115. ビッグママ、忠臣の命を救う
■ビッグママ、忠臣の命を救う
里見義成は、親兵衛を呼び返すと決め、すぐに三人の家老にその旨を伝えました。三人は、今まで親兵衛が遠ざけられていたのが敵の妖術のせいだったことを知って驚きましたが、同時に、ボスが親兵衛への誤解を解いたことにはホッとしました。浜路姫が伏姫の霊に会ってきたという話を聞くと、里見家が神に守られていることがわかり、非常に頼もしくありがたい気持ちになりました。
義成「詳しい手はずはあとで相談するが、まずは今日の政務をチャッチャと終わらせてくる。何か別の報告も入っているかも知れないし」
この日、城のまわりで起こったできごととして、二つの事件が義成に報告されました。
○ 先日処刑してさらしておいた、鳶野という男の首が紛失
○ 荒磯南弥六がいなくなった。居室からは本人が書き残したと思しい遺書が見つかった
義成は遺書の内容から素藤暗殺計画のことを知って驚きました。「南弥六め、ずいぶんとアツいことをしようとしているな… うまくいけば言うことなしだが」
(もちろん、義成たちは、この暗殺計画が惜しくも失敗したことをあとで知るのですが、恩に報いるに命を賭けようとする彼の男気はきわめて高く評価されました。また、もともとこの男を許した里見義実の人徳もあらためて賞賛の的になりました)
さて、政務が終わり、あらためて家老たちと親兵衛をどうやって呼び返すかが相談されました。
東「親兵衛にメッセージを伝えに行くのは、蜑崎照文と与四郎(矠平)が適任でしょう。つきあいの長いやつらですしね」
義成「私もそう思う。彼らは滝田にいるはずだから、今すぐ呼びに向かってくれ。父上(義実)にも今までのいきさつを伝えておいてくれ」
東「はっ」
東辰相はすぐに出発しました。それから1時間もたたないうちに、照文と与四郎が稲村に到着しました。
義成「あれっ、いくらなんでも早すぎる。お前たち、辰相に言われて来たの?」
照文・与四郎「いいえ、大殿からメッセージを預かってここに来たのです。辰相様には会ってません」
義成「じゃあすれ違いか。すごい偶然だな。ちょうど照文たちに頼みたいことがあったんだよ。でもまず、そっちからのメッセージを先に聞きたいな」
照文「はっ。単刀直入に申し上げますが… 義成様、先日、犬江親兵衛を旅に出したことを、後悔していらっしゃいませんか」
義成「えっ! どうしてそのことを!」
照文「やっぱり…」
照文は、滝田の義実のもとに預言があったのだ、と説明しました。飼っているオウムが突然しゃべり始め、義成が敵の妖術に引っかかって親兵衛を疑ったこと、浜路姫に危険が及ぶ(しかし後に助かる)こと、そしてその後、義成は親兵衛への疑いを解き、照文と与四郎が使いとして呼び出されようとしていること、などをすべて告げたのだそうです。
義成「へー、父上はオウムなんて飼ってたんだ」
照文「以前、海外の船が難破しているのを助けたことがありました。そのときにお礼にもらったのです。今まで『ピーちゃん』くらいしか喋らなかったのが、『やよや大殿聞こしめせ…』とか言い始めて、かなりキモかったそうです」
義成「姉上がオウムの口を借りて父上に話をしたんだな、きっと…」
照文「ってことで、もしもオウムの話が本当だったらすぐに対応するために、私も与四郎も、もう旅の準備は万端です。手分けして親兵衛さまを探すために、大体の段取りも決めてあるんですよ。あとはもう、義成様に命令をいただくだけです」
義成「すばらしい。じゃあ早速頼む。兵がいるなら、必要なだけ連れて行ってくれ」
こうして、照文と与四郎は、すこしだけ休憩をとり、最小限の伴人たちを借りると、義成からの手紙をおのおの携えて、意気ごんで出発していきました。途中までは二人一緒ですが、やがて与四郎は親兵衛の生まれ故郷である下総の市川に、照文は何人かの犬士がいることがすでに分かっている穂北に向かって二手に分かれました。
さて、犬江親兵衛があの後どうしているかに話を移しましょう。
親兵衛は、祖母の妙真に別れをつげてから安房を出発し、やがて市川に到着しました。妙真のアドバイスに従ったからでもありますが、なにしろ物心ついてからまだ戻ったことがなかった故郷ですからね。何をおいても、一度は来たかったのです。
犬江屋の場所もわかっていましたから、そこを訪ねて、今はいない両親の面影を思い出して涙ぐんでいました。それを、今の家長である依介と水澪が発見します。彼らはあらかじめ妙真から手紙を受け取っており、近く、親兵衛が訪ねてくることを知っていました。
依介「…まさか、あなたが親兵衛くん、いや親兵衛どのですか?」
親兵衛「はい、あなたは…」
依介「大きくなりましたな… いやしかしマジで(筆者注:この手のやりとりはもう省略!)」
依介は名乗って親兵衛を大歓迎し、妻の水澪も紹介しました。親兵衛が暴風舵九郎にさらわれそうになったときの話も出ました。依介は自分のおでこの傷を見せながら、当時のいろいろを懐かしみました。
親兵衛「依介おじさん、いろいろと話したいことは尽きませんが、まずは両親の墓参りをさせて欲しいのです」
依介「ああ、もちろん! 以前はいろいろと世をはばかる事情もあったのですが、今はひととおりの心配がなくなって、ちゃんと二人の墓を立てることができたんですよ。案内します」
墓には、「義侠夫妻之墓」と彫ってありました。そしてそのそばには、8つづつの青い実をつけた梅の木がうねうねと見事な枝を伸ばして立っていました。(信乃が植えた梅の種が育ったんですね)
親兵衛「親兵衛が今やっと帰ってまいりました。おとうさま、おかあさま、お懐かしい…(合掌して涙)」
神隠しにあっていた大八くん(親兵衛の昔のあだ名)が大出世して故郷に錦を飾りにきたらしい、とウワサになり、村の人たちがゾロゾロ寄ってきました。親兵衛は村の人たち全員に餅をくばり、飲める人には酒を贈って、両親の供養の足しにしました。
しかし、親兵衛にとっては、義成からの疑いも解けていませんし、錦を飾るとは到底いえない状況でもあります。また、七人の犬士を探すという使命も帯びていますから、長居はできません。数日だけ滞在したあと、そろそろ市川を離れることにしました。
依介「もっとずっといてくださいよ」
親兵衛「ありがとう、しかし仕事があるのです。今後はたびたび来られるのですから、またそのときに」
親兵衛は依介たちに見送られながら市川を去り、そして、次は行徳に行って、文五兵衛たちの住んでいた古那屋を外から眺めて懐かしみました。(ここで親兵衛は死んだり生き返ったりしたんですよね。)今は他人の手に渡っていますので、特に住人を訪ねはしませんでしたが。
親兵衛「さて次は… 湯嶋のあたりに行ってみて、そこから穂北に向かってみようかな。穂北には何人かの兄者(犬士)たちがいたということだけど、今もいるか確かめるべきだし」
そうして親兵衛は、水路と陸路を経て、とりあえず上野のあたりに着きました。
そこで茶屋に足をとどめて休んでいると… 何人もの人が、同じ方向に走っていくのが見られました。「死刑があるぞ、死刑が」と口々に叫んでいます。
親兵衛「んー、死刑だって。(茶屋の主人に向かって)ねえお婆さん、誰の死刑なんですか。どうしてみんな見物しに行くんです」
婆さん「まったくみんな、悪趣味なことですよ。死刑の見物なんて… はい、今から死のうとしているのは、扇谷家の忠臣、河鯉孝嗣さまですよ」
親兵衛「忠臣なのに、なんで死ぬんです」
婆さん「彼を憎む人たちに、ウソの訴えをされたんですよ」
親兵衛「それはひどい話だ。もっと詳しく」
婆さん「ええ、詳しくお話しましょうか…」
茶屋の婆さんは、関東管領・扇谷定正が七人の勇士たちに襲撃された事件のことを、その発端から結末まで詳しく語りました。
婆さん「…そして、管領家に巣食う悪臣・籠山を除くために尽力したのが、孝嗣さまの父上、守如さまです。そして、その後、軽はずみな行動で命の危機に陥った定正さまを命がけで救ったのが孝嗣さまです。おふたりとも、管領家の宝とよぶべき人物です」
親兵衛「もっともだ」
婆さん「しかし、孝嗣さまが、この七人の勇士たちとなんと内通していた… という証拠となる『怪文書』が現れたのですよ。情報の出所は、籠山シンパの残党でした」
親兵衛「そんなくだらないモノを、まさか定正は…」
婆さん「はい、信じたのです。実に愚かな方ですね。ついに孝嗣さまは逮捕され、ほとんど釈明も許されないままに、今日の死刑執行の日を迎えてしまったというわけで」
親兵衛「あきれた話だ。うーん、よく分かりました。ありがとうお婆さん」
親兵衛は茶代を払うと、自分も刑場のある前面岡に行ってみることにしました。不忍池の近くです。できることなら孝嗣を救い出したいくらいの気持ちですが、それはさすがに無理と思われるので、できれば首級くらいは奪って、どこかで武士として恥ずかしくない葬り方をしてやりたいな、くらいに考えています。
親兵衛「(しかしあのお婆さん、異様に詳しかったな… 自分は伏姫さまに聞いて大体知っていることだったけど、普通、あんな内部事情まで正しく知ってるものだろうか…)」
やがて刑場が見られる場所に着きました。確かに、孝嗣と見られる若者が、数十人の兵に守られながら、今にも執行人に首を斬られようというところです。見物客は片端から追い払われていました。親兵衛は木の陰に隠れることにしました。
執行人「河鯉佐太郎孝嗣よ、毛野・道節らに内通して殿に反逆をくわだてた罪、思い知って刃をうけよ」
孝嗣「ばかな。何度でも言ってやる。オレは断じて無罪だ。死んだあとは、雷となって、私を陥れた者どもを撃ち殺してくれるから覚悟していろ」
執行人「もう無駄口はたくさんだ。死ぬがいい!」
このとき、一人の武士がとつぜん刑場に走り込んできました。息を切らしています。
武士「おい、その執行、待った! 私は箙の大刀自の供人、巣雁俊平だ。大刀自からお主らに伝えることがある。それまでこの男を殺すな!」
執行人「な、なんだよ… えっ、大刀自? あのビッグママか? なんでそんな人物がここに」
巣雁「それは大刀自みずからがご説明くださる」
やがて、長い行列に続き、カゴに載ったビッグママ本人が現場に到着しました。おごそかな様子でカゴを降り、今回の死刑担当の穴栗専作と根角谷中二に向かい合いました。
ビッグママ「私がこの付近を移動していたのは、今回、長尾景春が管領家と和解した喜びを扇谷どのに申し上げに行く途中だったからだよ。また、妹・蟹目前の墓にも参りたかったからね」
ビッグママ「それが、ちょうど昨日、夢を見たのですよ。湯嶋の天神さまが枕元に立ってねえ、『蟹目前のかしづき、河鯉孝嗣が無実の罪で死のうとしている』と私に言うのです」
ビッグママ「まわりの者に聞くと、本当に孝嗣が今日処刑される予定と言うではないですか。私はこのお導きを信じることにして、ここに駆けつけたのです。あなたがた、孝嗣を今すぐ釈放しなさい」
谷中二は、少しあきれて、顔にニヤニヤ笑いを浮かべました。どう対応したらよいか必死に考えている様子です。
谷中二「大刀自さま… ええと、あなた様が見たのは、つまり、ただの夢なわけですよね…」
ビッグママ「そうですとも。それが何か?」
谷中二「夢で見たから、有罪の男が無罪になるというのは、ちょっと無茶な話では…」
ビッグママ「お黙んなさい!!」
谷中二たちはビクッとしました。
ビッグママ「この忠臣に、主君を裏切る動機があると思うのですか! もしそうだというなら、彼の父である守如も、蟹目前さえ、同じように逆心があったということですか! どうなんだい、ゴラ!」
谷中二・穴栗「…」
ビッグママ「私は神の言葉を信じますよ。私が全責任を持ちますから、今すぐ彼を釈放なさい。安心なさい、あなたたちに責めは負わせませんから」
こうしてついに孝嗣の死刑執行は中止され、谷中二たちは、五十子城に逃げるように去って行きました。すぐに定正に報告して、自分たちの罪を免れないといけませんからね。
ビッグママ「さあもう安心ですよ、孝嗣どの。お目にかかるのは初めてですね」
孝嗣「おお… このご恩、どう申し上げてよいか、言葉さえ浮かびません」
ビッグママ「よいのですよ。あなた、ここで命を失ったものと思って、この際、仕え先を変えてはどうですか。あの暗君に仕えるには、惜しいように見えます」
孝嗣「!?」
ビッグママ「ホントはウチに仕えて欲しいけど、それだとせっかく和解した長尾と関東管領の関係が悪化するわ。他だと、そうねえ、今関東で一番の良将は、なんといっても安房の里見よねえ。考えておいてくれるかしら」
孝嗣「…」
ビッグママ「それはそうと、あなた、これから旅をするのに、刀がないのは不都合ね。これをお持ちなさい(両刀をわたす)」
孝嗣は厚く礼を述べて深く額づき、そして顔を上げると…
まわりには誰もいません。もちろん箙の大刀自もいません。連れていた大勢の供人たちもいません。
孝嗣「えっ」
孝嗣は、たった今もらった両刀を確かめてみました。これは、孝嗣がもともと持っていた両刀です。逮捕されたときに谷中二たちに奪われてしまったものが、なぜか手元に帰ってきました。
孝嗣「何か、神のようなものに助けられたのだろうか…」
孝嗣は少し考え込みましたが、たまたま自由の身になったこのチャンスを逃してはいけないと思いつきました。谷中二たちがいつ戻ってこないとも限りません。
孝嗣「考えるのはあとだ。逃げよう。とりあえず浅草あたりに向かうか…(駆け出す)」
この一部始終を、木の陰から親兵衛も見ていました。
親兵衛「箙の大刀自が、孝嗣どのを救って、そして突然消えた… まったくワケがわからないが… 確かなのは、あの勇士とお知り合いになるチャンスということだ! 浅草に行くって言ってたな。よし!」