148. グッバイ・マイ・ラブ
■グッバイ・マイ・ラブ
京から木曽路に出るには、辛崎・阪本の関所を通らなくてはいけません。さらにこの近くには大津の関もあって、三つはトライアングルのような配置になっています。辛崎でトラブルに巻き込まれた親兵衛は、三つの関からそれぞれ押し寄せる兵たち(合計300人くらい)と戦う羽目になりました。
このままではさすがの親兵衛も苦戦を強いられるところでしたが… 突然、阪本の関の方向で火があがり、そこで動揺した兵は大津に逃げようとして、大津からの軍とぶつかって混乱が起こり、結局は敵側の総崩れになってしまいました。
この火を起こしたのは誰だったのでしょう。実は、代四郎と紀二六があらかじめ先に帰らせておいた、7人ほどの雑兵たちの機転だったのです。
彼らは代四郎から手形(京に来たばかりのときに香西復六から受け取っていたやつですね)を預かり、先に関所を通って、その先で皆を待つという命令を受けていました。しかし、関所の営業時間が短かったので、辛崎と阪本の間に一晩閉じ込められてしまった格好だったのです。
仕方なく、関所の近くで野宿していたのですが… 明け方ごろ、突然関所の門が開いて、兵たちがものものしく辛崎の方向に走り始めたのです。「犬江を逃すな」と、班長たちが叫んでいるのも聞こえました。
雑兵A「犬江って… 親兵衛さまのことか」
雑兵B「きっとなにかトラブルがあったんだ。我々も助けに行かなくちゃ」
雑兵C「しかし、これっぽっちの人数では…」
そこで、ひとつの案を講じたのです。関所の門の近くは、他の通行希望者が詰めかけようとしてかなり混乱していたので、この雑兵もドサクサ紛れにここに飛び込み、そして中に火をつけたのです。比叡から吹き下ろす風のおかげで、関所全体がすぐに火に包まれ始めました。
関所の兵たち「ウワー、火事だ」
この火事に驚いて、通行希望者たちが辛崎の方向に一斉に逃げ出しました。関所の兵たちは少し先にいましたが、彼らは煙の向こうから大軍が押し寄せてくるのだと誤解して、大混乱して逃げました。ともかく、阪本で起こった異変の正体はこんな感じだったってことです。
さて、こういった助けもあって、親兵衛は迫る兵たちを思う存分に蹴散らし、逃げる兵たちを追って走り、そして大津の関所をやすやすと突破せんとしました。
大杖入道(大津の関守)「こら待て! 行かしてたまるか」
親兵衛「いくらでも相手になるぞ」
さらにひと悶着あろうかというこの状況に、「お前ら待て」と大喝した者があります。「やめよやめよ! この場に、細川政元公、みずから来ましたり! 控えよッ」
関守たち「げっ! どうして管領みずから?」
やがて本当に、狩りの衣装に身をつつんだ政元が、騎馬の姿で現れました。驚くべきことに、その横には代四郎と紀二六、そして彼らとともにいた5人の雑兵もいます。
この場には、親兵衛に追い立てられてきた、老松と根古下もいます。ですから、三つの関所の関守がみんな集合しているわけですが…
政元「お前ら、犬江どのを捕らえようとしたというのか。このアホウども!」
老松「お、畏れながら… この犬江親兵衛、虎を倒したという証拠を示しもせず、しかも、虎の死体を確認にいくと、それも見つからないという状況で… これでは逮捕するほかありませぬ」
根古下「しかも、何者かが私の守る関所に火を放ち、我々を混乱させました。たぶん犬江の仲間たちが攻めてきたのです。緊急事態です」
政元「敵など攻めてきておらんわ。一般人が逃げて走っておっただけではないか。どうせ火の不始末か何かが原因だろう。で、虎の死体を確認できなかっただと? 私はさっき、ちゃんと見てきたぞ。誰に確認させたか知らんが、それだけで一方的に犬江の罪と決めつけるとは何事だ」
老松・根古下「う…」
政元「もういい、お前らとっとと戻らんか。あとでしかるべき処分があると心得よ」
政元はこの二人を追い払って、あらためて親兵衛のほうを向きました。「部下がアホなことをして済まなかったな。許してくれ」
親兵衛「いえ… 単に誤解からしたことと思いますので、あの人たちへの処分には手心を加えてあげてください」
政元「フム…」
政元は馬を降りると、手下が準備した椅子を親兵衛に勧め、自分も座りました。親兵衛の後ろには、代四郎・紀二六・雑兵たちが整然と並んで控えました。
政元「さきにも言ったとおり、虎の死体をさっきこの目で確認した。その礼を言いたくて追いかけてきたのだ」
親兵衛「それは恐縮です。さきほどはお騒がせしました。関所でトラブルがございましたが、ひとりも殺してはおりません。ご理解くださいませ」
政元「うむ、その心構え、さすがと言うほかない。さて、私がここまで来たいきさつについて、少し長いが語らせてもらいたい…」
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昨晩は、いろいろな事件が同時に起こった。五虎の連中は、勝手な内輪モメから、(秋篠以外)みんな争い合って死んでしまった。しかもそれにとどめを刺したのは、彼らの部下たちであった。そいつらを含め、生きていたものは、みんな牢屋に放り込んであるよ。
さらに同じ晩、私の屋敷から、雪吹姫がさらわれた。二人の女房が首を絞め殺されておった。そのころ同時にいなくなった徳用と堅削に容疑がかかった。雪吹は私の養女にして足利義視どのの落とし胤であるから、何かあったらと気が気ではなかったわ。
姫をさがして、私自身もあてずっぽうで捜索に加わったのだが、三条大橋のあたりで、偶然、ここにいる姥雪代四郎たちが姫を屋敷に運んでいるところを見つけた。そこで事情を聞くと、白川山の荒れ堂で救出されたのだという。さらに、誘拐犯とおぼしい徳用と堅削が虎にやられて重傷を負ったともいう。私は知らなかったが、あいつらは驚くほどのクソ野郎だったのだな。いかに私の見る目がなかったかということだ。
ああ、ところで、この日の夕方に、私が関東に放っていた諜報たちが戻ってきて、里見も結城もなんら謀反の意思を持っていないことを私に報告したよ。これも、徳用のウソ八百だったというわけだな。いろいろ言ったのは、みんなお主(親兵衛)への恨みからだったというわけだ。
さて、姫はそのまま屋敷に運ばせることにして、私自身はその荒れ堂を案内させて、徳用たちのありさまをこの目で確認し、その場にいた二人の雑兵から、あの悪僧どもが自白した内容を改めて聞かされた。
紀二六君はさらに先に行ったというから、私も追いかけてみることに決めた。ここまで来たからには、お主(親兵衛)が虎を首尾よく退治できたのかを知らねば帰れんと思ったのだ。
その道中、山の住人のひとりが私たちを見つけ、「犬江さまが虎を倒した」と我々に告げた。紀二六君に頼まれて、町まで報告に行く最中だったのだ。これを聞いた私も代四郎も喜んで、その村人に虎退治の現場を案内させた。
虎の死体をこの目で見たときには、本当に驚いたぞ。紀二六君がそこで見張っておったのは、仔牛のような大きさの虎であった。それが、両目を赤松の木に矢で縫い付けられて絶命しておった。また、頭の真ん中が陥没しておった。まさに神業、生半可な武芸のなせるわざではないわ。
虎の死体の片耳だけが切り取られておったのだが、この理由は紀二六君が私に説明してくれた。お主(親兵衛)が、あとで関所に証拠として見せるためだったのだな。
(ここで親兵衛、「はい、でもなくなっちゃったんですけどね」とあいづち)
こうして虎を確認しておると、部下のひとりが、虎の掛け軸をもってこの場に到着した。(私が道中で思いつき、命じておいたのだ。虎がもし退治されたなら、この掛け軸に変化が起こるだろうと予想してな)
さて、私は部下に命じて、この虎から矢を抜かせた。一番の力持ちがやっと抜くことができたほど深々と刺さっておった。そして、二本とも矢を抜いた瞬間、虎は消えてしまった。そして、掛け軸の入っていた箱がドシンと衝撃を受けた。掛け軸をひらいてみると、案の定、虎はそこに元のように戻っておったわ。目玉も真っ白に戻っておった。
いや、完全に元に戻ったように見えて、少しだけ違いがあった。耳に微妙な切れ目が入っておるのだ。まるで、耳だけ先に掛け軸に戻っていたかのようだった。
(親兵衛、「あ、そこに戻っていたんだ…」とあいづち)
お主はまだ遠くには行ってないと思い、そこから急いで追いかけてきたのだ。これほどの手柄に対して礼を言わずに帰してしまっては、私が恩知らずということになってしまう。
で… まあ、あとはさっきのとおりだ。何やらゴタゴタとしていて、「犬江親兵衛が関所破りを働いた」などと兵達が口々にわめいていたので、慌てて争いを止めに来たというわけさ。
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政元「ざっとこういうことだ。まあ、お主も見ていくがよい。これが例の掛け軸、巨勢金岡の手による、『無瞳子の虎』だ」
近習のひとりが、携えていた巻物をパッと開いて手近に木につるしました。確かに、瞳こそないまでも、生きて飛び出しかねないような見事な虎の絵です。親兵衛はこれをまじまじを見て感心しました。後ろの者たちも、横からのぞき見て「おおー」と感嘆の声をあげました。
親兵衛「ありがとうございました。ここまできてお言葉をくださった細川どのの真心に感じ入る次第です。虎を退治できたのは、私一人の力では到底なく、すべては今上皇帝と将軍のご聖徳、またわが主君・里見両殿の威徳のおかげです。また、ここにいる姥雪代四郎と直塚紀二六の働きは、なんなら私より大きかったくらいです。誇らしいことです」
政元「うん、お二人よ、よくやってくれた。将軍にもお二人の活躍は伝えておくぞ」
代四郎・紀二六「恐縮でございます」
親兵衛は、そろそろ暇を告げて別れようと思いました。「さて、あとは一刻も早く帰って、お使いを完了したいと存じます」
政元は、いよいよ別れの時がきたことを知り、少々つらくなりました。
政元「うむ。名残惜しい限りだが、もうここに留めておく理由もないからな」
そうして、腰に付けていた袋をとりはずすと、親兵衛に渡しました。
親兵衛「これは何でございますか」
政元「これは、朝廷の使者が持つと定められている、駅路の鈴である。日本中に12個しかないもので、本当に急用のとき以外は使われん。これを持つものは、どの関も無条件でフリーパスである。キツい関所の並ぶ東海道でさえ、全く問題ないはずだ。これを貸そう」
親兵衛「そのような貴重なものを、ありがとうございます!」
親兵衛はいよいよ出発しようと思いました。親兵衛「では、お別れでございます。どうぞ先に馬にお乗りください」
政元「いや、今回は、私事であるから、上下のけじめはいらぬ。同時に馬に乗ろうぞ。お主にどんな財宝を送っても受けとってもらえないことは分かっている。せめて、対等の礼をとることで私の真心を知ってもらいたいのだ」
親兵衛「…はい、承知しました!」
こうして二人は同時にそれぞれの馬に乗り、親兵衛たち一行は、政元たちが白川山の方向に去るのをゆっくり見送りました。