉で仲も良好ですから、話はすぐに通じるでしょう。
河鯉「そして、実は長尾景春は私の甥だ。こちらに話を通す件も、安心しておけ」
物四郎「ありがとうございます!」
河鯉「ところで、その石亀屋次団太は、お主の親類なのか?」
物四郎「いえ、特に縁もない、他人ですが」
河鯉「!? どういうことだ。他人のために命をかけたのか?」
物四郎は、さっきから後ろで控えていた鮒三を河鯉に紹介しました。
物四郎「彼が、次団太どのの子分、鮒三です。親分を助けたいあまりに、越後からここまではるばると旅して、しかも御前に訴えるコネがなくて困り果てていることをついさっき知ったのです。彼の忠義のりっぱなこと。なんとか助けてやりたいと思っていたところだったのです。私自身は褒美も名誉もいりません」
河鯉「これは呆れた… おぬしはとんでもない義士なのだな。感動したぞ。御前の参詣が終わったころに、二人とも社務所に来い」
蟹目上のカゴとその一行は、河鯉も含めて、社内にしずしずと入っていきました。
鮒三「物売りどの、本当にありがとう(涙)。なんという親切な方だ。ぜひあなたの素性を聞かせてください」
物四郎「なに、名乗るほどのものでもないですよ。あなたの話に、たまたま知っている人の名前がありましてね。次団太さんが男気に溢れたいい人だということも聞いていたし、また、私は犬田小文吾とは義兄弟なのですよ。小文吾なら必ず次団太さんを救ったはず。私は彼に代わってそれをしただけのことです」
ふたりは適当な時間に社務所に行き、夕方ごろまで待ちました。やがて河鯉に招き入れられました。
河鯉「二人とも、安心しろ。たった今、手紙を持った使いたちが片貝と白井に発ったところだ。手紙の内容は、蟹目上様が夢で神のお告げを聞いたのでそれに従いなさいという感じにした。すなわち、方貝に捕らわれている次団太という男は無実である、このお告げに従えば家が栄えるであろう、ってね。こんなことはめったにしないのだからな。ありがたいと思いなさいよ」
鮒三「もちろんでございます」
河鯉「鮒三は、別の便で方貝に送る。次団太が釈放されたときに会ってやりなさい。物四郎には、ちょっと別に用事がある。さっきの場所でちょっと待っていてくれ」
物四郎「はあ。わかりました」
やがて蟹目前はすべての用をすませて五十子城に帰っていきました。物四郎は、さっきまで大道芸をやっていた場所で、ポツンと待っていました。もう夜です。さっきのことを思い直すと、いろいろととりとめのない考えが浮かんできます。
物四郎「鮒三さんは、誠実な男だったな。それほど学がなくたって、ああして素朴に正しく生きている人もいる。逆に、学問をいくら積んだって、性格がねじ曲がったままのやつだっている。真に『学ぶ』というのは、不断に自分のことを省みることなのかも知れない」
物四郎「しかし、次団太さんを救うことができたのはよかった。犬川どのも小文吾さんも実は無事なのだけど、それさえ知らずに、ガッカリしたまま、自分は無実の罪で死んでゆくなんてかわいそう過ぎるからな…」
こんなことを考えていると、不意に、後ろから数人の雑兵が、ヤッと叫びながら、十手を持って物四郎にとりつきました。
物四郎「なんだ、お前らはッ」
物四郎は雑兵たちの攻撃を華麗にかわし、足を払い、投げ伏せ、打ち倒し、たちまちに全員を、横たわってパクパクとあえぐ鮒のような有様にしてしまいました。
物四郎「私はなにも罪はおかしておらん。こんな非法をする者は誰だ!」
そこに物陰から現れたのは、さっきの河鯉守如です。
河鯉「私だ、河鯉だ。すまなかったな、少しお主を試させてもらった。どうか怒りを鎮めてくれ。これから私がおぬしに相談することは、真に武芸に長けたものにだけ打ち明けたいことだったのだ。今こそおぬしを、清廉にして勇猛な真の豪傑と認めよう」
物四郎「なるほど… そこまで信用していただいて恐縮です。自分を認めてくださる方のために働くのは、命をかけてもその甲斐があります。しかし… 私は親のカタキを討つという宿望があって、それを果たすまでは、人の頼みを聞けるような立場ではないのですが」
河鯉「それはその通りだ。親への孝行が人生では何より大事。しかし、我々もおぬしのカタキ討ちに協力するという条件ではダメか。一応こちらの頼みを聞くだけ聞いてはくれないか」
物四郎「そこまでおっしゃるからは、お聞きしましょう。本当に、頼みを聞けるかはその内容次第ですよ」
河鯉「うん、それでよい」
河鯉は人払いをし、話を始めました。
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私が仕える管領扇谷定正どのは、越後は白井の長尾景春と争っていたのだが、近年、和睦のムードが強くなってきた。このチャンスにぜひ仲直りするのが得策であるというのが、家臣たちのおおむねの共通認識だ。
しかし、家臣の中にひとりだけ、それを望まないものがいる。重臣の竜山免太夫がそれだ。彼はかつて白井に仕えていたことがあるのだが、そこで悪事を働き、寝返って管領側についたという過去がある。だから絶対に白井と管領に仲直りしてほしくないらしい。
竜山は、白井でなく、小田原の北条と同盟をむすぶべきだと主張している。そして逆に白井を攻め、長尾を滅ぼそうと画策している。長尾はもともと管領の家臣だったのだから、竜山の主張するようなことをするのは世の中を乱すもとになる。
竜山は悪知恵があり、管領に取り入るのが非常にうまい。おかげで今では強大な権力を握っている。しかし心に邪なものを抱いているのは他の誰もが知っている。管領どのは竜山の言うことばかり信じるようになってしまい、奥方の蟹目御前が諫める言葉さえ聞かなくなってしまった。御前は、これが解決するように神仏に祈るため、今日もこの神社に詣でに来たのだ。
さて、頼みというのは他でもない、この竜山を鉄砲で暗殺してほしいのだ。彼は明朝、北条との同盟の使節として、相模に向かって出発する予定だ。そこを狙って欲しい。彼さえ死ねば、同盟は回避できる。成功すれば、千金をもって報いよう。
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河鯉「私は興信所に頼んで、竜山の過去の行いを調べた。彼はかつて、籠山逸東太縁連と名乗る男だった。千葉に仕えていたときには粟飯原胤度を殺して逃亡し、その後白井の長尾に仕えていた時は、預かったマタタビ丸を持ったまま逃亡したという」
河鯉はここまで一気に話し、物四郎の顔をふと見て驚きました。こらえきれずにニヤニヤと笑っていたからです。口は笑っており、目はランランと輝いています。
物四郎「これぞ神の助けだ。籠山逸東太縁連! あなたは私に籠山を討てとおっしゃってくれるのですね。何を隠そう、私こそは粟飯原一族の唯一の生き残り、犬阪毛野胤智。籠山はわが父を殺した不倶戴天のカタキなのです。謝礼などなくとも、私はよろこんで彼を討つでしょう」
河鯉「それはまた、なんという偶然だ! では引き受けてくれるのだな。きっと成功間違いなしだ」
毛野「もちろんです。しかし、敵討ちですから、鉄砲で暗殺という卑怯な方法を取るわけにはいきません。堂々と刀で行うつもりですがよいですか」
河鯉「そういう事情なら、それで任せる。もしものために鉄砲も預けるぞ。しかし用心してくれよ。彼と一緒にいるはずの腹心、鰐崎悪四郎猛虎は非常に強い。三十人並みの力があると評判だ。できるだけ、籠山だけを殺し、あとは逃げるのが得策だと思うぞ」
毛野「アドバイス感謝します。ここらは成り行きに任せることにはなりますが…」
河鯉はこの相談の首尾に満足しました。籠山の似顔絵を毛野に渡し(実は毛野はカタキの顔さえ知らなかったのですね)、また彼らが通る予定のルートも教え、あとはよろしくと言い残すと、雑兵たちを連れて五十子城に帰っていきました。毛野もまた、決然とした顔で宿に帰っていきました。
実は、この会談を盗み聞いていたものがあります。さきに毛野に手相を見てもらった、笠をかぶった謎の武士です。彼もまた、気配を消しながらどこかに走り去りました。