31. あらし
■あらし
肥後の水俣の浦から出た船は二艘。ひとつは為朝と白縫、その他10余人の郎党。もうひとつには、舜天丸と紀平治、そして高間夫婦と残りの郎党たちが乗り込んでいました。
京をめざして出航した8月15日は、雲ひとつない快晴でした。波は静かで順風にも恵まれ、この上ない出だしです。日が沈んでも様子はそれほど変わらず、月の光を含んだしぶきを金のように舳先から散らして、二艘の船は進みました。
異変は、翌日の明け方近くに起こりました。
急に深い霧があたり一帯に立ちこめて、視界がほとんど失われました。その間、船はどちらに流されたのか見当もつきません。正午ごろになると霧は晴れましたが、そのとき、船のすぐ近くを、きわめて多数のトビウオが飛び跳ねながら横切っていきました。
為朝「トビウオ? こいつは相当な南にしかいないはずの魚だが…」
さらに、水面に細かい泡が立って濁り、いつの間にかクラゲの大群が船のまわりを囲みます。みな、不安で互いに顔を見合わせます。
紀平治「これはどういうことでしょう。ちょっとおかしいですね」
為朝はしばらく海の向こうの方を観察していましたが、いくつかのことに思い当たると、急に顔色を変えました。
為朝「いかん、これは颱の兆候だ! 帆をたため、碇をおろせ!」
高間太郎「あかしま?」
為朝「オレは伊豆に10年以上もいたから、こういうのに詳しくなった。丸一日、またはそれ以上吹きまくる強風が、颱だ。向こうに、帆のような雲が立ちのぼっている。そして、八月は南風が吹くはずなのに、今日は北からだ。極めつけがこのトビウオとクラゲの群れ。オレの知る限りの颱の兆候が、みんな出ている。おそらく今から激しい雨が降るだろう。そうしてその後、当分止まない突風が続く」
高間四郎「どう対処すればいいんですか」
為朝「ない! あたりに島もないこの状況では、オレ達が生き延びる方法はない! おそらく、船は薩摩から何十里も南に流されただろう。ここで海の藻屑となるのがオレ達の運命だ」
紀平治「二艘の船を結びつけましょう! 少しでも沈没しにくくするんです」
為朝「いや、それではむしろ共倒れだ。我々30人のうち、数人くらいは運が強くて生き残るものもいるかもしれん。せめてリスクを分散させる作戦を取ろう」
ここまで為朝が言いかけたところで…
船の前後から、二匹の龍が勢いよく水上に飛び出し、一直線に天に昇りました。そこから海がおびただしく盛り上がって、船は高い波に翻弄されはじめました。そして、空は急に真っ暗になり、次の瞬間には、盆をひっくり返すような豪雨が降りそそぎはじめました。そして、それに続いて、空気のカタマリのような風が叩きつけてきました。
為朝「はじまった!」
暗闇とドシャ降りのせいで、もはや目の前に誰がいるのかさえ分かりません。船の中の全員は、激しく上下する船の甲板の上で、必死に水を船外に掻き出します。しかし、命を限りに働いても、自然の猛威を前にしてはちっぽけなものです。船員たちはすぐに力が続かなくなってしまいました。二艘の船も互いにはぐれてしまっています。舜天丸たちのほうの船は転覆してしまったでしょうか。声を限りに呼んでみても、聞こえてくるのは世の終わりのような轟音ばかり。
白縫が、濡れた髪を振り乱し、足場を踏みしめて叫びます。
白縫「為朝さま! このままではあなた様も命を失います」
為朝「(叫ぶ)ああそうだな、しかたがない」
白縫「私は聞いたことがございます、かつて日本武尊が東征の途中で海難に遭ったとき、弟橘姫命が、みずから入水して神をなだめ、これを救ったと」
為朝「なんのことだ」
白縫「あなた様の武勇は、かの勇者に匹敵いたします。私が弟橘とはおこがましゅうございましょうが、海神をなだめるくらいの役には立てるはずです」
為朝「なにをするつもりだ、やめろ」
白縫「かつて崇徳上皇さまが私に告げたところでは、夫と会えるのは短い時間だけということでした。ここで死に別れるのが私の運命と、今、わかりました」
為朝「やめろ」
白縫「あなたと再会して、子さえもうけて過ごした7年間。楽しゅうございました。悔いはありません。皆が救われるのなら、よろこんで我が身を贄にささげます。源氏の氏神よ、阿蘇の明神よ、そして讃岐院の荒霊よ、わが願いを聞き入れたまえ。海を凪がせ、船を陸まで吹き寄せさせたまえ!」
為朝「やめろ!!」
為朝が抱きとめるのを振り切って、白縫は波高くうねる海に飛び込み、視界から失われて、どこに消えたかもう分かりませんでした。
しかし、海が白縫を犠牲として飲み込んでも、嵐がやむ気配はありません。これを見守っていた郎党たちも、すっかり生きる望みをなくしました。郎党たちは、口々に「為朝さま、我々、一足先に行って、死出の旅の先立ちとなりまする」と叫び、互いに刀を刺し違えたり、みずからの腹を切ったりして、ことごとく死に、海に落ちました。
為朝は、沈みかけた船の上でひとり、悲しみのあまり狂おしく咆哮しました。
為朝「清盛め、ゆがみ平氏め。つくづく悪運の強いやつらよ。龍までも味方につけたとは。妻も子も郎党たちも南の海に失い、オレ自身もここで大魚の餌になるという運命か。いいだろう、もう終わりだ、何もかも!」
為朝はいよいよ刀を引き抜き、自分の腹を切ろうとしました。
そのとき激しい稲光がひらめき、空の中から何者かの怪しい一群が降りてきました。それは異形の天狗たちです。いつか、崇徳上皇の輿をかついでいた者たちです。彼らはそれぞれ船のへりに取りつき、揺れていた船を安定させました。
為朝「お前たちは?」
天狗「讃岐院(崇徳上皇)の命によって遣わされてきた。為朝よ、お前はまだ死ねぬ。これらはすべて、お前に課された試練なのだから。お前はこれを乗り越えなくてはならん。そして、冬の雪を耐えた梅の花のように、百花の長たる香気を世に放つことになるのだ」
為朝は、何も答えることができずに、ただ呆然としています。天狗たちが押す船は、恐るべきスピードで、海の果てに向かって飛ぶように去りました。