90. 船虫再々々登場、そして退場
■船虫再々々登場、そして退場
場面は武蔵の司馬浜というところに移ります。一月なかばの寒い夜です。ここにひとり、春をひさいで暮らす女がありました。この女は、越後で盗賊を働いていましたが、そこから逃げてきて今はこんな場末で生活を立てています。持ち出してきた金なんかは、とっくに使い果たしています。
おなじみ船虫のことです。
普通の辻君ではありません。船虫のやりかたはなんとも凶悪で、物陰に客を連れ込み、口を吸わせている途中に舌を噛みちぎって殺すのです。そうして身ぐるみをはいでから、死体を海に捨てていました。
船虫が普段客(犠牲者)を捕まえているのは、地蔵堂と閻魔堂がちょうど向かい合ったところです。夜な夜な、小ぎれいな着物をまとって道に立ちます。
船虫「ちょっとおニイさんたち、寄っといでよ」
二人組の年配の男が、船虫に目を止めました。
男1「お、キレイな辻君だ。生活に困ってこんな仕事をせざるを得ないなんてカワイソウだな」
男2「まったくだ。しかしキレイな女だな」
船虫「あんたら、冷やかしなら邪魔だよ。買うのか買わないのかどっちだい。何でもチャレンジしてみるもんだよ。ほら、順番に相手してやるから、とっととおいで(袖をひっぱる)」
男1・男2「わー(逃げる)」
船虫「ンだよ、いくじなしが…」
しばらく待つと、肩に荷物を背負った旅人が、船虫の横を駆け抜けようとしました。
船虫「おニイさん、お待ちよ!」
旅人「(驚いて止まる)な、なんだ。女一人で、こんな夜更けに」
船虫「いやあね、分かってんでしょ。聞いてよ私の身の上。夫は病気で死んだの。あとは老いた母がいるだけ。母に薬を買うためには、私にはこんな商売しか残っていないの。ねえ、かわいそうだと思ったら、どうか私と遊んで行ってよ」
旅人「ふーん…(ニヤニヤ)」
旅人はちょっとその気になりました。「そう言われちゃあ、同情するな。よし、いいとも」
旅人は、船虫に連れられて、物陰に敷いたむしろの上に一緒に座りました。
ゴソゴソ…
旅人「(飛び上がる)うわっ、あぶねえ! お前今、俺の舌を噛み切ろうとしたな」
船虫「八重歯がちょっと引っかかっただけでしょ、慌てないでよ」
旅人「いいや、明らかに殺意があった。俺を誰だと思う。管領に仕える、放免善悪平だぞ。世間で最近話題の、殺人売春婦とはお前のことだな。実に極悪だ。しょっ引いてやる!」
船虫は、すかさず善悪平の腹を一発殴ると、道に出て逃げ出しました。
旅人「逃がさ… うああっ」
後ろから銃声が響き、あわれ、善悪平は体を撃ち抜かれて絶命しました。
船虫「(銃を撃った男のほうに振り向いて)おいクソ媼内が、遅えんだよ! お前が客引きをサボってる間、ひとりでやってたんだからな! おかげで危ない目に会ったじゃないか。なんで遅くなったか言えよ!」
媼内もまた、船虫と一緒に越後から逃げてきた身です。
媼内「ああ悪かったよ。しかし、こっちはこっちで、大きな獲物があったんだ。牛を一匹盗んだんだぜ。ほら」
船虫「なんだって、ステキじゃないか」
媼内「昼間は山で鳥を撃ってたんだが、たいした稼ぎにはならなかった。しかし、帰り道に、百姓の夫婦が酔っぱらいながらメチャクチャに夫婦喧嘩しててよ。それで、俺は、ドサクサ紛れに柵を開けてこいつを連れ出して、ここまで来たんだよ。もう暗かったし、牛も黒いし、気づかれなかったぜ。立派な牛だ。売り飛ばせば十両にはなるな」
船虫「アンタもやるじゃないのさ」
媼内「今夜のうちに千住まで連れて行って、朝になったら売るつもりだ。しかし、まずはこの武士の死体を捨てにいこう。その間、牛は… そうだな、あそこのワラ小屋にでも押し込んでおくか」
死体を隠して、牛を小屋に押し込め終わったころ、棒を持った百姓が道をこちらに向かってきました。媼内は閻魔堂の後ろに隠れました。
百姓「おい、そこの女。お前は辻君か何かか。まあいい。今ここを、大きな黒牛を連れた男が通らなかったか」
船虫「知らないね」
百姓「知らないとは不自然だ。こっちに牛が向かったっていう証言もあるんだぞ」
船虫「知らないもんは知らないよ。あたしは牛番じゃないんだよ。マヌケ野郎」
百姓「チッ、口の悪い女だ」
そのとき、ワラ小屋の中から「モー」という声がしました。
百姓「おい、あの鳴き声は何だ。牛の声だ」
船虫「知るもんか。ここの百姓だって牛くらい飼うだろうさ」
百姓「やっぱり手前が盗んでトボケてやがったんだな。許さ… うああっ」
この百姓もまた、媼内に撃ち殺されました。
船虫「ケッ、バカが」
媼内「今日だけで二人も撃ち殺しちまったな。ここにももう長くはいられないな。今日の商売はここまでにして、もう宿に戻ろうぜ。俺はとにかく牛を千住に運ぶ」
船虫「ああ。…おっと、もう一人来る。走っているようだから、すぐここに来そうだ。せっかくだ、あいつを相手にしてから終わりにしようじゃないか」
媼内はサッと閻魔堂の軒に隠れました。いつものコンビプレイです。
船虫「ちょいとおニイさん、遊んでお行きよ。親の薬代を稼ぎたいんだよ、お願いだよ」
???「何だ? …その声は、お前は船虫か!」
船虫が声をかけたのは、なんと犬田小文吾でした。
船虫「ゲッ!」
小文吾「やはりそうだ、お前は越後で俺を殺そうとした船虫だ。こんなところで会うとは奇遇だな。今日こそは逃がさん」
小文吾は船虫のえり髪をつかんで引き寄せ、脇で締め付けました。
媼内が、閻魔堂から小文吾を撃とうと、狙いを定めました。小文吾と聞いて驚きましたが、どんな強い男だろうと、鉄砲の餌食にしてしまえば同じことです。
しかしそのとき、閻魔堂の扉が開き、中から大男がヌッと出てきて媼内の鉄砲を奪い、さらに襟をつかんでブン投げました。媼内は20mほど離れた向こうの地蔵堂までぶっ飛んで落ちました。地蔵堂からは別の男が扉を開いて出てきました。そして起き上がろうとする媼内の背中を思い切り踏みつけました。
閻魔・地蔵「あぶないところだったな、犬田小文吾」
いや、男たちは閻魔でも地蔵でもありません。閻魔堂から出てきたのは犬山道節、地蔵堂から出てきたのは犬塚信乃でした。
小文吾「信乃! 道節! 久しぶり、というか… おぬしら、どうしてそんなところに籠っていた?」
そこに、犬川荘助、犬飼現八、犬村大角の三人の犬士が走って追いついてきました。「何だ? 先を行っていた小文吾はともかく、そこにいるのは、信乃と道節!」
なんと、この場にいきなり六人の犬士がそろってしまいました。小文吾は、今夜ここで船虫に出会って、それを捕らえたいきさつを皆に説明しました。
荘助「信乃さん、そして道節、私たちは四人で、丶大様を追いかけて穂北に向かう途中だったんです。途中で『司馬浜に寄れ』という誰かの声が聞こえた気がしたので、こっちに来てみたら… なんとここで、六人もの犬士が揃ってしまった。そして、私がかつて逃がしてしまった船虫も捕まえられている。実に不思議だ」
信乃「それだけじゃありません。こっちの男は媼内といって、甲斐で主人を半殺しにして金を奪った極悪人ですよ。これも不思議ですね」
現八「おい信乃、道節、どうしてこんなところにいるんだ。説明してくれないか」
道節「我々はここで秘かにある人物を待っていたのだが… まあそれはあとでゆっくり説明する。さしあたりは、この二人の悪人をどうしてくれようか、それを考えるのが先だ」
信乃「自分はさっきから、地蔵堂の中で、この船虫と媼内がしていることを見ていました。この二人は、一人が娼婦のふりをして客を引き、もう一人がそれを殺すという犯罪を常習的に行っていたようです。また、さっきは放免という武士を殺し、さらに、牛を盗んでその飼い主まで殺していました」
小文吾「こいつは、今まで三度も盗賊の妻になっていたのか。最初が並四郎、次が酒顚二、そして最後にこの媼内。まったく救いようがない。見ているだけでムカムカしてくる」
現八「それだけじゃないぜ。こいつは、赤岩一角に化けていた妖怪ともつるんでいたことがあるんだよ。大角とその奥さんの雛衣さんがどれほどこいつに苦しめられたか」
犬士たちは口々にこれら二人の悪人(とりわけ船虫)の今まで行ってきた悪事を言い立てました。しかし、ひとり大角だけは、悲しそうな表情で顔を背けて、ため息をついています。
船虫はそこに目をつけました。取り入るならこいつしかない、と考えました。
船虫「犬村どの、どうか命だけは助けておくれ。私の行ってきた悪事は許されないものかも知れません。しかし、これからはすっかり心を入れ替えるよ。かつては互いを母とも子とも呼び合った間柄じゃないか。お願いだよ」
しかし、大角は、船虫を憐れんでいたのではありませんでした。人間とはどこまで醜くなれるものなのかを目にして、恐ろしく、そして悲しく思っていたところだったのです。大角は、今まで誰にも向けたことがないような険しい顔を船虫に向け、声をふりたてました。
大角「だまれ毒婦が! 俺が妖怪にたぶらかされていたのでなければ、誰がお前のような女を母と思うものか。お前が犬田どののカタキと知っていれば、下野でお前を逃がしたりはしなかった。たとえ他の犬士たちが許すとしても、私だけはお前を許さない!」
船虫「ひいっ!」
信乃「犬村どの、落ち着いてください」
大角「はあ、はあ…」
さて、どちらにしても、もはや、この二人の悪人をこの場で殺さずには済みません。
信乃「どうやります。この二人の今までの罪を考えれば、八つ裂きにでもするのが適当ですが」
道節「それはそうだが、人の手で殺すのさえ、こいつらにはもったいない。ちょうどいい方法があるぞ。こいつらが盗んだ牛に殺させるのだ」
小文吾・現八・荘助「それがいいな」
信乃は、この二人の服をやぶき、背中にそれぞれの罪状を書き付けました。そして小文吾が、閻魔堂の前にある二本の杉の木に、それぞれ縄でぐるぐる巻きに縛り付けました。道節が、ワラ小屋から牛を曳いて連れてきました。牛の角はとても尖っています。
船虫はそれまでメチャクチャに犬士たちを罵っていましたが、何が起ころうとしているのかが分かると、さすがに恐怖に言葉をなくしました。焦って媼内の方を振り向きますが、彼はもう、さっき投げられたり踏まれたりしたダメージで、ほとんど意識モウロウです。
信乃は牛に呼びかけました。「さあ、あいつらが主人のカタキだぞ。思う存分やりなさい」
そして、小文吾と現八が、牛の尻をペッチーン! と叩きました。
それからどうなったかは想像にお任せします。船虫と媼内は、くしくも閻魔堂の奥の閻魔像に見据えられながら、恐るべき死にざまをさらしたのでした。
大角「…悲しいことだ」