143. とびだす絵本、京を騒がす
■とびだす絵本、京を騒がす
細川政元は、親兵衛が帰ったあと、すぐに香西復六を呼んで、例の虎の絵を売りに来た巽風を呼べ、と命じました。
翌日、彼を紹介した骨董屋の余市とともに、巽風がおそるおそる屋敷まで見参に来ました。ものものしい警護に囲まれて、すっかりビビっています。
政元「さっそく、巨勢金岡が描いたという『無瞳子の虎』とやらを見せよ」
巽風「は、ははっ」
政元「（吊させて）なるほど。見事なできばえだが、たしかに瞳がないな。この絵について、決して瞳を描き入れてはならぬという言い伝えがあるそうだな。虎が飛び出すから、とか」
巽風「はい」
政元「私にはそんな話は信じられん。どうせ、絵の価値をつり上げるための作り話なのだろう。巽風とやら、たった今、この絵に瞳を描き入れよ」
巽風「えっ！？」
政元「このままでは絵は未完成だ。東山殿にさしあげるには不十分」
巽風「い、いやしかし…」
政元「なんだ、できんのか。お前だって絵師なのだろう」
巽風「絶対に瞳を入れてはいけない、という教えなのです。私の師匠からもきつく戒められています。どうかご容赦を。どうしてもと仰せなら、別の絵師にお任せしては…」
政元「ここの警護を見よ。たとえ、万が一、本当に虎が出てきたとしても、この場で捕らえることができる。妖術対策に、樽いっぱいの汚物も準備してある。いいから瞳を描け。これでも断るなら、牢屋にほうりこんでくれるぞ」
家臣「ほら、管領どのもこうおっしゃる。虎が出てくれば我々が捕まえるし、虎が出てこなくたって別にお前の責任ではない。安心して、言われたとおりにしろ」
巽風の目の前に、画材が並べられました。巽風は、どうしても断れないと観念すると、「ではやってみましょう」と震える声で答え、手元の裏紙に、何度か瞳の絵を練習してみました。
巽風「おや、描けるようになっている…」
画力がまったくゼロになっていたはずなのに、なぜか虎の目だけはまだ描けるようです。巽風はこれに勇気を得て、つるされた金岡の絵に、サッと目を描き足しました。
完成した虎の絵は、絵を見るものを獰猛に睨み返し、身の毛がよだつような迫力を発散しました。見る者全員、体中にトリハダがたつのを感じます。巽風は、自分の腕がもたらした効果にちょっと得意になりました。
そのとき、どこからともなく一陣の風が吹き、掛け軸をヒラリとひらめかせました。次の瞬間、絵の前に巨大な虎が出現しました。それは山を駆け下りるかのような勢いで突然走り出し、巽風の首に食いついて、やすやすと噛みちぎりました。首は縁側に転げ落ち、胴体は仰向けに倒れて血がほとばしりました。
復六「も、ものども、出よ！」
種子嶋中太が銃で撃ち、紀内鬼平五は石を投げつけました。しかし全く虎には効きません。妖術除けの汚物をぶっかけても、この虎は妖術で現れたのではありませんから、これも意味がありませんでした。警護の兵たちが次々と噛み殺されていきます。虎は人々をぞんぶんに蹴散らすと、ものすごい声で一声吠え、巽風の首をくわえて塀を飛び越えて去りました。
その場の全員、虎が去ったあともしばらく生きた心地がしませんでした。
政元「…いかん、虎が町に出ては危険だ。すぐに部隊を組み、虎を探して退治してこい。ケガ人は病院に運べ。急げ！」
虎狩り部隊がいくつも編制され、それから数日、京の町中を捜索しましたが、ちっとも見つかりません。種子嶋の隊が、洛外の申明亭のあたりでやっと手がかりを見つけました。
人だかりがしているので、何かと思って見に行くと、そこには巽風の首が台の上にさらされているのです。
種子嶋「なんだ、誰がこんなことをしたのだ。虎がここに置いていったのか」
そばにひとりの旅人がいて、「あれは…」とつぶやいています。種子嶋はそれに気づいて、何かを知っているのかと尋ねました。
旅人「私は丹波の薬師院村から彼を追ってきたのですよ。彼は殺人の容疑者でして。こんなところで見つけるとは…」
種子嶋「何っ。もっと詳しく」
旅人「彼は今年の秋、隣人を殺し、妻に濡れ衣を着せて、村から逃亡したのです。ウソの書き置きで捜査を攪乱しようとしたようですが、あのあと、巫術者が、妻であった於兎子の霊を呼び出して真相を聞いたので、今では彼の悪事はすべて明らかです」
種子嶋「ほ、ほう。すると、こいつは、天罰として虎に食い殺されたということか。いやなに、虎に目を描かせたところ、こうこう、こういうことがおこってな」
旅人「ははあ、おそろしいことですな」
種子嶋「ついてはだ。お主、政元さまの屋敷まで来て、もういちど今の証言をしてくれ」
旅人「えっ、事件に巻き込まれるのはイヤですよ」
種子嶋「そんなことにはならん。ほら、早く！」
種子嶋が手下にこの旅人を引っ張らせようとすると、いつの間にか、彼の姿がどこにもいなくなっていました。
種子嶋「あれっ、消えた！？」
このことは政元に報告され、話のウラをとるために、さっそく丹波に調査が派遣されました。そこでいろいろな関係者に話を聞くと、たしかにあの旅人の言ったことはすべて本当でした。旅人は、なにか神霊が姿をかえて現れたものだったのでしょうか。
その後数日、虎を目撃したという報告はあがってきません。しかし、相変わらず、元の絵の掛け軸は、虎が抜けて真っ白なままです。申明亭で旅人と種子嶋が交わした会話は今では京中のウワサとなっており、不安が住人の間に広がっているようです。
次の目撃報告は、白川山の山中からあがりました。狩人たちが集められて、山狩りが行われました。絵から出てきたのなら、もしかして火に弱いのでは、という推測から、今回は主に火を多く使った作戦が練られましたが、これもまたまったくの見当外れで、たくさんの狩人が虎に殺されるか、手足を失う大ケガをしました。
そろそろ京では、虎への恐怖から人々がパニックにおちいっていました。花の御所や内裏では厳重な警戒態勢が敷かれましたが、だからといって虎を必ず撃退できるという自信もありません。将軍は政元に、「お前のきまぐれから起こったことだ、お前が必ず事態を収拾せよ」ときつく命令しました。このまま何もできなければ、政元自身の立場も危険になってきそうな段階です。
政元「くそっ… 元はといえば、あの絵を持ってきた、余市と巽風のせいだ」
巽風はもう罰しようがありませんが、余市はまだ、宿にこもって寝込んでいました。それを捕らえて引きずり出すと、政元は、さっそく彼のクビをはねさせました。…だからといって、何が変わるわけでもないですが。
世間では、「政治が悪くなると、虎が出てくるというではないか。これを解決するには、仁の心をもった善政を敷くことさ」という意見がもっぱらでしたが…
政元「そんな回りくどいことをしていられるか。今すぐ、あの虎をなんとかせねばいかん。私の持つ精鋭たちをすべて投入してでも、あれを倒してみせる」