32. 神仙、舜天丸を救う
■神仙、舜天丸を救う
南の海で起こった嵐により、為朝の船は行方不明となり、白縫はむなしく海神への犠牲となりました。
もう一艘のほうには、紀平治、舜天丸、高間夫妻と郎党たちが乗っていたのですが、こちらの船もただでは済みませんでした。激しく揺れる船からは、すでに5、6人の郎党たちが海に振り落とされてしまっています。高間太郎が必死に船員たちに指示を出してがんばっています。
紀平治「若君(舜天丸)だけはなんとしても救わねばいかん」
そのとき、海から先端を出していた岩礁に船がぶつかってしまい、大音とともに船はくだけ散りました。奮闘むなしく、郎党たちはみな海の藻屑となりました。
高間夫妻もまた、手を握りしめ合ったまま大荒れの海に投げ出されましたが、彼らは偶然この岩の上にすがりつくことができました。
高間太郎「オレ達だけか、今助かったのは」
磯萩「そう見えます。若君が…」
太郎「為朝さまの船も沈んでしまったか。見当たらん」
磯萩「ああ、白縫さま、お痛ましい!」
太郎「オレ達も、一刻も早くあの方たちの後を追うまでだ!(刀を抜く)磯萩よ、覚悟はいいな」
磯萩「はい、夫に殺されることは本望… しかし、あの世で為朝さまと白縫さまに舜天丸さまがどうなったか聞かれたときに、全く知らないとしか答えられないのは無念です。せめて、舜天丸さまの遺骸だけでも、静かなところまで運んであげたい。それさえ叶わないとしたら、神はあまりに冷たい」
太郎「なるほど、お前のその願い、オレも同感だ。よし、人の最期の一念というものに賭けてみよう。オレ達が霊魂となってあの方をお守りできるように。祈れ、強く!」
磯萩は目を閉じて、強く白縫や舜天丸のことを念じました。その彼女の白い胸に、太郎の刀の切っ先が突き立てられました。太郎はすぐに自らの腹も切り裂き、二人は同時に息絶えました。流れる血も、そして二人の死体も、雨と波が洗い、そしてあとかたもなくさらっていきました。
こちらは紀平治のほうです。彼の水泳術は琉球で見せたように超一流のものでしたが、いかにもこの場面では限界があります。片手には木切れを抱え、そしてもう片手には舜天丸を頭上に持ち上げて守りながら、うねる波、激しい雨の中に浮き続けていますが、どちらに向かえばよいかさえ見当がつきません。
紀平治「どちらに行けば島があるのかも分からん。このままでは遅かれ早かれ力が尽きる」
遠くに光るものが見られました。紀平治は、そちらに泳げばなにか助かる可能性があるのではと考えて、最後の力をふりしぼって泳ぎました。
しかし、光っていたのは、巨大な沙魚の両目でした。体長が10メートルはありそうな超特大のワニザメで、口には刃物のようなキバがギッシリと並んでいます。(まとめ筆者はワニザメがどんな魚か知りませんが…)
紀平治「いかん、この体勢ではオレは刀を抜けん。しかし、刀を抜いてあれを倒したところで、生き延びる見込みが増えるわけでもない。万事休すか。若君、すまぬ。ここまででござる」
紀平治が死ぬ覚悟を決めたその瞬間… 目の前に二人の人間の姿が煙のように現れました。それは高間太郎と磯萩です。二人は二つの鬼火に姿を変え、ワニザメの口の中に飛び込みました。ワニザメは口を閉じると、急におとなしくなって、ザブリと波をくぐると紀平治(と紀平治が抱えていた舜天丸)を背中に乗せました。
紀平治「何が起こった… これは、高間夫婦が死んでこの魚に魂を憑依させ、舜天丸さまを助けようとしてくれているのか。なんとすさまじい一念だ、日本にも唐にも、ここまで激しい忠心を持ち得た者たちはいなかった!(感涙)」
そのまま魚はどこかに進み続けました。やがて風雨も収まり、日が暮れてきました。紀平治は為朝たちがどうなったかが心配でなりませんが、今はこの魚に身をゆだねるしかありません。翌朝の明け方ごろ、魚はようやくある島のほとりに着き、そこで止まりました。
紀平治「ここで降りろというのだな。まったく見たこともない島だが…」
魚は紀平治が陸に降り立ったことを確認したあと、背を向けて泳いで岸から離れると、魚から二つの鬼火が飛び出して、そして魚もろとも虚空にかき消えました。
紀平治「高間たちよ、ありがとう… 若君はオレが守って育てていくから安心して成仏してくれ。さあ若君、もう安全ですぞ。目をお覚ましくだされ。陸についたのです。若君。…舜天丸さま。どうなされた。目をお覚ましください」
しかし舜天丸は目覚めません。たまった雨水を口に流し込んでやろうとしても無駄でした。彼はいつの間にかこと切れていたのです。
紀平治は泣きじゃくりました。「若君が死んでしまわれた。最年長の私だけが生き残ってどうなるというんだ。高間たちの犠牲も、けっきょくこの運命を変えられなかった。…舜天丸さま、せめてふさわしい場所に葬りさしあげてから、わたしも後を追いますぞ」
紀平治は、ここはどういう国だろうと怪しみながら、あたりを見渡しました。それほど大きくない島のようですが、頭上には雲をまとった高い峰が見上げられます。あたりの木々には今まで見たことがないような木の実がなっています。
紀平治は山に登ってみることにしました。家は一軒もありません。草花はよい匂いがし、さまざまな鳥の声が森に響き渡ります。奥に進むほどあたりはこの世ならぬ雰囲気を帯びてきて、心なしか読経の声も聞こえるようです。
紀平治「仙人でも住んでいそうな感じだ。もしそうなら、若君の供養の方法も教えてもらえるだろう。いや、ワンチャン、生き返らせてくれるかも」
そのまま読経の声のするほうをめざし、岩をよじのぼって頂上近くまで進んでいくと、不意に桃の木の林を見つけました。その中に、赤い帽子、白い装束を身につけたひとりの老人が座っています。眉もひげも白く伸び、絵に描いたような仙人風です。
仙人「やあ」
紀平治は、抱えている舜天丸の命をよみがえらせてくれるよう頼んでみました。また、どういう事情で今ここにいるのかも、詳しく説明しました。
仙人「うん。この子の命数はまだ残っているから、簡単に生き返らせることができる」
仙人は舜天丸の口に自分の息を吹き込みました。舜天丸はたちまち目を覚まして大声で泣き出しました。仙人が揺すってあやすと、舜天丸はすぐに泣き止んでキョトンとしました。
紀平治は「うおおっ」と叫んで感謝の涙を流し、仙人を伏して拝みました。
仙人「まあまあ、そんなかしこまらないでよ」
紀平治「あなた様は紛れもない神仙でございます! どうかお名前をお聞かせください。また、できましたらここがどこなのかも教えてください」
仙人「名前とか、特に持ってないんだよね、ワシ。まあ、源氏に昔から好のある者、とだけ言っておくよ。この島は、姑巴汛麻ってところだよ」
紀平治「姑巴汛麻」
仙人「うん。琉球国の中山から西に48里離れている、無人島だ。お前はこれから琉球の地理に詳しくなっておく必要があるから、もうちょっと詳しく教えてあげる。ほら、ノートとシャーペンをあげよう」
紀平治は、この場で琉球国の地理や名産品、住民たちの文化についての詳しいレクチャーを受けました。
仙人「その子は、13、4歳になったとき、立派な仕事をすることになる。そのときまで、お前がここでこの子を育て、教育しなさい。武芸も、学問も、おこたりなく」
紀平治「あなたがやるんじゃダメなんですか」
仙人「私は今からここを出て行く用事があるんじゃよ。この島はお前たちにあげるから、ここで好きに過ごすがいい」
紀平治「はあ。しかし、私の学問は、教えるほど大したものじゃないですが…」
仙人「この巻物をあげよう。これは源氏に伝わる兵書だ。最後にこれを持っていたのは義朝だが、彼が死んだあとは、骨董屋に流れておった。こんな日が来ることは知っていたので、ワシがあらかじめ買っておいたんじゃ」
紀平治「あなた様は色々なことを見通していらっしゃる。もしや、為朝さまたちがどうなったかもご存じなのでは」
仙人「そういう人の運命に関わることは、みだりに人に教えんもんじゃ。決まっていることが狂っちゃうことがあるからね。そのうち分かる、とだけ言っておく」
紀平治「…わかりました」
仙人「この島では穀物は取れんのじゃが、木になる桃を食っておれば、飢えることはない。だから島から出る必要もないぞ。舜天丸君の教育だけに専念していてくれ。あと、桃の枝で矢をつくり、これを祀って悪の力を防いでおくがよい。矢を三本つくり、それぞれ、伊勢大神宮、男山正八幡、阿蘇明神と名付けて、これへの祈りを欠かさんことじゃ」
紀平治はすべて承知しました。仙人は、ではよろしく、とだけ言うと、天に浮かび、風に吹かれて消えてしまいました。
紀平治はしばらく考えにふけりましたが、とりあえず舜天丸といっしょに桃の実を食べるところから始めました。この桃は信じられないほどうまく、飢えがすっかりおさまって、当分何も食べないでもよい気分になりました。
次に、手頃な桃の枝を切って矢を作ったのですが、そのとき木の枝に金のフダがひっかけられていることに気づきました。なんとこれは、紀平治が筑紫で為朝と一緒に助けたツルが足に結びつけていたものと同一でした。紀平治は、あの仙人の正体がなんとなく分かった気がしました。
この日以来、紀平治は舜天丸に武芸と学問をみっちり教え込む暮らしを始めました。舜天丸は紀平治の心を知り、それに応えるために毎日の修練に明け暮れました。
舜天丸は、10歳のころにはすべての武芸において紀平治より上達し、兵書についても読めば読むほど新たな知恵を発見しました。
そして、父と母が懐かしくなるたびに、桃の木で作った三本の矢を拝んで「いつか再会の日がきますように」と心から祈ったのでした。