116. 九尾の狐、千の善行
■九尾の狐、千の善行
河鯉孝嗣は、箙の大刀自(?)の助けによって死刑を免れ、とりあえず不忍池を回って浅草の方向に逃げていました。
その途中、池のほとりに、若い男が気を失って仰向けに倒れているのを見つけました。懐がはだけており、中からサイフが半分むき出しになっています。ちょっと見捨ててはおけません。
孝嗣「おっ、君、大丈夫か。しっかりしなさい」
しかしその男は返事をしません。孝嗣が手を持ち上げて脈を確認すると、非常にかぼそく、このままでは命が危なそうです。
孝嗣「癲癇か何かかな。中院のツボを押してみるか…」
そうして、男の襟の内側に手を突っ込んだとき、とつぜん倒れていた男が目覚めて孝嗣の手をつかみ、大声をあげました。
男「おいこらドロボウ!」
男はそのまま孝嗣を中空に放り投げました。孝嗣はヒラリと降り立ちます。「ははあ、死んだフリをして不意をつくタイプの強盗か。人の善意につけ入るとは許せん!(サッと刀を抜いて男に振り下ろす)」
男はすかさず鉄扇を取り出してこれをギンと受け止めます。孝嗣がその後も秘術を尽くして繰り出す攻撃を、男は鉄扇ひとつでチャリン、チャリンと受け流します。孝嗣は何かに気づいた様子で、攻撃をやめると刀をサヤにしまいました。
男「どうなさった、なぜやめられる」
孝嗣「あなたは尋常の人ではない。私と武芸のレベルが違いすぎる。しかも、胸元からなにか光線が出ていて、こちらの手元も狂ってしまう。いったい何者なんですか。さっき私を助けて消えたあの人の同類ですか。妖怪なのか、神なのか…」
男は、あははと笑って頭をかきました。
男「妖怪でも神でもないですよ。私はフツーの人間で、犬江親兵衛と申します。犬山道節と、犬阪毛野を覚えておいでと思うが、私もまた彼らの義兄弟なのです。たいへん失礼とは知りながらも、あなたを試させてもらいました。倒れた旅人からサイフを盗まない清廉さ、また私の投げをかわした身のこなし、そして一騎当千のあの太刀筋。お見事でござった。里見の家臣に推薦するのに恥ずかしくないレベルですね…」
孝嗣は、道節と毛野の名前を聞いて驚きました。
孝嗣「あの七人の勇士たちの義兄弟!」
親兵衛「はい、私を入れて、里見の八犬士というのです」
孝嗣「と、とんでもない人と出会ったものだ。どうして私がここにいることをご存知だったんです」
親兵衛「たまたま寄った茶屋のお婆さんからウワサを聞いて」
孝嗣「では、私をさきに助けてくれた大刀自は?」
親兵衛「あれは私もナゾなのです。急に消えましたねえ。あなたの死刑を中止させてくれて、私も、誰かは知らないんですが感謝してるんです」
孝嗣「さっき、あなたの脈を見たところ、ほとんど止まっていましたよ」
親兵衛「あれは、閉息の術です。姫神さまに教わったんですよ。まあ、話はあとでゆっくりすることにして、まずはここを離れませんか。さっきの執行人たちが戻ってくる可能性もありますし」
孝嗣「(姫神さま?)」
そうして二人は、上野の原に向かって移動しました。道中で、親兵衛は、孝嗣がまぶしがった「光(つまり例の玉)」の正体について簡単に説明しました。もちろん、「姫神さま」がどういう存在なのかも明かされました。孝嗣はひたすら驚き、また感心しました。
親兵衛「ここらへんまで来れば、さしあたり安全かな。ちょうど、私がさっき言った茶屋もあそこにある。ちょっと寄って休憩して、お婆さんにお礼を言っていこう。また、私の着替えをそこで貸しましょう。ずっと罪人の格好では目立ちますからね」
孝嗣「おそれいる」
茶屋の中には誰もいません。主人は何かの用事で外に出ているようです。二人は茶を飲ませてもらいながら主人を待つことにしました。
親兵衛「さきにもちょっと言いかけましたが、孝嗣どの、里見に仕えることに興味はないですか。私から激推ししますが」
孝嗣「…思い起こせば、管領に仕えている間、私には知己と呼べる人がほとんどいませんでした。敵として出会ったはずの犬山どの、犬阪どののほうが、却って自分と心が通じると思ってしまったほどなのです。あの人たちもまた、伏姫さまに守られた『犬士』だったんですね… それが八人も仕える里見家は、無敵ですねえ」
親兵衛「じゃあ来てくれる?」
孝嗣「…それでもなお、躊躇を感じるのですよ。先祖代々の主君だった扇谷から離れるのは、いくら定正さまが暗君でも、やはりおいそれと決断できるものではないのです。しばらくは、里見の家臣ではなく、親兵衛どのの従者としてご一緒させてもらえませんか。それで、私が殿や犬士たちから愛想をつかされるようなことがなければ… いつか腹も決まるかもしれません」
親兵衛「それでオッケー!」
ここまで話をしたとき、茶屋の主人がやっと帰ってきました。
婆さん「おやおや、さきほどのお若い方。前面岡はいかがでした」
親兵衛「ええ、色々と…」
孝嗣が、主人の顔をみて驚きました。
孝嗣「さっきの大刀自ではないですか!」
親兵衛、二度見。「えっ、まさか! いや、たしかに似ていたかな…」
孝嗣「似ているどころか、本人ですって! そうですよね」
主人はこの疑問に静かに答えます。「そのとおり、私がさきほど前面岡で孝嗣どのをお救いしたのですよ。…おや、何をあきれていらっしゃる。親兵衛どのはともかく、孝嗣どの、私の顔をお忘れですか」
孝嗣「え? い、いや…」
婆さん「政木ですよ」
孝嗣「政木… いやゴメン、誰だっけ」
婆さん「まだ坊ちゃまは小さかったのですから無理もありません。私はあなたの乳母だったのですよ」
孝嗣「…ああ、思い出した! 私が5歳のときに急に失踪してしまった政木だ! こんなところで再会するなんて。しかし、政木にどうしてこんなことができるんだい。ワケが分からない」
婆さん「それは、今から説明させていただきます。色々と恥も多いことですが…」
親兵衛「(私の名前をこの人が知っているというのも不思議だ。私も黙って聞いていよう…)」
こうして、政木と名乗る老婆は、自分の身の上を明かす長い話をはじめました。
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まず、私は人間ではないことから話さなくてはいけません。忍岡の城の中に住みついていた、狐なんですよ。坊ちゃま(孝嗣)の父上の守如様は人にも獣にもお優しいかたで、私は安心して奥様の部屋の縁の下に巣をつくり、夫をもち、子をもうけて、三匹で平和に暮らしておりました。
しかし、守如様の家来のひとり、掛田和奈三は残忍な男でした。守如様が京都に出張で留守のあいだに、私の夫をワナにかけて捕まえ、肉を食い、皮を売ったのです。(キツネを捕まえるエサには、ごま油で煎ったネズミを使ったらしいですよ。どうでもいいところですが。)彼はひき続き、私と子のことも狙いました。
奥様、つまりあなたのお母様だった方は、これを知ってひどく和奈三を憎みました。奥様も同様にお優しかったのです。あと、この土地の鎮守はお稲荷様で、キツネはもともと大事にされていましたしね。それで、出張から戻った守如様にこの件を言いつけましたから、和奈三はやがてクビになりました。
私は夫を失ったことで大いに守如様と奥様に同情され、毎日エサを与えてもらえるようになりました。おかげでよく乳が出て、子はスクスクと育ち、やがて独り立ちして、山で暮らすようになりました。これで私の子育ては一段落です。
そのころずっと、坊ちゃまの乳母を務めていたのは、政木という女でした。彼女には秘密があって、なんと和奈三と不倫関係にあったのです。和奈三は、クビになって城への出入りを禁じられていましたが、政木を忘れることはできませんでした。ある夜、こっそりと示し合わせて、政木を城の外に連れ出したのです。
私は、夫の恨みをかえすチャンスが来たと思いました。実は私はこの時点で900年以上生きており、ちょっとくらいの神通力は持っていました。それを使って、二人を夜道に迷わせ、ある川沿いの細道に誘い込みました。次に、人間の盗賊のような姿に化けて、彼らを脅したのです。彼らは震え上がり、道から足を踏み外して… 河でおぼれてしまいました。
これで私は復讐を果たしたのですが、政木もいっしょに死んでしまったことは少し困りました。このままだと、坊ちゃんは別の乳母をつけられることになる。坊ちゃんは、慣れない人の乳を飲むのをいやがって、もしかすると病気にでもなってしまうかもしれない。
そこで私は一考し、政木に化けることにしたのです。子育ては終わっていましたが、栄養がよかったせいで、まだ乳は十分出ました。坊ちゃんは、何も気づかずに、その後も私の乳を飲んでくださいましたよ。
その後すぐ、奥様が急病で亡くなってしまいました。そのせいもあって、坊ちゃんは私の化けた政木にますますよく懐いてくれたのです。
しかしそれから数年後… 私はつい、坊ちゃんといる幸せに安心してしまったのでしょう。ある日、うたた寝をしているときに、私の顔がキツネに戻ってしまったのです。そして私は正体が家の人たちにバレてしまい、その場で逃げ出したというわけです。それ以来、私は坊ちゃんの前には姿をあらわしませんでした。悲しゅうございました。
ところで、狐は千年生きると霊狐になることができるのです。しかし当時の私には無理そうでした。たとえ復讐のためとはいえ、人を殺した私です。天が許してくれそうにありませんでした。
そう思ったので、それからは善行を積み上げようと決意しました。人間の老婆に化けるとここで茶屋を開き、道行く人が困っていると、できることは何でもして助けてやりました。茶屋のもうけを施行に使ったり、丸太橋を修理したり、男女の心中を止めてやったり。あのときから数えて、ざっと999人に善行を施したと記憶しています。
そのうち、キツネとしての体は純白に近づいていき、尾も九本に分かれてきました。そして天眼通の能力に目覚めていきました。だんだんと私は霊狐に近づいていったのです。1000人目に善行を行ったそのときに、私は天に許され、霊狐として昇天するのだろうと確信していました。
ところで、この能力で、私はつい先日、坊ちゃんが無実の罪で死刑になろうとしていることを知ったのです。そこで、私は変化の能力を全開にし、箙の大刀自とその供人全員に化け、五十子城の役人たちをだまして坊ちゃんの死刑をやめさせたのです。(幸い、本当の大刀自の顔を知っている人はいませんでしたので助かりました。)1000人目の善行は、なんと河鯉孝嗣どのの命を救うことだったとは、なんという運命の導きか…
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孝嗣はこの話を聞きながら目に涙をためています。「政木…」
親兵衛「ふーむ、すごい話だ。しかしひとつ教えてくれ。どうして私の名を知っていたんだ」
政木「さっきあなたに会ったとき、ただ者でないことはすぐ分かりました。ですから私は、各地の土地の神に連絡をとりあって、あなたの正体を調べたのですよ。神女の霊力に守られた八犬士随一の男、犬江親兵衛どのと分かったときは驚きました」
政木「そうそう、今のうちにこれを言っておかねば。親兵衛どののことを調べたとき、安房と上総の土地の神が、向こうで起こっている異変のことを私に教えてくれましたぞ」
親兵衛「安房に異変! なんだ、何が起こったのです、ねえ!」
政木「こら、胸ぐらをつかむな。落ち着け。…エヘン、あなたがかつて退治した素藤が、八百比丘尼・妙椿の魔力を借りて再起し、館山の城をふたたび奪ったようですよ」
親兵衛「!!」