141. ある底辺絵師の話
■ある底辺絵師の話
親兵衛は、京の管領、細川政元の屋敷にずっと留められています。ここから解放されるキッカケとして、これから京にある事件が起こるんですが、そこに至るまでの話として、まずはある一人の男のことから説明していきますよ。
男の名前は、竹林巽といいました。かつてはある領主の家臣をつとめていたのですが、そこで同僚の妻である於兎子という女と不倫関係になり、ついに駆け落ちして、放浪の末、薬師院という村に流れ着きました。
持ち出してきた金は酒代に消え、やがて二人の生活は困窮しました。しかし、それを哀れに思った、隣の家の久里平という一人暮らしの老人が、二人に自分の商売を手伝わせてバイト代を払いましたので、どうにか巽たちは生きていくことができました。
商売というのは、絵馬を売ることです。ここ薬師院村は、薬師如来と、十二支になぞらえた十二神将の像がおさめられた瑠璃光山薬師院という寺院への参拝客が落とす金で経済が回っているのでした。自分の干支と同じ絵馬を寺に供えるのがここの慣習でしたから、絵馬を売る仕事が成り立つというわけです。
久里平は年老いて体が弱くなっていましたから、家のことや店のことは、巽と於兎子に任せきりになっていきました。巽たちは性格が意地汚く、ときどき店のレジから金をちょろまかして小遣いの足しにしていましたが、久里平はそんなことに気づかず、二人を信頼しつづけました。久里平は、自分の死期がいよいよ迫ったことを知ると、公証人を呼んで、巽を自分の養子に指定すると、そのまま死にました。
巽と於兎子は、恩人の葬式を(お金をケチって)いいかげんに行いました。そして久里平の財産をそっくり引き継ぐと、それを好きに使って、安楽な暮らしをはじめたのです。
とはいえ、金が尽きないように、絵馬を売る仕事は続けます。今まで久里平は、京の絵師に絵馬を描かせてこれを仕入れ、売っていました。しかし巽はひとつのアイデアを思いつきます。
巽「これくらい、自分でも描けるんじゃね?」
巽は力仕事は苦手でしたが、手先はそこそこ器用でした。まあまあそれらしい絵馬が自力でも作れることが分かりましたから、そこからは商売の利益を劇的に上げることができました。まあ、儲けはみんな酒代に消えますから、貯金はできませんでしたが。
そんな暮らしをエンジョイしていた巽に、異変が訪れます。ひどい頭痛に悩まされて顔中に吹き出物ができ、そこから膿が流れて、その膿が目に入って失明してしまったのです。
当然、それ以来絵馬をつくることはできなくなり、絵馬の仕事の大部分は別の業者に取られてしまいました。
ふたたび貧困生活に入ってしまった巽と於兎子は、今までのいいかげんな生活態度を猛烈に反省しました。
巽「思えば、オレはひどく極道な生活をしていた。お前(於兎子)を別な男から盗み、そして恩人である久里平オヤジの供養だってロクに行ってこなかった。こんな境遇に落ちるのは当たり前だった。オレは今日から心を入れ替える。もう酒は飲まない。二度とお前と共寝もしないし、オヤジの墓参りも欠かさない」
於兎子「おお、アンタ」
こうして、二人は義父の墓を掃除し、百万回の念仏を唱え、薬師院の十二神将ひとつひとつを拝んで罪を懺悔しつづけました。
こんな生活を四年間ほど続けていると、村人達からは、この二人は偉い信心家だと尊敬されるようになりました。そしてついに、二人の懺悔が天にとどいたのか、巽はふたたび目が見えるようになりました。そして、細々とながら、再び絵馬を描いて売るという商売ができるようになったのです。
このころは借金がたまっており、絵馬の仕事だけでなく、於兎子もクリーニング屋のバイトに出てやっと生活が回るという有様でした。しかし、巽の画術は、ブランクがあったくせに不思議と以前より巧くなっており、店の評判も日に日に上がっていきました。二人は将来が明るく思え、幸せでした。
ある秋の日、巽の店に、一人の美しい少年が訪れました。
巽「どうしました。絵馬がご入り用ですか」
少年「うん、十二神将の中でも、私は特に虎童子に願をかけたいと思っているんです。あなたが絵の腕がいいと聞いたので、その絵を描いてもらうために来ました。大きな絵馬がいいです」
巽「はあ、なるほど。今ウチにある虎は、これですよ(商品棚から絵馬を取り出す)」
少年「うん、なかなかの腕ですね。でも、もうちょっと上手いと、もっといいのですが。日本には虎がいませんから、仕方がないとも言えるんですが」
巽「どうしたらいいでしょう」
少年「絵のお手本を持っていますから、貸してあげます。これを研究して、虎の絵が上手になってください」
少年は持ってきたフロシキを解いて、一幅の掛け軸を取り出しました。中身は、今にも襲いかかろうとしている、迫力満点の虎の絵です。
巽「こ、これは?」
少年「伝説の神絵師、巨勢金岡の描いたものです。外国から買った虎を、檻の中に閉じ込めたまま棒でいじめながら、それが怒り狂った様子を観察し、ついに描き上げられたものと言い伝えられています」
巽「どうしてこんなものが、あなたの手に」
少年「京の仁和寺の所蔵だったものが、最近の戦乱により、世に散逸したのです。たまたまこれが私の寺に受け継がれたと聞いています」
巽「すさまじいほどのこの虎の絵ですが… 瞳が描かれていないのはどういうことです」
少年「巨勢金岡が描いたものは、あまりにリアルに出来ているせいで、本物として絵を飛び出してしまうことがあるのです。虎が飛び出すのでは大変ですから、画家はあえて瞳を描かなかったのですって。ちなみに、この絵のモデルになった虎は、この絵が完成した瞬間に、魂をこちらの絵の方に取られて死んでしまったそうです。いよいよ、これに瞳を描き入れるなんてことは恐ろしくて考えられないですね」
巽「な、なるほど…」
少年「では、これを手本として、しばらく絵の練習をしてくださいね。時々見に来て、進行中の絵のアドバイスをしてあげます」
少年は去りました。巽はそれ以来、この絵をモデルに一心不乱に練習しました。於兎子がバイトに出ているくらいのタイミングに、ときどき例の少年が訪ねてきて、絵の極意をすこしづつ教えてくれましたので、短期間のうちに非常に上達しました。
少年「なかなか上手くなってきました。十二支とも、今は段違いに絵がレベルアップしましたね。pixivにアップしてもランクインできること間違いなしです。じゃあいよいよ、注文の虎の絵馬を描いてもらいましょう。15日後に来ますから、どうかそれまでによろしく」
巽「はい。今までのご指導、ありがとうございました」
少年「そうそう、あなたがこれから描く絵は、どれも非常に高価な値がつくことでしょう。しかし、この仕事ののちは、動物の絵は描かずに、仏の絵だけを描く仕事をなさい。人は、描いた絵に自分の精神が近づいていくものなのです。仏の絵を描くことで、極楽浄土に生まれ変わることができるでしょう」
巽「はい、そうします(涙)」
巽は、感動的な思いで、去っていく少年を見送りました。そのとき、玄関から、於兎子が憤怒の表情で現れました。
巽「おかえり。ど、どうした」
於兎子「私がバイトしている間に、あんな少年を連れ込んで、エロいことしてたのね」
巽「ちょっとまて、なにを誤解している。あれは絵の」
於兎子「お黙りなさい。今までに何度も私はあの少年がここから出て行くのを目撃してるのよ。私との共寝を絶っておいて、自分だけは… ええい、悔しいったらない。死んでやる!」
於兎子が包丁をつかんで自分のノドに刺そうとするのを、巽は必死に止めました。於兎子は相当に暴れますから、家の中がめちゃくちゃになりました。
このとき、誰かが飛び込んできて二人を押しとどめ、於兎子が持っていた刃物も奪って投げ捨てました。隣に住んでいる、木こりの樵六です。
樵六「およしなせえ、何があったか私に聞かせてごらんなさい」
二人はやや落ち着きを取り戻し、それぞれの言い分を樵六に語りました。
巽「これこれ、こういうことがあって… あの少年は、たぶん十二神将の虎童子の化身なんだ。それが明らかになるまでは於兎子に告げまいと思っていたのに、ひどい早とちりをされた」
於兎子「ウソばっかり。そんな話ならすぐに私にも教えてくれたはずだわ。ひどい言い訳よ」
樵六は、これらの言い分をニヤニヤと聞いていました。
樵六「ここらへんにはなあ、この季節になると、出るんだよ。キツネがよ。巽どの、冷静に考えて、木彫りの十二神将が、少年に化けてアンタの目の前に現れてくれるという心当たりがあるかい。わざわざ、アンタに?」
巽「う、言われてみれば…」
樵六「化かされたんだよ。そう考える方が自然だよ」
巽「…」
巽は、そうかもしれないと思いました。神絵師だの、ランクインだのといった甘言に舞い上がっていたかもしれない。
於兎子「しかし、それならそれで、私はどうしたらいいのよ。勘違いだろうが何だろうが、この人は私をずっと騙してたのよ。それの恨みは消えないわ。もう信じられない」
樵六「それも、別に難しい話じゃありません」
於兎子「?」
樵六「結局は、あなたがたの生活に無理があったんでさあ。酒も飲まない、共寝もしない。二人の仲がギスギスして当然なんです」
二人は、そうかもしれないと思いました。
樵六「生活には、うるおいがちょっとくらいはなくちゃならない。どうだいお二人、この意味がわかるだろ。あんまりストイックな生活も、考えもんだ。なあお二人。仲良くしなよ…」
二人は、今まで絶っていたことを、これからちょっとくらいはやってみようかと思いました。すると、急にワクワクした気持ちになりました。
樵六「フ、フ、フ」
巽「ありがとう、樵六さん。私たちは仲直りできそうです」
樵六「それはよかった。ついでに、あんた達を化かしたそのキツネ… ワシが退治してやるよ。家には猟銃がある。あんな迷惑なもんは、殺してしまうべきだ」