142. もうちょっとで神絵師だったのに
■もうちょっとで神絵師だったのに
巽と於兎子は、数年来行ってきた厳しい信仰生活を、木こりの樵六にそそのかされて、つい少しだけ緩めてしまいました。その晩、どんな「うるおいある生活」が展開されたのかは、ご想像にお任せします。
翌日、於兎子が、仲直りのきっかけを作ってくれた樵六に、酒やゴチソウを持ってお礼を言いに行きました。
樵六「おやおや、そんなに気を遣うなよ。そもそもオレは、絵馬の材料を買ってもらってるお得意さんに、ちょっと恩返しをしただけなんだからな」
於兎子「遠慮しないで。あと、今日訪ねたのは、もうひとつお願いがあって…」
樵六「分かってるよ。例の『キツネ』のことだろう? 木こり稼業ってのは、山の妖怪を脅かすために、必ず猟銃を持ってるものなんだ。オレがそれで撃ち殺してやる。明日からちょっと早めに仕事を終わって、あんたん家の近くで待ち伏せててやるよ」
於兎子「それは頼もしいのだけど… もし、あの少年が、実はキツネじゃなかったら? うっかり間違って撃ったら、殺人罪だわ」
樵六「大丈夫、そういうのは必ず見分けがつけられるもんだ」
於兎子「ならいいのだけど…」
この後、巽と於兎子は、すっかり自堕落な生活に戻ってしまいました。「少しだけ」信心の気を抜こう、という了簡が、リバウンドを招いてしまったのですね。二人は、仕事もいいかげんに行い、義父の供養もすっぽかし、昼夜を問わず淫酒にふけるようになりました。借金がまた増えていきました。
半月ほどして、於兎子のバイト先から、とっとと仕事に来ないか、という怒りのメッセージが伝えられました。すっかりサボっていたのです。於兎子は、例の少年が来るのを防ぎたくて今まで家から出なかったのですが、あまりに強い催促だったので、仕方なくこの日はバイトに出ることにしました。
しかし、仕事先に行く前に樵六の家に寄って、「私は仕事にいかなくてはいけないの。お願い、今日はずっと見張っていてくれないかしら」と頼みました。樵六は快諾しました。
巽は、こんな約束が二人の間に交わされていることを知りません。別にしたいこともないので、一日、ボーッと店先で頬杖をついていました。
夕方ごろ、例の少年が久しぶりに訪ねてきました。「やあご主人。虎の絵はできましたか。今日が約束の日ですが」
巽はすっかり慌てました。「え… ええと。いやすまない、実は昨日までひどい風邪を引いていたんだ。それで… まだ仕事には取りかかっていない」
少年は、何かを見透かした表情になりました。「まあ、そんなところでしょう。私は仏に遣わされて、あなたの信心を試しに来たのです。けっこう素質はあるように見えたんですが… どうやら、本性までは変われなかったようですね。まあいいや、これ以上言うことはありません。あなたへのチャンスは、これでおしまいってことです。じゃね」
巽は一言も答えることができません。すっかり恥じ入り、かつ恐れて、汗びっしょりでうつむいているだけです。
少年は、家から離れて、どこかに歩いて去って行こうとしました。そこを、待ち伏せていた樵六が、構えていた猟銃で、ダン、と撃ち抜きました。少年は、あっと叫ぶ間もなく、夕日のなか、身をのけぞらせて倒れました。
樵六「手応えあった」
死んだかどうか確認するために、樵六は獲物のそばに駆け寄り、そして驚愕しました。鼻と口から血をふいて死んでいるのは、バイト先からちょうど家に帰ってきた於兎子だったのです。
樵六「(腰を抜かす)ま、ま、間違えた。こんなつもりでは」
銃声に驚いて同じ場所に駆けつけた巽は、すこしの間、何が起こったのか理解できませんでした。「これは何だ。どうしてこんなことになった」
樵六が「間違えたんだ。許してくれ」と手を合わせるのを見ると、体の奥から憎しみが湧いてきて抑えがきかず、巽は彼を思いきり蹴飛ばしました。樵六は、痛みにうめきながらも、涙声で許しを請いつづけます。巽はそばにおちていた猟銃をつかみ上げると、力任せに相手の頭上に振り下ろしました。
二人分の死体を見下ろし、血にまみれた猟銃を握りしめながら、巽は我に返りました。「…オレはなんということをした」
すこし冷静に考えれば、樵六が「キツネ」を退治しようとして、誤って於兎子を撃ってしまったのだと容易に推測できました。その上、巽が殴り殺すまでもなく、お上に訴えれば樵六は死罪になったはずなのです。
巽「このままでは、オレが罪に問われることになる」
幸い、まだこの現場は誰にも見られていません。樵六は一人暮らしです。
巽「今なら逃げられる。それしかない」
巽は、フロシキに持ち物をくるんで、夜逃げの準備をしました。ほとんど財産らしいものは残っていませんが、巨勢金岡の虎の掛け軸だけは忘れるわけにいきません。
巽「あとは、カネがいるな… 毒を食らわば皿までだ」
巽は樵六の家を漁って、有り金をかきあつめました。そして、「樵六と於兎子が浮気していたので殺してしまった」というウソの書き置きを部屋の中に残すと、夜の闇の中をかけて去って行きました。
巽は追跡を避けるために細い道を選んで逃げ続け、やがて数日後、浪速の町に着きました。ここでしばらく宿に留まって時間をすごし、髪を伸ばして、名前を竹林巽風と改めました。
カネが尽きたので、「絵を描いて売ろう」と思いつき、世界堂で屏風絵入門セットを買いそろえました。得意な虎の絵をさっそくそれに描いてみたのですが…
巽風「あれっ、すっかりコツを忘れている。そんなバカな。描けない!」
虎だけでなく、十二支のどれひとつとして満足に描けません。無理に手を動かしてみても、みんな、クマムシか何かのような変なものになってしまいます。画力を神にすっかり没収されてしまったのでしょうか。
巽風「あれだけ上達したおれの絵の腕は、やっぱりキツネにだまされた幻だったのか? もしや、あの掛け軸の絵も、消えてしまっているのでは…」
そう考えて、持ってきた掛け軸を開いてみると、これだけはもとのままでした。瞳のない虎が、恐ろしい表情とポーズで見る者に襲いかかろうとしており、あいかわらずの迫力です。
巽風「これだけは無事か。ならばもう、これを売ってカネに換えるしかない」
彼は宿の主人に、いい画商はいないかと相談しました。主人「昔とくらべて、ここはさびれてしまったからなあ。目利きのできる画商なんて、そうはいないぞ。第一、その絵の虎には瞳がない。未完成品ではロクな値がつかないんじゃないのか」
巽風「じゃあ、これに瞳を描き入れて完成させれば、売れるのか」
巽風は、いっそこの絵に瞳を描き入れようかと思いました。しかし、「この絵には決して瞳を入れてはいけない」という恐ろしい戒めがあることを思いだし、どうしても思い切ることができないのでした。
さて、たまたま同じ宿に、京の骨董屋である、禄斎屋余市という男が滞在していました。巽風と主人の会話を気にして、横からのぞき見ます。
余市「おい、これは、巨勢金岡の、無瞳子の虎ではないか。とんでもない宝だぞ」
巽風「はあ」
余市「私は実は、管領どの(政元)の家老の依頼をうけて、古い名画をもとめて旅しているのだ。これにまさる発見はない。たのむ、売ってくれ。一緒に京に来てくれ」
巽風「そ、そうですかあ。やった、あなたがいてラッキーだった」
さっそく二人はは宿を引き払って京に行き、余市は香西復六に面会のアポをとりました。「名画『無瞳子の虎』を見つけてきた」というのがその用事です。
そのころ、細川政元は、養女の雪吹が冬の寒さで体調を崩してしまっていることに心を痛めていました。徳用を呼んで、祈祷の力でなんとかせよと命じてみるのですが、そもそもこのニセ坊主にそんな力はないので、祈るポーズだけはしてみますが、どうしようもありません。
徳用「これは祈祷でなんとかなる種類のものではない。姫の病気のもとは、私には分かる気がしますぞ」
政元「ほう。原因はなんなんだ」
徳用「これは、犬江親兵衛への恋の病です。あいつはやはり、退けるべき男です」
政元「バカが。適当なことを言うな! もう帰れ」
徳用は、なにかにつけて親兵衛の悪口に持って行きたいのですが、政元はもうこのテの話には乗ってくれません。むしろ、親兵衛を悪く言うなと怒られているばかりです。
徳用「(ちくしょう…)」
それはともかく、政元は、骨董屋の余市が、瞳のない虎の絵を売りにきたという報告を受けて、それにも興味を持っていました。これについて、親兵衛の意見を聞きたく思い、ちょうどこの日、呼んでいたのです。
親兵衛「お呼びですか、細川どの」
政元「おお犬江どの。突然だが、お主は、絵が紙の上から飛び出す、ということを信じるか」
親兵衛「は…」
政元「東山殿(足利義教)が古今の名画を集めておってな。ちょうどこの間、巨勢金岡が描いた虎の絵を売りにきた男がいるのだ。なんでも、瞳を描き入れると生きて飛び出すから、わざと瞳を描かないままなのだと」
親兵衛「なるほど」
政元「わたしには、そんな話は信じられん。せいぜい、絵の値段をつり上げるための作り話ではないかと踏んでいる」
親兵衛「ふーむ。中国の歴史書には、そんな例がいくつかありますな。竜が飛び出したとか、美人が飛び出したとか。これだけ証言があるのなら、必ずしも無いとは言い切れないかと。もっとも、怪力乱心を語らず、と申します。人智の及ばぬ世界のことですから、何事も断言はできませんな」
政元「ふむ。お主の意見はためになるな。しかし、私は今回の話こそ、それを見破ってやるチャンスだと考えておる。ま、あとで話を聞かせてあげるよ」
親兵衛「ははっ…」