166. イノシシの恩返し
■イノシシの恩返し
(原作「第百六十五回の下」に対応)
犬飼現八は、機転とクソ度胸により、敵の戦車隊長斎藤盛実をとらえ、本陣に迫っていた40000人の兵を追い返すことができました。信乃は、現八にもしものことがないか心配で、自分と杉倉直元の隊を率いて、五十四田と長阪河の中間地点のあたりで待っていました。
現八「うまくいったぜ。ハッタリが効いて、敵は全軍逃げ帰った。こうこう、こういう風にやったんだ…」
直元「信じられない。一騎で敵軍すべてを気圧してしまうとは、なんという度胸だ。犬飼どのは全身が胆でできているんじゃないんですか」
信乃は現八に感心しつつも、若干意見があるようです。「なるほど、とても自分には真似のできない豪胆さです… しかし、犬飼どのはすこし失敗したと思います」
現八「そ、そうか?」
信乃「戦車から馬を外して連れてくることは可能だったと思います。もしも敵が戻ってきたら、それに火をつけて時間をかせげるんですからね。もうひとつ、橋を壊して帰ってきた件… 長阪河は小さい川ですから、橋がなくても、すぐに適当な橋をかけ直して渡ってくるでしょう。橋を壊すということは、敵に来てほしくないというメッセージを残してしまったのと同然なんです。ハッタリの効果が半減してしまいました」
現八「なるほど… もっとうまくやりようがあったか。ミスったなあ」
信乃「ええ。でも、せっかく時間がかせげたんです、今後のことを考えましょう。あの戦車はやっかいですね。それを避けるには籠城がよい戦法ですが… 御曹司の初陣が籠城というのは、ちょっとね」
現八「そうだな。俺たちが無理にこんなところに出て行ったのに、手ぶらで戻っていってヤッパリ籠城しましょう、というのは恥ずかしいな」
信乃「箭斫河のほとりに小高い砂利の丘があるんです。洪水のたびにたまる砂利を住民達が捨てつづけて出来上がったものなんですが、今は木も生えていますし、天然の要塞として使えます。敵の戦車も攻めてこられないでしょう。そこに陣を移しましょう」
信乃の意見にみなが賛成しました。さっそく荷物をその丘(文明の岡といいます)に運ばせました。しかし、妙に兵糧が少ないようです。
信乃「あれっ、兵糧はこれだけですか? 200俵しかないはずはない」
田税逸友が申し訳なさそうに答えます。「ええ、実は、野武士に襲われて、かなりの兵糧を失ってしまったんです…」
逸友はさらに詳しく事情を説明します。土地の野武士のリーダーが、管領軍に加わろうと考えて、その手土産にこちらの兵糧を奪おうとしたのでした。守りが手薄なタイミングをついて200人弱の勢力が襲撃し、船にタワラを積みまくって逃げていきました。逸友たちは、土地の百姓たちの助けを得て、襲撃犯をみな討ち取ったのですが…
逸友「敵の船は沈没して、兵糧はみんな水中に落ちてしまいました。1000と数百俵が失われました。百姓たちには、手伝ってくれたお礼として米を配りました。それで、残ったのが200俵です」
信乃「200俵では、戦える時間はせいぜい三日くらいかなあ」
現八「水中を探せば、たぶんいくらかは回収できるだろうが…」
信乃「その最中に敵が攻めてきては話になりませんね。城に兵糧の追加をお願いする手もありますが、御曹司に余計な心配をかけたくない。しかたない、あるだけの兵糧でがんばるまでです。敵を破れば、兵糧も奪えるでしょう」
信乃「あと、川岸に止めておく船は、もしものときの早船用に、2艘だけとします。逃げ道を断って背水の陣を敷くことで、兵士たちの気力は通常の100倍になるはずです…」
さてこちらは、管領軍の側です。現八が橋を壊したことから、顕定たちは、向こうはハッタリくらいしか手がない状態なのだと見抜いてしまいました。信乃の予想どおりですね。
それで翌日、ふたたび40000の軍で進軍し、やがて五十四田まで到着したのですが、里見軍はもうここを撤退して文明の岡に陣を移していました。しかし、そこでいろいろなウワサを仕入れ、敵は兵糧を多く失ってしまったらしいということが判明しました。
顕定「ハッハッハ、これはラッキーだ。敵は少ない食料を抱えて岡の上に退いたと。これなら、放っておくだけで勝手に日干しではないか。よし、敵のまわりを戦車隊で囲め。そこから出られなくしてやる」
こう言うと、軍に指示し、岡の三方向をすっかり囲んでしまいました。岡の正面には顕定の隊、右は成氏の隊、左は憲房です。(岡の後方は河なので、ここは囲めません。)
地形は信乃たちに有利ですから、敵が岡をのぼって押し寄せようとしても、弓と鉄砲で容易に撃退できます。しかし、顕定たちは、攻撃の手を休めずに、里見軍にプレッシャーをかけつづけました。麓には例の戦車をビッシリ並べ、夜中もかがり火を燃やしつづけます。
信乃「ここはさすがに地の利が大きいですね。防御力が非常に強い。しかし、兵糧の問題で、長期戦ができないというのがネックです。とにかくあの戦車をなんとかできれば、短期でも勝ち目が出てくるんですが…」
現八「火かな、こういうときは」
信乃「ええ。ここは火を使いたいところです。でも、たいまつを投げつけたって届かない。ここは火牛の戦法をとるべき場面ですね」
逸友・直元「なるほど、牛のツノにタイマツをくくりつけて敵に突入させればいいのか!」
みなが賛成し、この戦法が採用されました。しかしここには牛がいないので、逸友が国府台の城まで使いに行って、牛を集めて戻ってくることになりました。逸友は残しておいた早船をつかって、夜、こっそり岸から漕ぎだしていきました。その間、敵に感づかれないように、信乃たちはわざと大騒ぎしながら敵に突入するフリをし、敵の目をくらまして支援しました。
その夜のうちに逸友は城につき、義道と東辰相に事情を説明しました。「かくかくしかじか、こういうわけで、牛がたくさん必要なのです。明日の晩までに」
辰相「うむ、今までの戦いについて、大体のウワサは聞いているぞ。兵糧が足りないということも(お主らは黙っていたようだが)知っている。牛も運ぶが、兵糧もたくさん持たせよう」
義道「援軍もいるだろう?」
逸友「犬塚さまは、目立ちにくくするために、追加の兵糧や人員は受け取るなとおっしゃいました。牛だけがさしあたっての望みです」
辰相・義道「そうか… わかった、牛だな。明日、付近の住民に頼んで供出してもらおう」
翌日、朝から付近の住民に触れを出しまくって、「牛を出せ」と呼びかけたのですが、誰も牛を連れてくる気配がありません。夕方ごろになって、恐る恐る、村の長老たちが城を訪ねてきて訴えることには…
長老「ここらでは、田を耕すのにも荷物を運ぶにも、馬を使うのですよ。牛は誰も持っていません…」
辰相「えー困ったな。牛のツノにタイマツを結びつけるのがこの作戦のキモなのに。馬じゃだめだ。ツノがあればシカでも羊でもいいんだけど… 誰かシカ飼ってない?」
長老「いや、誰も…」
家臣たちは困り果てました。
そのとき、ある村の村長が発言しました。「私の村にはイノシシがたくさん飼われていますが… ツノはないけど、キバにタイマツがセットできないでしょうか」
辰相「ほう、それは考慮の価値がある。…しかしまてよ、イノシシって飼えるものなのか? あれが人になつくなんて聞いたことがないぞ」
村長は事情を説明しました。
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今年の10月ごろ、河原に、船に載せられた60頭くらいのイノシシが流れ着いたんです。みな足を縛られていました。イノシシは害獣ですからそのまま船を流れに押し戻してしまおうとしたんですが、近くの摩利支天堂の修験者(西妙といいます)が、これを見つけて、イノシシを助けなさいというのです。
西妙「ウワサに聞いたことがあるぞ。安房の里見家は、害獣をとらえても殺さず、領外に船で追放するのみであると。これがそれではなかろうか。それはともかく、このイノシシたちは、ずいぶん哀れな顔をしているではないか。なにか、害獣としての性根を入替えたようにも見える。ためしに数頭、縄を解いてエサを与えてみようか」
我々は半信半疑でしたが、西妙はイノシシに麦の握り飯を与えました。イノシシはシッポをピコピコ振りながらこれを喜んで食べ、まったくおとなしい様子です。結局すべてのイノシシの縄をほどきましたが、まったく安全でした。それ以来、摩利支天堂ではこのイノシシ達を飼っているのです。
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辰相「では、イノシシたちがここにいるのは、里見殿の仁政のたまものというわけか! よし、さっそくそれらを見せてもらおうではないか」
やがてその村長と西妙は、辰相の貸した100名の雑兵とともに、合計65頭のイノシシを連れてきました。その大きさに、義道と里見の家臣たちは驚きました。
辰相「キバの長さが申し分ないな。しかも本当に人になついている。よし、これを使わせてもらおう。西妙とやら、あとで褒美をつかわすからな」
こうして、イノシシは夜中のうちに船に乗せられ、信乃たちが立てこもる文明の岡の裏手の川岸から運び込まれたのでした。(このときも信乃は陽動作戦で敵の目をひきつけ、川を渡るものを見られないように計らいました)
逸友「戻りました! 牛はいませんでしたが、イノシシがたくさん入手できました。これ使えませんか?」
現八「げげっ、まさかイノシシとは。す、すごいなこれは…」
信乃「なるほど、安房から漂着したのですか。里見殿の仁政のおかげ、伏姫さまの冥助のおかげですね…」
現八「牛を使うよりも、こいつらならもっと勇敢に敵に突っ込んでくれそうだ」
信乃はイノシシのうちの一頭に向かって語りかけました。
信乃「お前たちの働きに、今回の勝敗がかかっている。この作戦によって、お前たちのうちいくらかは敵に殺されたり、火で焼け死ぬかもしれん。だが、その戦功は永遠に歴史に残るだろう。やってくれるか」
イノシシは、信乃と目をあわせて、「ブオー」と鳴きました。
信乃「よし、明け方になったら、作戦を決行する! 各自準備をしてくれ! 敵は三方向を囲んでいるが、自分の隊は正面の山内顕定に、犬飼どのの隊は左の憲房に、そして杉倉どのと田税どのが右の成氏にぶつかって行く。岡の上には500人を残す。我々の火計がうまくいったことを確認したら、国府台の殿たちにのろしで知らせてくれ」
(信乃は、自分や現八が直接成氏と衝突しないよう気遣っています。信乃にとっては先祖の旧主筋、現八にとってはかつての主君ですからね)
信乃は、この戦いに犬江親兵衛がいないのを残念に思っていました。信乃はかつて、親兵衛の父親である山林房八の犠牲で命を助けられており、それに報いるために、その後のすべての軍功を親兵衛に譲るという誓いを立てているのです。
信乃「犬飼どの。実は、この陣に、親兵衛の馬である青海波を連れてきているんです。親兵衛は京に行っていて戦いに間に合わないようですが、せめて彼の馬に私が乗り、親兵衛の面目を補おうかと」
現八「おお、それはすばらしい忠義だ」
信乃「今こそは生死をかけた決戦ですからね。もうひとつ、私は房八どのの名も背負って、彼のためにも戦いたい。これが私に力を貸してくれる」
信乃は、血だらけの布地を幌に仕立てなおしたものを取り出しました。(幌ってのは、マントのように後ろにつける、矢よけの道具です。)房八が血にまみれて死んだときの服を、信乃はとっておいていたのです。血の色は、不思議なことに今でも真紅のままです。
そしてそこには、墨痕あざやかに、「里見八犬士の随一、犬江親兵衛金鋺宿祢仁が先人、義士山林房八の紀」と大書されていました。
信乃「(幌を装着しながら)いざ、親兵衛と房八のために!」
この場に、青海波の世話をしていた兵がおそるおそる現れて信乃に報告しました。「ええと… 青海波の行方が知れなくなりました」
信乃「ええっ!!」
兵「簡単に逃げるはずもないんですが、まったく不可解です。馬ドロボウでもいたのか、敵陣にでも逃げたのか… すみません!」
信乃「…いや、今はしかたがありません。他にも馬はいますから、自分はそれを使います。もうすぐ決行の時間です、みんな、準備はいいですか!」