183. 河鯉孝嗣はもう死んだのです
■河鯉孝嗣はもう死んだのです
(原作「第百七十九回下」に対応)
里見と関東管領の和解の段取りがほぼ決まり、それまで里見側が押さえていた敵側の城(五十子、忍岡、新井など)も一斉にそれぞれの持ち主に返すことになりました。毛野・大角・道節がそれぞれの城に戻って準備をし、返還の日である4月21日はすぐに訪れました。
まずは、大角のいる新井城と、鎌倉で雑魚太郎貞住が押さえる山内の屋敷のことから。
避難していた山内や三浦の家臣たちが順次訪れ、明け渡しの手続きそのものは実にスムーズに進んでいったのですが、大角たちがあまりによい政治をしていたために、三浦じゅうの村長たちが、行かないでくれ、ずっとここを治めてくれと城まで哀願にきました。
大角「いや、今までは仮のことだったんですから。みなさんもとのサヤに戻るんですよ」
村長「三浦親子が戻ってきたら、大角さまに従っていた我々がきっと恨まれます」
大角「三浦たちは反省してますし、大丈夫ですってば。なんならメモを残しておきますよ。みんな仕方なく私達に従っただけです、って」
村長「とにかく、今の暮らしが最高なんです。行かないで!」
大角と雑魚太郎が船に乗って三浦を離れるそのときまで、村人たちの懇願は続きました。大角たちは、すがりつく人たちをやむなく振り切って安房に帰っていったのですが、浜辺には、ショッピングモールでだだをこねる子供たちのように転げまわって泣きじゃくる村人たちの姿がありましたとさ。
次に、五十子城で定正の母と妻を守ってお世話していた、妙真・曳手・単節・音音のこと。(実は、戦が終わってから今までずっと世話していたんです)
貌姑姫と河堀殿は、今ではすっかりこの四人に心を許していました。いよいよ彼女たちが安房に帰ることが分かり、残念でなりません。
貌姑姫「みなさん、今までありがとう。いろいろと差し上げたいものがあるわ」
貌姑姫が差し出すキレイな道具やアクセサリを、曳手たちは受け取ろうとしません。
曳手・単節「私たちは、里見殿になんでもいただいており、足りないものはないのです。恐縮ですが、これはそのままに」
河堀殿「じゃあ、せめて、この夾衣を受け取って頂戴。もう陽気は暖かいのに、みんな、去年の冬の格好のままじゃない」
さすがに何もかも断っては失礼なので、四人はこれを謹んで受け取り、これに着替えたあとで、さらにさっきまで来ていた冬服をかさねます。
河堀殿「な、なによソレ」
妙真「ごめんなさいね、あなた様からの恩も大事にしたいんですけど、殿からの恩と取り替えてしまうわけにはいかないんです」
河堀殿「…感心していいものか、どうなのか。呆れたわ…」
妙真・曳手・単節・音音「(涼しい顔)それではお二方、今後ともどうぞお元気で。さようなら」
こうして四人が出てくるころには、毛野たちは囚人たちの釈放や城渡しの手続きを遅滞なく終えており、おなじく大塚の城を渡してここまで帰ってきた小森と木曾に、四人を連れて安房に帰るよう指示しました。
音音「あ、安房に帰るまえに、寄り道してもらいたいところがあるんだけど、いいかしら」
舟の人「ええ。どこに?」
音音「大茂林の、海苔七夫婦のところに」
音音は、海苔七たちに会いに行くと、自分の正体を教えて、前に命を助けてくれたことを改めて感謝しました。
音音「今は持ち合わせがないのだけど、さしあたり、この衣装をもらってちょうだい。また落ち着いたら安房の稲村に来てよね。じゃね」
こういうと、さっき四人が五十子でもらった衣装を、この夫婦に全部あげてしまいました。夫婦はポカンとした表情のまま、夢でも見ているかのような気分で、去っていく船を見送りました。
次に、忍岡を守っていた道節たちのこと。
道節は、穂北に声をかけて、落鮎有種を呼んで色々とこれからの話をしていました。
道節「こうこう、こういうわけで、穂北はこれからもずっと落鮎の土地だ。しかし、おまえ自身は、今から安房に渡って里見に仕えることをオレ的には薦めるぞ」
落鮎「本当にありがとうございます。でも、穂北にもうすこし留まって、みながすっかり安心してからにしたいと思います」
道節「うん、それもいいだろう」
ここに、管領側の家臣、白石重勝たちが城を受け取りにきました。
道節「おう、来たな。城を渡す準備はできているぞ。ところで、助友からちゃんと聞いただろうな。穂北は落鮎の土地だぞ。ここんとこ、間違いないな」
白石「間違いない。定正さまがその件を約束してくれた文書がここにある(渡す)」
道節「(文書を読んで)ふーん、忍岡の城と、穂北の荘園を交換する、とな。別に穂北はハナから定正のもんじゃねえよ。…ま、それでも一応役に立つ文書だ。預かっておいてやるよ」
こうして城渡しの手続きは進み、道節は印東や荒川を連れて、両国から安房に戻っていきました。また、石浜の城を明け渡して出てきた登桐山八も同様に両国から合流して、いっしょに安房に戻っていきました。来たときよりも帰りの兵は増えて、合計で10000人ほどになっていました。
城渡しがこのように武蔵の各所で行なわれているとき、安房の稲村では、12人の捕虜たちを送る宴が開かれていました。義成もここにいて、別れを惜しむあいさつをそれぞれと交わします。そうしている間にも順番に迎えの連中が到着します。人によっては、会を中座して、今までの礼を言ってそれぞれの地に帰っていきました。
稲戸由充は、荻野や妻有などの一行が迎えにきても会が終わるまで待ち、やがて深く礼を言って、最後に席を立とうとしました。
義成「おっと、由充どのには申し上げておきたいことが」
由充「なんでしょう」
義成「犬田と犬川をいつか救っていただいたこと、私としてはまだまだ礼をし足りない気持ちなのです。越後は塩が貴重であると聞きますが、これから毎年、行徳の塩を1000苞お送りしたい」
由充は汗をかきまくって恐縮し、断ろうとしましたがだめでした。この後長らく、安房から越後には塩が送られ続けたそうです。
もうひとり、稲村に残っていたものがあります。成氏です。ちょっと迎えの船団が遅れているのでした。寂しいのをこらえてがんばっています。
義成「成氏どの、迎えが遅れるようでしたら、一日余分に滞在していただいてもいいのですよ」
成氏「いやいや、それはなにかと外聞がわるい。船が遅れているようなら、私は陸路で帰りたいと思う。ちょっとだけ護衛をお借りしたいのだが」
義成「ご希望でしたら、そうしましょう。ところで、今後ふたたび好を結ぶのですから、何かこちらから誠意を見せたいのです。上総の御弓の荘園を差し上げたら、もらってくださいましょうか」
成氏「と、とんでもないぞ。私は、お主らに兵を向けたことを心底後悔しているのだ。これは受けられん、ホント」
義成「そうですか、それではこの件は、また別の機会にでも」
成氏「うん、まずはとにかく、帰りの世話をたのむ」
成氏を送っていくメンバーには、信乃と現八が入りました。この日の夕暮れには、宿を見つけたことを確認して現八が帰って行きました。信乃はまだここからも一行についていき、3、4日後には国府台の近くまで来ました。
この日、激しい雨が降りましたので、一行はしばらく国府台の城で雨宿りをさせてもらいました。成氏を迎えに洲崎まで行った(しかし遅れた)船団は、せめて途中からでも成氏を拾っていこうと、この近くで待っていてくれました。ですから、この城で一晩泊まったら、あとは船に乗って帰ればよさそうです。
この日の夜、信乃は成氏の居室をたずねて、改めてあいさつしました。しばらくはあたりさわりのない雑談をしましたが…
信乃「今まで周りをはばかって言い出せませんでしたが、今こそ、親の遺訓を果たしたいと存じます。持氏どのの形見にして、春王、安王両君の御遺物、村雨の一刀をお返したてまつる。とくとお検めを」
信乃は袋のヒモを解いて刀を引き出し、そうしてゆっくりと刃を抜くと、サッと振って見せました。縁側に相変わらずの雷雨が降り注ぐ中、刀からほとばしる水気が部屋に散乱し、明かりをユラユラさせました。
成氏「…間違いない、それは村雨だ!」
信乃は刀をサヤにおさめ、袋にしまい直すと、「いざ」と成氏に捧げました。
成氏「お主は私になんの恩もないのだぞ。その刀、お主の家宝にしてもよいのだぞ」
信乃「村雨はお家の宝ではございませんか。私には、家に伝えられる桐一文字がございます。これを返すことこそ、匠作、番作二世の宿願だったのです。どうかお納めください」
成氏は涙ぐんでこれを受け取り、「ありがとう、犬塚」と言いました。
雨がやみました。翌日早く、成氏を乗せた船団は、信乃が見送る中、暴川に漕ぎだして去って行きました。
こうして、すべての戦後処理が終わりました。武蔵から安房に帰ってきた家臣や兵士たちは、その家族に迎えられて平和の訪れを喜びました。音音たちを迎えた姥雪代四郎の喜びや、妙真を迎えた親兵衛の喜びなどを想像するのも楽しいですね。
とはいえ、実はすべてが終わったワケではありません。まだ最後に、里見義成と扇谷定正の和解の式典だけが終わっていません。
熊谷「当然これもやらなくちゃね」
秋篠「私も、これを見届けてから帰ろうと思う」
管領側が渋っていたので今まで日程が決まりませんでしたが、将軍と天子の使者がたびたび催促しましたので、やっと6月1日に「東西会盟の儀」が開かれることになりました。
儀式の概要はこうです。三浦の浜に扇谷と山内が席をかまえ、義成が洲崎に席を構える。両陣営からそれぞれ誓い文を持った使者が海峡を渡って反対側の地に行き、それぞれの将にこれを渡して同意の血判をもらってくる。こんな感じです。
里見から管領側への使いは、毛野と孝嗣。誓い文は大角が書いたものです。
管領側から里見への使いは、助友と小幡。誓い文は、巨田道灌が書いたものです。
両者は同時にそれぞれの陣営を出て、海峡の途中ですれちがって会釈し、そして向こう側につきました。
助友は、終始堂々と使者をつとめ、里見側に集まった人たちに「あいつは大した男だ」と感心されました。まことに、主君である定正の恥を清めるような使者ぶりでした。義成は、助友の持ってきた誓い文に花押を書き入れ、さらに血判を捺しました。
毛野と孝嗣も同じです。毛野が読み上げ、定正と顕定に提出した誓い文に、同様に血判が捺されました。会盟はこれで成立です。両方の陣営で、和解を祝って音楽と舞いが始まりました。
あとはそれぞれの使者がもとの陣営に戻るのみです。毛野が先に船で出ていき、三浦の浜には孝嗣だけが一時的に残されました。
そこに、大石憲儀が、定正からの伝言を受けて、おずおずと孝嗣に話しかけました。
憲儀「殿はこうおっしゃる。『さきには私の過ちにより、罪のないお前を死地に追いやってしまったことを後悔している。河鯉の三世の恩義をお主がまだ忘れていないなら… 忠義の心がまだ残っているなら… 戻ってきて我に仕えよ。俸禄は今までの10倍とする』」
孝嗣はだまってこれを聞いていましたが、やがて静かにこれに答えました。
孝嗣「御諚、承りました。しかし、殿が憎みたもうた河鯉佐太郎は死にました。殿が殺したのです。ここにいるのは、里見の忠臣、政木大全。 …人違いでございます」
これだけを言い残して、あとは孝嗣は無言で去っていきました。これを憲儀から聞いた定正は、しばし身じろぎもせず、目をウルウルさせて悲しみました。
両陣営の舞楽はなお続き、互いに向こう側の音もかすかに聞こえました。
(どうでもいいことですが、信乃と道節もなぜか舞楽に混じっており、これを見る人は「いつの間にああいうの練習するんだろ」と不思議がりました)
これ以降、安房・上総と武蔵・相模は人々の往来が自由になり、河に橋もかけられました。どこで漁をしても排他的経済水域を主張するものはなく、経済が活発になって人々の暮らしは豊かになったということです。
さあ、次からエンディングだよ。あんまり長いので、6話に分割されるけど。