29. 朝稚の旅
■朝稚の旅
朝稚と時員は幣の案内にしたがって阿蘇に入る直前のところまで来ましたが、ここで急に時員が、にわかに心臓の痛みに悩むようになりました。一騎当千の勇士も病には勝てず、彼はだんだんと朝稚に遅れるようになりました。季節は秋の暮れで、まわりに民家はありません。
朝稚「大丈夫かい時員。この寒さだから、カゼを引いたのかもしれない。せめて木の下で休もうよ」
時員「なんの、私の都合などで若様が遅れてはいけません。こんなもの、すぐに治りますよ」
しかし、時員は言葉に反して真っ青です。行けば行くほど病は重くなっていくようで、ついには一歩も動くことができなくなりました。宿のあるような場所まではまだ遠く、朝稚は困りました。
朝稚「ともかく休むしかないよ」
朝稚は、かぶってきた笠をフトンがわりに敷いて時員を寝かせ、草をかきあつめてこれにかけました。そして持ってきた薬を飲ませていたわります。時員はありがたさと申し訳なさに涙しました。あたりには淋しく鈴虫の声が響きます。
朝稚「ああ、時員にもしものことがあれば、私はこれからどうしよう。源氏の氏神よ、哀れとおぼしめしたまえ。彼を守りたまえ」
あたりに水場がないので、朝稚は草木の露をあつめて紙を湿らせ、時員の唇に絞り入れるなどして必死の看病をするのですが、まるで末期の水を与えているようにも思え、不安に涙がにじんできます。
そこに、醜い顔をした漁師風の男がひとり、通りがかりました。実はこれは、いつか為朝が讃岐で追い払った蜘手の渦丸です。今は手下も失って、漁などをしながら勝手な暮らしをしていました。
渦丸「ほう、お困りかな。お連れの方は病気か」
渦丸は、この旅人たちがそれなりの身分であることを見抜いていました。これを襲えば金品が得られ、また朝稚のほうはなかなかの美少年ですから、どこかに売り飛ばすことができるでしょう。幸い、従者は病気で弱っているようだし、殺すのは簡単そうだ。
渦丸「薬屋までは遠いが、わたしの家にもよく効く薬がありますぞ。少年、一緒に家まで行こう。そこで薬をあげるから」
朝稚「え、本当ですか」
時員は怪しんでいます。「いや、構わんでくだされ。休んでいればよくなる。朝稚さま、見知らぬ人間に着いていくのは危険です」
渦丸は冷笑します。「おや、疑いなさるか。私の家には老いた母と幼い子があるので、私一人で持ってきてあげるのは難しく、こんな提案をしたまでだが。ま、いいや。無理に親切を押しつけることもありませんな。邪魔しましたのう、忘れてくだされ」
渦丸は二人を置いて走り去りました。朝稚は今はワラにもすがりたい気持ちですので、このチャンスを失いたくありません。
朝稚「時員、きっとあの男は親切で言ってくれただけだ。きっと源氏の氏神さまがつかわしてくれたのだ。まだ間に合うだろうから、私は追いかける!」
時員が「おやめください、危険です」と止めるのも聞かず、朝稚は男の去った方向に走っていきました。
そのまま時間が経ち、夕方になってしまいました。時員は山おろしと地面の冷たさにいよいよ体力を失いながら、心細く朝稚の帰りを待ちました。あまりに心配になったため、ついに杖にすがってヨロヨロと立ち上がろうとしましたが… 次の瞬間、何者かが背後から繰り出した切っ先に時員は貫かれました。
時員が力を振り絞って後ろを振り返ると、そこにはさっきの渦丸が残忍な笑みをうかべて刀を握っています。
時員「…やはり賊であったか。病気でさえなければ、こんな小悪党に不覚は取らんものを」
渦丸「小悪党とは心外だ。四国では蜘手の渦丸と呼ばれた、泣く子も黙る海賊だぜ。まあ、最近ある男に負けて、今でこそ単身活動中だけどな。言うまでもないが、さっき言った薬だの家族だのって話はみんなウソだ。お前ら、カネ持ってるだろう。それを頂戴しようっていう、まあそれだけのことよ」
時員「朝稚さまをどうした」
渦丸「あのガキか。オレを追ってきたのを、待ち伏せして捕らえてやったわ。猿ぐつわをして、このカゴの中に押し込めてある。結構な美少年だから、高い値がつくだろう。高野山あたりで売りさばく予定よ」
時員は最後の力で渦丸の向こうずねをなぎ払おうとしましたが、渦丸はこれをヒョイと飛び越えると、時員のノドを地面に縫いとめてとどめをさしてしまいました。
渦丸「へっ、ちょろい仕事だぜ。おいガキ、聞いていたか。お前は殺さねえから安心するがいい。ま、単にそのほうがカネになるからだけどよ」
朝稚はカゴの隙間からこの一部始終を見ていました。縛られ、口もきけず、腸を断たれる思いに苦しみながらただ涙を流していただけです。しかし、渦丸が時員の身ぐるみをはいでこのカゴを背負ったときに、すこし縄が緩みました。朝稚はなんとか両手を自由にすると、腰の刀(例の鐺返です)を抜いて、カゴの中から渦丸の背中に、突き通れとばかりに差し込みました。
渦丸はギャッと叫んでヒザをつきました。朝稚は刀でカゴを切り裂いて外に出ると、怒りの叫びをあげました。「病気でさえなければ、時員がお前なんかに負けるはずはなかった。憎い奴め、天罰をくらえ」
そうして、渦丸の胸先を二度、三度と刺し貫き、とどめをさしました。そうして奪われた金品をすべて取り返しました。
朝稚「…カタキは討ったぞ、時員(涙)」
もうあたりは暗くなってしまいました。時員の死骸を運ぶこともできませんし、埋葬する道具もありません。せめて獣に食われないように、なんとかカゴの中には押し込めて、埋葬のための費用としていくらかの金も一緒に入れました。
朝稚「あとは、これを見つけた人に、事情を説明して葬儀をお願いするための手紙を書きたいが、明かりがない…」
朝稚が困っていると、草むらの中から小さな光がポッと現れて浮かび、朝稚の手元に近づいて照らしました。まるで、手紙を書くのを手伝うと言わんばかりです。朝稚はこの偶然に喜び、なんとか文章を書き留めると、カゴの中にこれも入れました。これでひとまず、すべきことは完了しました。
朝稚「さようなら、時員。私はこれから一人で行くしかない」
朝稚は、例の幣を探しました。しかしどこにも見つかりません。彼は呆然と立ち尽くします。
朝稚「なんということだ。あれがなくては、どちらに進むべきか分からない。氏神は私を見捨てたもうたのか」
しかし、さきに明かりを提供した小さな鬼火は、朝稚の目線まで昇り、何か言いたげに上下します。
朝稚「なんだ、もしかすると、着いてこいというのか? …これはまさか、時員の魂なのか。死んでなお、私を導いてくれようというのだな。なんという忠義だ。わかった、お前に任せるよ」
朝稚は、先導して飛んでいく鬼火を追いかけて、夜通し走りました。やや空が白んできたころ、彼はある小高い山の中腹にいました。細くて曲がりくねった道を鬼火につられて登るうちに、すそは朝露に濡れ、足はすり傷・切り傷だらけになりました。気づけば鬼火は消えていました。
朝稚「どうしてこんな所に… あっ、向こうに屋敷がある」
朝稚は、こんな山の中には不似合いなほど立派に作られた砦が目前にあるのに驚きました。門は、なぜか朝稚が通れる程度に半開きになっていました。
彼がおそるおそる中に入って様子を見ると… 美しい女と、6、7歳ほどの男の子が庭にいました。男の子は木の実を拾って遊んでおり、女がそれを見守っています。他には誰もいない様子です。
読者はお気づきの通り、ここは木原山、そして朝稚が目撃したのは、白縫とその子、舜天丸です。為朝と紀平治は阿蘇の神社に詣でに行っており、残りの連中は山中に作った田んぼの稲を刈りにちょうど総出になっていました。
朝稚は意を決して白縫たちに話しかけました。「もし…」
白縫と舜天丸はハッと朝稚のほうを向きます。
朝稚「驚かせてすみません。ここで休ませてくれませんか。私は父母を探して旅をする者です。昨晩、盗賊に襲われて従者を失い、この山に迷い込んだのです」
白縫「普通の人はこんなところを見つけられないはずですが… 主人は留守で、私だけの一存では、あなたを留めてよいものか、ちょっと判断しかねます。まあそれはともかく、あなた、どうして旅をしているんです。どこの、どなたなんですか」
朝稚は、隠しても怪しまれるばかりと判断して、自分の素性を明かすための話をはじめました。