97. しずまれ俺の腹
■しずまれ俺の腹
話はかなりさかのぼります。伏姫が自らの腹を切って八つの玉を飛び散らせ、それを集めるために金碗大輔が丶大と名を変えて旅立った直後の安房の話です。
里見義実は、突然、子の義成に国主の座をゆずって隠居すると発表しました。まだ働き盛りの年齢でしたから、周りの家臣たちは最初大反対しました。
杉倉氏元・堀内貞行「ほんと困りますから。せめて、御曹司(義成)のコーチとして残ってあげてくださいませんか」
義実「娘も嫁も死に、大輔も出家してしまった。すべては私の過ちから起こったことだ。これ以上おめおめと今の地位に残っていては、世間の笑いものだ。ケジメをつけないといけない。お前たち、あとは頼むぞ。私は政治にこれから一切口出ししないから、義成にだけ仕えてやってくれ」
やがて、京都の将軍家から許可をもらって正式に義成を安房守に据えると、義成は滝田の城の隅に別館を作ってそこに籠りました。そして自らを突然居士と称し、念仏三昧、詩歌三昧の日々を送るようになりました。
(当時の誰も気づきませんでしたが、突然という字には意味がありました。「突」は「宀に八の犬」。「然」は、月+犬+火。火は「八人」に分解できます。とにかく、八人の犬士たちの集結を待ち望む気持ちがおおいに表れた名なのでした。のちに、この名前の秘密に一発で気づいたのは犬阪毛野だけでした)
義実から地位を譲られた里見義成は、父親に劣らず文武にすぐれた才能をもち、また、杉倉や堀内といった優秀な家臣にも恵まれましたから、その後とてもよい政治を行いました。そのうち、かつて杉倉たちの同僚だった荒川清澄・東辰相という男たちにも出会って家臣に迎えましたので、これら四人の家老を従え、里見家の体制はいよいよ盤石の安定ぶりを示しました。安房のまわりの国々も、里見の繁栄ぶりをうやまって服従しましたから、上総・下総の大部分が自然と里見家の支配下に入りました。戦でない、徳の力で里見の領地は増えていきました。
それから十数年の時が過ぎました。あるとき、犬士捜索のために派遣していた蜑崎十一郎照文が、下総の市川から、妙真と文五兵衛を連れて帰ってきました。何人かの犬士たちが見つかったという報告つきです。(親兵衛が神隠しにあったという報告もされました。)
義成・義実「すごい! 一刻も早く彼らに会ってみたい!」
照文「いやあ、それが、彼らは、8人揃ってから会いにきます、という強い主張があるようですよ」
義成・義実「そ、そうかあ… 大丈夫、きっとそうなる運命だから。犬江親兵衛は神隠しにあっているそうだが、その彼も、いつかひょっこり現れるだろう。照文、今後も何かと彼らのサポートをしてやってくれ」
義実たちは、文五兵衛や妙真に、犬士たちのことを飽くほど尋ね、そのたびに感動しながら、次のニュースを心待ちにしました。(文五兵衛は、この翌年に亡くなってしまいましたが)
その四年後、次は照文が、なんと義成の五女、浜路姫を連れ帰ってきました。ワシにさらわれて以来、みなが生存をすっかりあきらめていた浜路姫をです。城中がよろこびに沸きたちました。
義成「うおお、浜路! これはどういうことなんだ、照文」
照文「犬士のうちのふたり、犬塚信乃と犬山道節が助け出してくれたのですよ。浜路を拾って育ててくれた四六木木工作は残念ながら殺されてしまったのですが、そのカタキである泡雪奈四郎は犬塚によって討たれました。クビも持ち帰りました」
義成・義実「犬士たちは、まだ安房に仕えてもいないうちから、ジャンジャン手柄を立ててくれる… 8人揃う時が、本当に楽しみだ」
照文「そうそう、犬塚と犬山は、甲斐の武田に仕官のオファーを受けていましたよ」
義成「えっ、それは困る」
照文「大丈夫、彼らはウチ以外に仕える気はないようです。とっとと甲斐を離れてしまいましたよ」
義成「ホッ… 照文、今後も彼らとの連絡をたのむぞ」
そしてその次の年は、照文は直接出て行ってはいませんが、石禾の指月院から手紙が届いたのを義実たちに報告しました。そこには、8人すべての犬士たちの名前が判明したというニュースが記されていました。犬士たちが体験してきたいろいろな事件のことも詳しく述べられています。また、犬士がすべて見つかったことを記念して、丶大こと大輔が、次の春、結城の古戦場で大法要を行う予定であることも追記されていました。
義実「ついにやったな、大輔よ… いずれ8人がここ安房に揃うことは、まず間違いないと見ていいだろう。そして、それを見事果たしてついに行う、結城での戦死者の弔い。私も親の弔いをしたいとずっと思ってはいたが、あの結城の戦いは京都の将軍に歯向かうものだったから、なかなか公然にこれを扱うのは難しかったのだ。千体の仏を作るよりも、大伽藍を建立するよりも、なおそれに勝る大きな手柄だぞ。このトシまで生きててよかった(涙)」
義成「まだ親兵衛が見つからないのは若干心配ですが、早くどこにいるのか分かるといいですね。年齢的には、今は9歳になっているころかな」
義実「なあに、彼もまた、伏姫の霊に守られたひとりなのだ。機が熟せば、きっと我々の目の前に現れることだろう…」
さて、このころ、上総は夷灊にある館山という領地に、城主をつとめる蟇田素藤という男がいました。彼はこれから里見家とちょっとした対決をするのですが、これから数回にわけて、素藤の生まれや、城主になった経緯を紹介していきます。
彼の父親は、近江の胆吹山を拠点とする盗賊団の頭領でした。彼の名は但鳥跖六業因。武芸には優れるが、性格はきわめて残忍。多数の手下を従えて、民からも寺社からもほしいままに財を奪い、悪の栄えを誇っていました。
業因の悪名をきわめて高くしていたのは、「胎児を食う」というウワサです。彼は、あるとき手下の一人に聞いた「人間の胎児ってのは非常に美味らしいですよ」という情報が本当かを確かめるため、実際に妊婦をさらってその胎児を奪い、蒸して食べました。彼はこの味を非常に気に入り、それから常習的にこの恐ろしい罪を繰り返すようになったのです。やがて彼には「鬼」というあだ名がつきました。
そんな業因に、今まで犯した罪の報いがおとずれる時が来ました。
業因は、ある日、数人の部下をつれて、京の祇園祭を見物に行きました。彼の顔を知る同業者は多いため、しっかり変装もしています。街中は非常に混雑しており、山鉾の出し物のまわりとなると、ほとんど身動きができないほどです。
そんなときに突然、業因の腹から、何者かが叫ぶような音が鳴り出しました。非常に大きな声で、まわりの観客たちが驚いて彼の方向を向きます。
業因「な、なんだ。この声は俺の腹から出ているのか。くそっ、やめろ。しずまれ、俺の腹」
その叫び声は、業因の正体と、業因が今までに犯した罪をあばき立てるものでした。今までに誰を殺し、何を盗み、そしてどれだけの妊婦を殺して胎児を食ったか。謎の声はそれらを余さず叫びたて、業因を告発しました。業因たちは慌てて身を隠そうとしましたが、この混雑の中ではろくに動くこともできません。町中はパニックになりました。
京を警護していた高梨職徳という武士が、この騒ぎに気づきました。「むっ、大悪党、但鳥業因の名を叫ぶものがある。詳しい事情は分からんが、確かにあそこの男の人相は、相当な悪人のものと思われる。たぶん業因本人なのだろう。さっそく捕えてやろう。者ども、かかれ」
業因はお忍びで京に来たので、運悪く、何も武器を持っていません。とりあえず手近な丸太棒をひっつかんで暴れてみましたが、たくさんの雑兵が折り重なって組み伏せにくるのには到底かないません。彼の付き人を含めてほぼ全員が、やがて縄でぐるぐる巻きにされてしまいました。
腹は、最後に「うわははは」と笑い声をあげ、そして沈黙しました。