161. 人魚の膏油(あぶら)
■人魚の膏油
前回は五十子城の話でしたが、今回の場面は、小文吾と荘助が配置された下総の行徳のあたりです。ここは利根川を西にはさんで武蔵の国がすぐ近くですから、国府台と並んで、管領軍との戦いにおける最前線です。小文吾にとっては、故郷のすぐそばですからホームグラウンドですね。
里見軍は、川からすこし引いた塩浜に陣を張りました。ここまで進軍する途中、土地の義勇兵たちがたくさん参入してきて、正規軍の後方を固めてくれました。
さて、川の西岸には、もともと、国境を守るために敵がつくった柵がはりめぐらされています。ところどころが砦になっていて、当時の最新テクノロジーである大砲がそこに配備されています。おまけに、馬で渡ろうとしても失敗するように、水中に鎖が張り渡してあります。柵は大きくふたつあり、妙見嶋という中洲と、河の西岸にそれぞれ設置されてします。
小文吾「けっこう固い守りだな」
荘助「私たちの仕事は『防衛』なんだから、あれを無理に攻める必要はないけどね。敵が川を渡って攻めてきたらそれに対応しよう」
こういうわけで、11月の下旬に軍を配置したまま、12月までずっと静かに陣を保ち続けました。
さて、この軍に、麻呂復五郎重時も組み入れられていました。復五郎は、かつて義実を襲って失敗し、そのあとは安西出来介と一緒に素藤戦に参加した男です。出来介は素藤の暗殺に失敗して死にましたが、復五郎は負傷していたせいで、出来介と一緒に死ぬことができませんでした。
復五郎は、戦線が静かなうちは別にすることもなく、川べりの様子を見ながらそこらへんを歩き回っていました。湊村を通りかかったときに、復五郎はある鍛冶屋の看板に目をとめました。
復五郎「あの看板の紋… 麻呂の家紋に特徴が似ている」
鍛冶屋の中をのぞくと、50歳くらいの主人と、10代の少年が、カンカンと鍛冶仕事をしています。少年のほうは、真冬なのに諸肌をさらしており、非常によい体格です。
復五郎「ごめんくだされ。ここは刀は作っているかい」
主人「いやあ、先代のときは作っていたが、私はそんなに鍛冶がうまくなくてね。せいぜい包丁くらいまでだ」
復五郎「そうか。つかぬことを聞くが… ここは麻呂氏の親戚ではないだろうか。実は私がそうなのだが。復五郎重時という」
主人「おや、なんと… そうですとも、先代の名は丸屋太郎平。麻呂の庶流です。私はその弟子ですから家は違いますが、この子のほうは太郎平の息子ですよ。再太郎といいます」
復五郎「やはりそうだったのか。この子はよい体格だな」
主人「ええ、なかなか元気があり余っているようで、利根川で泳ぎまくったり、人にこっそり武芸まで教わっていたりするようです。冬でも川で泳ぐんですよ」
復五郎「冬の川に!? そんな馬鹿な。こごえてしまうぞ」
主人「この子は非常に体温が高いんです。また、昔、人魚のアブラを体に塗ったこともありますからなあ」
復五郎「人魚のアブラ?」
主人(名前は木瓜八といいます)は、「人魚のアブラ」について下のように説明をしました。
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ええ、この家が代々鍛冶屋をしているのも、そのアブラのおかげなのですよ。ずっと昔のここの祖先が、海で「人魚膏油」と書かれた樽を拾ったんです。どこの誰がなくしたものかは知りませんが。樽の中には、蝋のように凝り固まったアブラが詰まっていました。
しばらく使い道も分からず保存していたんですが、あるとき、旅の僧がこれの使い道を教えてくれました。これが正真正銘の人魚のアブラなら、これを灯火に使えば、昼のように明るくて風雨にも消えず、体じゅうの穴(目、鼻、口、耳、ヘソ、肛門)に塗れば冬の海でも平気で泳げるようになる。しかも、刀に塗れば鉄でも切ることができるというのです。(人魚の肉を食べると不老不死になるそうですが、さすがにアブラだけではこの効力はないそうです)
このアブラを使って、先代のご先祖は、鍛冶屋をはじめることにしたのですな。できた刀は鉄斫と呼ばれてよく売れたそうです。
しかしそのうちアブラの残りも少なくなったので、今ではビンにすこし残ったやつを私が使わずに保管してあるだけです。一昨年、この再太郎が勝手に体に塗って冬の利根川で本当に泳いでみせましたから、効き目は確かです。(勝手にアブラを使ったことについてはド叱りましたが)
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復五郎は不思議な話に感動しました。また、これを聞いている間にひとつの考えが浮かんできました。
復五郎「なあ主人。この子が麻呂の末裔であるというなら、ぜひ武士として立身出世させてみないか。私の養子にとらせてくれないだろうか」
主人「わ、わたしの子ではありませんので、どう判断してよいやら… どうだ再太郎」
再太郎は今までの話を黙って聞いていましたが、サッと座り直して手をつき、「やりたいです! どうかお願いします」と言いました。主人は再太郎がこんなに真剣な目をするのをはじめて見て驚き、これは運命の導きなのだろうと感じました。
復五郎「ありがとうご主人。また、よろしくな再太郎。さっそくだが、我らには手柄をたてる手がかりがあるのだ。川の向こうに敵がいて、馬を渡さないように鎖が張られている。我々はアブラを体と刀に塗って、冬の利根川を泳ぎ、この鎖を斬ろうと思うのだ。ご主人よ、残ったアブラをいただけるだろうか」
主人「もちろんです! また、この店には、代々受け継がれている両刀があるのだが、これを再太郎に持たせよう。再太郎よ、この刀に恥じないりっぱな武士になるのだぞ」
再太郎「はい!」
主人は、別れの悲しみと、再太郎の門出の喜びで涙を流しました。
このやりとりを、店の外でこっそり聞いていた少年がいます。「麻呂復五郎さま!」
復五郎「えっ、お前はだれだ」
少年「安西出来介景次の息子、成乃介といいます。復五郎さまを探しておりました」
復五郎「出来介の! そ、そういえば顔が似ている」
成乃介「先日、父の霊が私の枕元に立ってこう言ったのです。『里見に大敵が迫っている。お前は行徳に走って同志・復五郎の下につき、里見のために戦うのだ』と」
復五郎「そうなのか… 出来介が…」
成乃介「お願いです、私もあなたの養子としてください! そして一緒に戦わせてください!」
復五郎は感激しました。今まで妻も子もなく生きてきたのが、いきなり二人の少年に親と呼ばれる身分になってしまったからです。
復五郎「よし、お前らのことは、塩浜の陣にいる犬田どのと犬川どのにお願いしてなんとかしてもらおう。すぐに陣に戻ろう」
小文吾と荘助は、戻ってきた復五郎からこれらの話を聞かされ、そして二人の少年に会い、非常に強く感心しました。
小文吾「それはよかったなあ。復五郎にあと継ぎができたというわけだ。荒磯南弥六が増松を養子にすることを認められたみたいに、今の話もきっと殿は歓迎してくれる。よし、鎧を支給するから、復五郎といっしょにがんばってくれ」
再太郎・成乃介「はい!」
荘助「この機会だから、二人ともちゃんと名乗りのための名前を持ちなさい。成乃介は、安西景次の名をとって、安西就介景重。再太郎のほうは、麻呂再太郎信重だ。どちらにも「重」がついているのは、もちろん、復五郎重時からもらっているのだ」
復五郎「あ… ありがとうございます!(涙)」
さて、ひととおり喜びを述べ終わったあとで、復五郎は、偶然手に入れた人魚のアブラというアイテムの効力のことを小文吾たちに説明しました。
復五郎「このアブラはもう残りが少なく、せいぜい三人の体と刀に塗るくらいしか残っていません。我々『重トリオ』がこれを使い、川の向こうに泳ぎ着き、鎖を切って、柵には火をつけてしまおうと思うのです。そうして砦を破っておけば、あとで来るであろう管領軍の出鼻をくじけ、戦が有利になります」
荘助「うーん。我々の仕事は『専守防衛』なんだけど… 確かに、あらかじめ向こうの柵を破っておくのは役に立つ。やってもらおうかな…」
復五郎「ぜひ!」
荘助「でも、向こうには弓矢の部隊もいるし、あの大砲ってやつは厄介だよ。それらの攻撃にさらされたらさすがに危険だ。復五郎たちの作戦を実行する前に、敵の手を封じておくちょっとした小細工をしてみようか…」
荘助の考えた作戦は、二夜連続で行うものです。最初の夜はダミーの攻撃をしかけ、次の夜に本番の攻撃をするというのが基本アイデアです。
荘助「ワラ人形をいっぱい準備して、今晩はこれを向こう岸近くに漕ぎ寄せるんだ。漕ぎ手はずっと体をかがめているんだよ」
こうして、何十艘もの小舟にワラ人形をセットすると、真夜中にこれを敵の近くに漕ぎ寄せました。敵はあわてて矢をどんどん放ち、弾丸もボンボンと打ち込みました。それらはみんなワラ人形に刺さったりめり込んだりして、結果、里見軍は山ほどの矢を手に入れました。
登桐山八「あっはっは、敵はマヌケですね。ずいぶんたくさんの矢をこちらに献上してくれた。三国志でもこんなネタがありましたね。すごいです、犬川どのは」
荘助「うん、うまくいきましたね。ところで、この作戦を実際にやったのは、三国志の諸葛孔明ではなくて、唐の張巡って人だったらしいですよ。三国志演義は、昔の逸話を組み込んで脚色してあるところも多いんです」
登桐「そうなのですか。兵法どころか、教養までハンパない。まことに恐れ入ります…」
荘助「ちょっと、そんなこと言わないでください。もとは、信乃さんが貸してくれた本で勉強したんです。信乃さんのほうが上ですからね。そもそも、他の犬士に比べれば、私の教養なんて恥ずかしいかぎりなんですから」
小文吾「(少なくともオレよりはすごいと思うけどな)」
まあ、ウンチクは置いといて… 荘助の作戦の本質は、敵から矢をうばうことではありません。二日目の夜にも同じことをすれば、敵はもう矢玉を減らすことに凝りて、攻撃をしなくなるだろうと予想したのです。荘助「まあ、多分、ということであって、あまり過信はできないけどね」
さて、いよいよ本番の攻撃を決行するときが来ました。日付は12月4日の深夜近くです。家臣や兵たちはみな復五郎率いる「重トリオ」の幸運を祈っています。
復五郎「では行ってきます」
荘助・小文吾「うん。無理はするなよ。慌てるなよ」
復五郎、再太郎、そして就介は、重い武具をはずした軽装にになって(火をつけるためのマッチは、きつく袋を縛って腰にはさんでいます)、ビンに残ったアブラを念入りに体の穴と刀に塗りました。そうして川上のあたりからソロソロと水に入りました。驚くべきことに、厳寒の利根川は湯のように暖かく感じ、早い流れにも押し流されないようでした。三人は気配を隠しながら泳ぎ、まずは妙見嶋近くの浅瀬に上陸しました。
復五郎「よし、ここまでは順調だ。再太郎と就介は、ここの島の柵の鎖を切って、味方が通れるようにしておいてくれ。俺は川岸のほうの鎖を切り、柵に火をつける」
再太郎・就介「ラジャー、親父」
復五郎「親父か、いい響きだな… よし、おたがい無事でな」
復五郎は二人とわかれて川岸の方に泳いでいきました。二人は妙見嶋の柵に潜りながら近づき、そして張り巡らされた鎖に刀を振るいました。アブラの効果は実に劇的で、まるでツル草を刈るかのように、鉄の鎖がハラハラと千切れて水底に沈みました。
復五郎もまた、河岸の鎖を刀で切りました。こちらも、ほとんど豆腐を切るほどの手応えで、鎖はいとも簡単に切れてしまいました。
復五郎「本当にすごいアイテムだな。三人分しか残っていなかったのが残念でならん」
復五郎は、柵にたどりつくと、水門を見つけてそこから忍び込もうとしました。そのとき、ドンという音とともに一発の弾丸が中から放たれ… そして、復五郎は水の中に沈み、もう浮かんできませんでした。
この様子を再太郎は妙見嶋の近くから目撃しました。あわててさっきの浅瀬に戻り、同じくそこに戻ってきた就介に自分が見たものを伝えました。ふたりとも、悲しみに胸がつぶれ、どうしてよいか分からなくなりました。
味方の岸からは、小文吾と荘助たちをはじめとする船がどんどんと漕ぎ寄せてくる気配が感じられました。
再太郎「しっかりしろ就介。悲しんでいるわけにはいかん! 俺たちは、親父にかわって、なんとしても河原の柵に火を放たねばいかん。そうしなければ作戦は失敗して、味方は大敗することになる。命を捨ててでもやり遂げなくては!」