椿説弓張月、読んだことある?

29. 朝稚の旅

前:28. 舜天丸、誕生

朝稚(ともわか)の旅

朝稚(ともわか)時員(ときかず)(ぬさ)の案内にしたがって阿蘇に入る直前のところまで来ましたが、ここで急に時員(ときかず)が、にわかに心臓の痛みに悩むようになりました。一騎当千の勇士も病には勝てず、彼はだんだんと朝稚(ともわか)に遅れるようになりました。季節は秋の暮れで、まわりに民家はありません。

朝稚(ともわか)「大丈夫かい時員(ときかず)。この寒さだから、カゼを引いたのかもしれない。せめて木の下で休もうよ」

時員(ときかず)「なんの、私の都合などで若様が遅れてはいけません。こんなもの、すぐに治りますよ」

しかし、時員(ときかず)は言葉に反して真っ青です。行けば行くほど病は重くなっていくようで、ついには一歩も動くことができなくなりました。宿のあるような場所まではまだ遠く、朝稚(ともわか)は困りました。

朝稚(ともわか)「ともかく休むしかないよ」

朝稚(ともわか)は、かぶってきた笠をフトンがわりに敷いて時員(ときかず)を寝かせ、草をかきあつめてこれにかけました。そして持ってきた薬を飲ませていたわります。時員(ときかず)はありがたさと申し訳なさに涙しました。あたりには淋しく鈴虫の声が響きます。

朝稚(ともわか)「ああ、時員(ときかず)にもしものことがあれば、私はこれからどうしよう。源氏の氏神よ、哀れとおぼしめしたまえ。彼を守りたまえ」

あたりに水場がないので、朝稚(ともわか)は草木の露をあつめて紙を湿らせ、時員(ときかず)の唇に絞り入れるなどして必死の看病をするのですが、まるで末期の水を与えているようにも思え、不安に涙がにじんできます。


そこに、醜い顔をした漁師風の男がひとり、通りがかりました。実はこれは、いつか為朝が讃岐で追い払った蜘手(くもで)渦丸(うずまる)です。今は手下も失って、漁などをしながら勝手な暮らしをしていました。

渦丸(うずまる)「ほう、お困りかな。お連れの方は病気か」

渦丸(うずまる)は、この旅人たちがそれなりの身分であることを見抜いていました。これを襲えば金品が得られ、また朝稚(ともわか)のほうはなかなかの美少年ですから、どこかに売り飛ばすことができるでしょう。幸い、従者は病気で弱っているようだし、殺すのは簡単そうだ。

渦丸(うずまる)「薬屋までは遠いが、わたしの家にもよく効く薬がありますぞ。少年、一緒に家まで行こう。そこで薬をあげるから」

朝稚(ともわか)「え、本当ですか」

時員(ときかず)は怪しんでいます。「いや、構わんでくだされ。休んでいればよくなる。朝稚(ともわか)さま、見知らぬ人間に着いていくのは危険です」

渦丸(うずまる)は冷笑します。「おや、疑いなさるか。私の家には老いた母と幼い子があるので、私一人で持ってきてあげるのは難しく、こんな提案をしたまでだが。ま、いいや。無理に親切を押しつけることもありませんな。邪魔しましたのう、忘れてくだされ」

渦丸(うずまる)は二人を置いて走り去りました。朝稚(ともわか)は今はワラにもすがりたい気持ちですので、このチャンスを失いたくありません。

朝稚(ともわか)時員(ときかず)、きっとあの男は親切で言ってくれただけだ。きっと源氏の氏神さまがつかわしてくれたのだ。まだ間に合うだろうから、私は追いかける!」

時員(ときかず)が「おやめください、危険です」と止めるのも聞かず、朝稚(ともわか)は男の去った方向に走っていきました。

そのまま時間が経ち、夕方になってしまいました。時員(ときかず)は山おろしと地面の冷たさにいよいよ体力を失いながら、心細く朝稚(ともわか)の帰りを待ちました。あまりに心配になったため、ついに杖にすがってヨロヨロと立ち上がろうとしましたが… 次の瞬間、何者かが背後から繰り出した切っ先に時員(ときかず)は貫かれました。

時員(ときかず)が力を振り絞って後ろを振り返ると、そこにはさっきの渦丸(うずまる)が残忍な笑みをうかべて刀を握っています。

時員(ときかず)「…やはり賊であったか。病気でさえなければ、こんな小悪党に不覚は取らんものを」

渦丸(うずまる)「小悪党とは心外だ。四国では蜘手(くもで)渦丸(うずまる)と呼ばれた、泣く子も黙る海賊だぜ。まあ、最近ある男に負けて、今でこそ単身活動中だけどな。言うまでもないが、さっき言った薬だの家族だのって話はみんなウソだ。お前ら、カネ持ってるだろう。それを頂戴しようっていう、まあそれだけのことよ」

時員(ときかず)朝稚(ともわか)さまをどうした」

渦丸(うずまる)「あのガキか。オレを追ってきたのを、待ち伏せして捕らえてやったわ。猿ぐつわをして、このカゴの中に押し込めてある。結構な美少年だから、高い値がつくだろう。高野山あたりで売りさばく予定よ」

時員(ときかず)は最後の力で渦丸(うずまる)の向こうずねをなぎ払おうとしましたが、渦丸(うずまる)はこれをヒョイと飛び越えると、時員(ときかず)のノドを地面に縫いとめてとどめをさしてしまいました。

渦丸(うずまる)「へっ、ちょろい仕事だぜ。おいガキ、聞いていたか。お前は殺さねえから安心するがいい。ま、単にそのほうがカネになるからだけどよ」

朝稚(ともわか)はカゴの隙間からこの一部始終を見ていました。縛られ、口もきけず、腸を断たれる思いに苦しみながらただ涙を流していただけです。しかし、渦丸(うずまる)時員(ときかず)の身ぐるみをはいでこのカゴを背負ったときに、すこし縄が緩みました。朝稚(ともわか)はなんとか両手を自由にすると、腰の刀(例の鐺返(こじりがえし)です)を抜いて、カゴの中から渦丸(うずまる)の背中に、突き通れとばかりに差し込みました。

渦丸(うずまる)はギャッと叫んでヒザをつきました。朝稚(ともわか)は刀でカゴを切り裂いて外に出ると、怒りの叫びをあげました。「病気でさえなければ、時員(ときかず)がお前なんかに負けるはずはなかった。憎い奴め、天罰をくらえ」

そうして、渦丸(うずまる)の胸先を二度、三度と刺し貫き、とどめをさしました。そうして奪われた金品をすべて取り返しました。

朝稚(ともわか)「…カタキは討ったぞ、時員(ときかず)(涙)」

もうあたりは暗くなってしまいました。時員(ときかず)の死骸を運ぶこともできませんし、埋葬する道具もありません。せめて獣に食われないように、なんとかカゴの中には押し込めて、埋葬のための費用としていくらかの金も一緒に入れました。

朝稚(ともわか)「あとは、これを見つけた人に、事情を説明して葬儀をお願いするための手紙を書きたいが、明かりがない…」

朝稚(ともわか)が困っていると、草むらの中から小さな光がポッと現れて浮かび、朝稚(ともわか)の手元に近づいて照らしました。まるで、手紙を書くのを手伝うと言わんばかりです。朝稚(ともわか)はこの偶然に喜び、なんとか文章を書き留めると、カゴの中にこれも入れました。これでひとまず、すべきことは完了しました。

朝稚(ともわか)「さようなら、時員(ときかず)。私はこれから一人で行くしかない」

朝稚(ともわか)は、例の(ぬさ)を探しました。しかしどこにも見つかりません。彼は呆然と立ち尽くします。

朝稚(ともわか)「なんということだ。あれがなくては、どちらに進むべきか分からない。氏神は私を見捨てたもうたのか」

しかし、さきに明かりを提供した小さな鬼火は、朝稚(ともわか)の目線まで昇り、何か言いたげに上下します。

朝稚(ともわか)「なんだ、もしかすると、着いてこいというのか? …これはまさか、時員(ときかず)の魂なのか。死んでなお、私を導いてくれようというのだな。なんという忠義だ。わかった、お前に任せるよ」

朝稚(ともわか)は、先導して飛んでいく鬼火を追いかけて、夜通し走りました。やや空が白んできたころ、彼はある小高い山の中腹にいました。細くて曲がりくねった道を鬼火につられて登るうちに、すそは朝露に濡れ、足はすり傷・切り傷だらけになりました。気づけば鬼火は消えていました。

朝稚(ともわか)「どうしてこんな所に… あっ、向こうに屋敷がある」

朝稚は、こんな山の中には不似合いなほど立派に作られた砦が目前にあるのに驚きました。門は、なぜか朝稚が通れる程度に半開きになっていました。

彼がおそるおそる中に入って様子を見ると… 美しい女と、6、7歳ほどの男の子が庭にいました。男の子は木の実を拾って遊んでおり、女がそれを見守っています。他には誰もいない様子です。

読者はお気づきの通り、ここは木原山、そして朝稚が目撃したのは、白縫(しらぬい)とその子、舜天丸(すてまる)です。為朝と紀平治は阿蘇の神社に詣でに行っており、残りの連中は山中に作った田んぼの稲を刈りにちょうど総出になっていました。

朝稚(ともわか)は意を決して白縫たちに話しかけました。「もし…」

白縫と舜天丸はハッと朝稚のほうを向きます。

朝稚(ともわか)「驚かせてすみません。ここで休ませてくれませんか。私は父母を探して旅をする者です。昨晩、盗賊に襲われて従者を失い、この山に迷い込んだのです」


白縫「普通の人はこんなところを見つけられないはずですが… 主人は留守で、私だけの一存では、あなたを留めてよいものか、ちょっと判断しかねます。まあそれはともかく、あなた、どうして旅をしているんです。どこの、どなたなんですか」

朝稚(ともわか)は、隠しても怪しまれるばかりと判断して、自分の素性を明かすための話をはじめました。


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