175. 八百八人の計、成る
■八百八人の計、成る
(原作「第百七十四回」に対応)
前回は、扇谷定正が率いる水軍が追い風を受けて洲崎に突入するところでしたが、里見軍がどういう準備をしてこれに臨んだのかも、すこし時間をさかのぼって説明しておきます。
12月7日、洲崎の陣営では、里見義成、毛野、道節、千代丸豊俊、その他家臣数名が翌日の作戦について最後の詰めをしていました。たまたま、滝田からこちらの様子を見に来た老臣・堀内貞行もいます。
毛野「こちらは水軍を三つにわけて敵にあたります。先鋒は小森どの。豊俊どのもここについてください。船には放火のための道具をいっぱい積んでおきます。次の隊が、犬山どの、荒川清英どの、印東明相どの。そして後ろの隊が、わたしと木曾三助どの」
義道「なかなか少ないメンバーで対応するんだね。別の作戦のために出て行った家臣や、京の関連で抜けている家臣がいるからなあ。わたしも加勢したほうがいいな」
毛野「ありがとうございます。しかし、ここはこれで充分だと思いますよ。殿は、この陣を守ることに専念してください。ちょうどよいので、堀内どのもこれに加わってください。海戦の様子をごらんになるには、この間つくっておいた物見やぐらを使ってくださるとよいでしょう」
小湊目「私には何かすることはないでしょうか。滝田組の若いメンバーで、私だけが今のところ仕事がないです…」
毛野「あなたにも重要な仕事がありますよ。500人の兵をつれて、明日、敵の横をすり抜けて武蔵に上陸してください。詳細は、ヒソヒソ…」
目は仕事を与えられて喜びました。こんな感じに全員の役割が決まり、やがて作戦会議は終了しました。
この日のうちに、毛野は道節を連れて兵を集合させ、明日の方針について指示を出しました。
毛野「明日の早朝、まずは北西からの風が吹くだろう。しかしそれはすぐに止んで、逆に南東からの風になるはずだ。そのときにはじめて船を岸から出し、敵の船団に一度に火を放つのだ。そこで敵は崩れるだろうが、それでもなお、進んで敵を殺してはならんぞ。捕らえるに留めることが大事だ。あと、各自、兵糧を充分に用意しておくこと。天津九三四郎どののしょくぱんまん号が到着したから、配給を受け取っておくように」
兵士たち「わかりました!」
こうして準備がおこたりなく進み、翌日の12月8日は、夜明け前から洲崎の沿岸にビッシリと船が揃えられ、だれもが士気をみなぎらせて敵の到来を待ち受けたのでした。
さて、シーンを扇谷のところに戻します。彼らは、約束通りに吹いた北西の風に乗って、どんどんと全軍を進ませました。あと1里くらいで岸に着いてしまうのじゃないか、と思われたころ… 突然、風がパタリとやみました。
定正「ん? なんだこりゃ。風がやんだぞ」
そして次の瞬間、同じくらいの強さの風が、南東から吹き始めました。管領軍にとっては全くの逆風です。定正をはじめ、家臣たちは起こっていることが全く理解できません。「なんなんだ」「なんなのコレ」
そのとき、洲崎の岸から数十艘の早船が飛び出し、それらは管領側の船団を完全に無視して、横をスルーすると武蔵の方向に漕ぎ去ってしまいました。これは目の隊です。
定正「???」
次に里見軍は、三つに分けた船団で一気に定正たちのもとへ押し寄せました。先頭にいるのは、千代丸豊俊です。船には「★投降人、千代丸豊俊★」と大きく書いた旗があがっているので、一応約束通りのようには見えますが…
定正「き、来た来た、あいつが我々に寝返る予定の豊俊だ。今からそこでUターンして里見軍に火をつける…んだろ? あれ、違うのか? 風が予定と違うから混乱しているのか?」
こういう定正自身が一番混乱しています。
定正「これはどういうことなんだ。おい、馬助はあいつの仲間なんだろう。どうなっているのかだれか聞いてこい」
里見の先鋒部隊が、豊俊といっしょに迫ります。そして、火薬をはさんだ柴に火をつけて、一斉に管領軍の先頭の船に投げ入れました。風のおかげで、これらの火はすぐに燃え上がり、もうもうと煙をあげはじめました。
馬助の偽名で敵軍に潜入していた浦安友勝はもう身分を隠す必要がないと判断して、船に同乗していた味方の(つまり敵の)兵を一気に斬り散らして、左右の船に火をつけました。燃料がはげしく燃え上がりはじめます。
友勝「愚かなり定正、憲儀。豊俊が寝返るなどというのは、お前らをだますためのウソッパチだったのだ。お前ら全員、今からヤキトリになるがいい」
そうして自分の船だけは、スッと前方に飛び出し、里見軍に合流しました。
もう誰も火を消し止めることはできません。船から船へ、帆から帆へ、炎は風に乗って、舐めるように管領軍の全船に燃え広がっていきました。まるで地獄絵図のようです。5万いた敵兵の大部分は、阿鼻叫喚のなか、火に焼かれて死ぬか、冷たい水に落ちて溺れ死ぬかのどちらかでした。
ここから逃れた一艘の軍船があります。定正の息子である朝寧が、かろうじて西の方向に飛び出したのでした。そのまま三浦のほうに逃げていこうとするのを、印東と荒川が見つけました。
印東・荒川「あいつらを逃がすな!」
こうして数百人の兵がそれぞれの船で朝寧を追い始めたのですが、逃げるとなれば敵には順風なわけで、なかなか追いつきません。後ろ向きに矢もばんばん撃ってきますから近づくのも難しく、このままでは逃げ切られてしまいそうです。
これをさらに、道節が目撃しました。「あの旗印は、朝寧だな! 逃がしはせん」
すでにかなりの距離でしたが、道節は自分用に特注した弓と矢を取りだし、力一杯引き絞ると、ブンと放ちました。矢はレーザービームのように飛ぶと、あやまたずに朝寧の胸にドッカリ刺さり、そして彼は水の中に崩れ落ちました。
道節「いかん、水に落ちた。カタキの親族、あいつの首を取らずには済まん。死体を見つけて引き上げろ」
しかし、水は冷たい上に深く、もう誰も朝寧の死体を見つけることはできませんでした。道節はうっかり遠くから射たことを悔いましたが、もうどうしようもありませんでした。(まあ、前までの話を読んだ皆様は、朝寧がそのあとどこで見つかったかご存じですね。)
朝寧が乗っていた船の残りの兵は、もう放っておいたって戦の勝敗には関係ありませんので、縛ったまま同じ船に乗せっぱなしで放り出しました。船はゆらゆらと西の方向に流れていき、もう道節たちは彼らたちへの興味を失いましたが…
その連中が、「あっ、あっちにいるのは定正さまだ。定正さまあ、助けてください」と叫ぶ小さな声が道節の地獄耳に入ってきました。
道節「むっ、定正だと! あいつも火を逃れたのか。よし、者ども、あれを追うぞ!」
この話はちょっとあとに続きます。
さて、もうひとつ、火を逃れた船があります。こちらは前線近くにいた小幡東良と九本望洋の二艘です。舵が燃えてしまったので、船のコントロールができずに、かえって船団の前方に漂い出てしまったのです。(逆に、後方に逃げようとしたほとんどの船は火炎地獄を免れませんでした)
この二人に、里見側の小森・豊俊・友勝・木曾が挑みます。彼らは小敵を蹴散らしながら二人に迫るのですが、特に定正の重臣である東良のほうは相当の猛者として有名で、なかなか手の付けられない強さです。(望洋のほうは、小森が苦戦の末倒しました)
東良は死ぬまで戦い通す気で、まったく弱気になる様子がありません。里見の雑兵を何人も刺し殺すと、やがて木曾をも捕まえてねじ倒し、腰の短刀を抜いて首をかき切ろうとしました。それを見ていた毛野が、すかさず鉄の軍扇を投げつけて東良の眉間にあてましたので、彼はこのダメージに目がくらみ、結局はなすがままに縛り上げられてしまいました。ボスがこうなってしまっては、船の中にいた残党もたちまち降参してしまいました。
毛野は東良の目の前に行き、誰にも聞こえないほどの声で「味方を何人も殺したこんなやつでさえ、殿は許せと言うのか…」とつぶやきました。
毛野「…お前は敵ながら忠臣だ。皆が逃げるなか、お前はあえて前に進み、我らと堂々と戦った。我が殿・里見は仁君である。お前のような者を殺すなとの命令だ。今さらお前が生きようが死のうが戦の勝敗には関わりがないのだから、もう行ってよい」
こう言って毛野は東良の縄を解かせました。
東良はしばらく呆然として、それから毛野の措置に礼を言い、語り始めました。「…里見の仁心、これほどとは恐れ入った。私はもともとこの戦には反対だったのだが、主君には聞いてもらえず、やむを得ず参戦したのだ…」
東良「しかし、私一人が生き残って、いまさら何の面目があろう。見よ、これが私の取るべき道だ!」
こう言うと東良は、刀を自分のうなじにあててから、両手でこれを前方に引き、自ら首をすっぱり落としてしまいました。毛野はおどろき、それから軍扇でヒザをポンと叩いて感嘆の声をあげました。
毛野「…あっぱれ! 彼は真の忠臣、真の勇士だった。定正が暗君であるにも関わらず、今だ関東管領でありつづけられるのは、このような忠臣たちに恵まれているからだ」
それから敵の雑兵たちも釈放し、東良の首を持たせて帰しました。毛野は傷ついた部下たちの応急処置をひととおり行いながら「よくがんばってくれた、みんな」とねぎらいの声をかけていきました。
毛野「フー、今のところすべて計画どおりだ… しかし、大角がこの戦いに間に合わなかったのはどうしてだろう。心配だ。まあ大角のことだからそちらはなんとかなるとして、我々が次にやらなくちゃいけないのは、人質の女性たちを救出することだ」
豊俊「そうですね。すぐに五十子城を攻めに行きませんと!」
毛野「うん、それはそうだけど、まずはみんな、各自弁当をひらいて腹ごしらえをしてくれ。定正が城に逃げ帰ったとしても、当分は城の防衛を固める仕事で手一杯になるだろう。人質たちを殺すことはまだしないはずだ…」