2. 八町ツブテの紀平治
■八町ツブテの紀平治
帰宅したあと、為義は、息子の為朝が信西を煽って恥をかかせた理由を厳しく問いただします。
為義「今日のアレは何だ。思い上がった狂人のような振る舞いをしおって。お上には不忠、私には不孝。今後、あんなことは二度とするな」
為朝は食い下がります。「父上だってご存じではないのですか。信西は、明らかに鳥羽上皇から遣わされたスパイですよ。私は彼が今後新院(崇徳)さまに近づけないようにしたかったのです」
この話を理解するには、保元の乱のもとになった対立構造についてちょっと知識が必要です。ごく単純にいうと、これは後白河天皇(と、そのウラにいた信西)と崇徳上皇の争いです。どちらの家系から次の天皇を出すかという点が争いの焦点でした。これに付随して、摂関家や武家もどちらかの陣営に割れることになります。
崇徳上皇のほうは、わりと理不尽な形で権力を追われてしまった側の勢力で、日々、恨みを募らせていました。それに同情する人々(頼長、為義など)が普段から彼の御所に通っているのですが、信西だけはどっちの陣営にも積極的に出入りしているのでした。(この時点では後白河天皇は即位していませんが、これをウラで押す鳥羽上皇のもとに出入りしている、ということです)
為義「まあ、確かに分からんわけじゃない。しかし信西は大きな権力をもつ上、きわめて厄介な男だ。我々の家くらい、口先ひとつでなんとでも処分してしまえるのだぞ」
為朝「…」
為義「それは避けるべきだ。よってだな、お前を九州に出すことにする」
為朝「勘当、ですか」
為義「まあ、それに近いな。信西の攻撃をかわすにはこのくらいしなくては。私が呼ぶ日まで、当分向こうでおとなしくしておれ。知人に連絡しておくから、彼を頼って豊後に行け」
こういうワケで、為朝は、須藤九郎重季という男を部下につけられ、たった二人で都を出て九州に向かって旅立ちました。そこで尾張権守季遠に受け入れられ、そこで勉強や修行をしながら、いつしか三年の月日が経ちました。
15才の為朝は、もっぱら木綿山に弓を持って登り、狩りばかりしています。しかし、ある日、山の中で道に迷ってしまいました。
為朝「いかん、ちょっと深入りしすぎたか」
為朝は道を探して適当に歩いたのですが、そこで偶然、二匹の仔オオカミが互いにケンカしているところに出会いました。鹿の肉を取り合って、互いに血だらけになって争っているのです。為朝はこれを見て、京で権力闘争に明け暮れる人たちのことを連想しました。
為朝「我々人間も同じだな。あそこ(京)では、兄弟や親子でさえ、上っ面ではニコニコしながら、腹の中ではお互いを追い落とすことばかり考えているんだ。…おいお前ら、そんな肉ごときの取り合いで死んでどうする。仲良くしなさいよ、ほら」
為朝は、持っている弓の先で、二匹をピンとはね飛ばして引き離しました。オオカミたちは急に仲直りして、互いに近づくと傷をペロペロとなめ合いました。為朝の言葉が通じたのか、つまらない争いをした自分たちのことを反省したのです。
為朝「おっ、聞き分けがいいね。人間なんかよりずっと物わかりがいいってわけだ。よしよし(オオカミをなでる)」
やがてオオカミ達は、為朝に帰り道を案内するかのような仕草をして、彼の先導をはじめました。そしてその途中で、ひとりの人物に鉢合わせました。(オオカミ達は、これは予想外だったと見えて飛び退きました。)年は30くらい。狩人のような格好をしていますが、弓を持っていません。代わりに腰には刀を下げています。
為朝「なんだ、あんたは。弓も持たずにこんな山の中に… あっ、分かった。追い剥ぎか何かだね」
男のほうもしばらく為朝を観察していましたが… 「あっ、もしやあなたは、ここらにお住まいという、源八郎御曹司では!」
為朝「おや、私のことを知っているんですか」
男は、主君に向かうような丁寧さで答えました。「やはりそうだ。初めてお目にかかります、私は紀平冶という者で、ここらで狩人を営んでおります。祖父は琉球の出身で、肥後の菊池に仕えておりました。いろいろ事情があって、孫の私はこんなところで卑しい身分となっていますが、いつかはよい主君に仕えて身を立てたいと思っているのでございます」
為朝「なるほど。ところで弓を持っていないのは?」
紀平冶「私のアダ名は、八町ツブテの紀平冶。私の飛び道具は、そこらへんの石コロでございます。八町(800メートルくらい)先までの得物なら、逃すことはございません」
(800メートルはいくらなんでも、と思いますが、まあ本文ではこうなっていますので一応…)
為朝「なるほど。このオオカミ達がずいぶんおびえている所を見ると、腕前は確かそうだね」
紀平冶「それ、飼っているんですか? ずいぶんなついていますが」
為朝「さっき会った」
紀平冶「なんと! あなた様の人徳には、ケモノでさえたちまち帰順するということですね。もっとあなた様のことを知りとうございます。ウチに寄ってくださいませんか」
紀平冶は為朝を山の中の自宅に招き入れて、せいいっぱいもてなしました。妻の八代も紹介されました。粟のメシと鮎の白焼きが出されました。
紀平冶「よろしければこれも召し上がってください(瓶を出してきて)」
為朝「む、これは、酒だね。しかもブドウ酒のような味だ。うまい」
紀平冶「猿酒でございます。猿どもが果物をため込んだものが木の穴の中で自然に発酵するとこれができます。なかなか珍しいんですよ」
為朝「なるほど、都では味わえないものだね。今日はよい日だ」
為朝は、庭で待っているオオカミたちにもエサを与えて可愛がりました。
八代「きゃっ、オオカミ」
為朝「ああ、あれらは大丈夫だよ。ハハハ」
それから為朝と紀平冶は兵法などについて雑談を交わし、なかなか気が会う相手のようで、すっかり意気投合しました。ついに為朝は、紀平冶に請われるままに主従の約束を交わしました。
夜が更けてきました。部下の九郎重季が、タイマツを片手に為朝を探し回っていることに気づいたので、彼は家の主人に暇をつげてこの日は自分の宿舎に戻っていきました。
為朝「オオカミ達が、ついてくるな。よほど懐かれたのか」
重季「珍しいことですね」
為朝「よし、名前でもつけてやろう。こっちは山雄、こっちは野風だ」
山雄・野風「ワンワン!」