椿説弓張月、読んだことある?

43. 闇の底

前:42. 毛国鼎の息子たち

■闇の底

逃亡中の鶴と亀は、母が急に産気づいたので慌てふためきました。そこに幸い通りがかった老婆が、対処を手伝ってくれるということになりました。実は、老婆の正体は阿公(くまぎみ)です。どちらも、互いの正体は知りません。

阿公(くまぎみ)「まず、妊婦の状態をよく見せなさい… ふうむ、今にも生まれそうじゃな。しかしこの健康状態では、産道がじゅうぶんに開かんぞ。危険じゃ」
鶴・亀「どうすればよいですか」
阿公(くまぎみ)「薬が必要じゃ。さいわい、ワシには薬の知識がある。桃仁(とうにん)芍薬(しゃくやく)牡丹皮(ぼたんひ)茯苓(ぶくりょう)肉桂(にっけい)。これらを等分に混ぜ合わせて催生湯(さいせいとう)をつくる必要があるぞ。…おい、そちらの年上」
鶴「はい」
阿公(くまぎみ)「薬の材料を、大至急買ってきなさい。ここから北に行って、富蔵河(ふぞうがわ)のほとりを道なりに行きなさい。そこに薬屋があるはずだから」

鶴は、弟に「母のそばを離れるなよ」と言い残して、夜の道をダッシュして消えていきました。

鶴の姿がすっかり見えなくなったタイミングで、阿公(くまぎみ)は「あっ、ひとつ言い忘れたわ」と言って舌打ちしました。

亀「何をです」
阿公(くまぎみ)芍薬(しゃくやく)は、特に赤いやつでないと効き目がないんじゃ。それを言いそびれた。おぬし、兄を追ってこのことを伝えてやってくれ」
亀「でも、私は母のそばを離れるわけには…」
阿公(くまぎみ)「ばかもん、兄が間違った薬を持ってきたら何もかもパアじゃろうが。お前なんかが100人ここにいたって、何の役にもたたんのじゃ。急げ、間に合わんくなるぞ!」

亀は、阿公(くまぎみ)に叱られて、やむを得ず自分も、兄を追って夜の中に走り去りました。


月はすっかり沈んでしまい、あたりは闇です。

阿公(くまぎみ)新垣(にいがき)とふたりきりになると、声をひそめて優しい声で話し出しました。「おぬし、苦しかろうの。その年齢で、しかもその病弱の身で子を産むのは」

新垣(にいがき)は陣痛の苦痛に息も絶え絶えです。

阿公(くまぎみ)「よく聞きなさい。さきほどお前の体をよく確かめたが、子はまだすぐには産まれん。まあ、明日の朝といったところじゃろう。しかし、あの息子どもを追い払ったのには理由がある」

新垣(にいがき)「…?」

阿公(くまぎみ)「ワシは、わけあって、生まれたばかりの男の子を探していたのじゃ。お主のその子、それをくれ。見たところ、そこに入っているのは男子で間違いない。おぬし、どうせその身では生きて子を産むことはかなわんぞ。いっそ楽になれ。ワシにその腹を裂かせろ」

阿公(くまぎみ)新垣(にいがき)のふところを探ると、親の形見であるという短刀が入った袋を取り出しました。さきの会話をきいて知っていたのです。新垣(にいがき)は、その袋のヒモにすがり、苦しさの中、虫の鳴くようなかぼそい声で懇願します。

新垣(にいがき)「死ぬという定めなら仕方がありません。命なんて惜しくはないわ。でも、私がこんな死に方をしては、鶴と亀の悲しみはいかほどでしょう。せめて私が子を産んでから、それを持って行くなり何なりして。お産の途中で死んだ女は、怪しき鳥に生まれ変わり、雨の夜ごとに迷い出るといいます。そんな罪には耐えられない」

阿公「フン、今こそが千載一遇のチャンスなんじゃ。そんな頼みを聞くわけにはいかんのう。それに… よろしい、冥土のみやげに教えてやろう。おぬしはたいへんな果報者なんじゃぞ。その子は、琉球国の国王になる定めなんじゃ。詳しい事情は面倒だから省くがのう」

新垣(にいがき)はその言葉を聞いてショックをうけました。実は、少し前に、さる陰陽師におかしな占いを聞かされたことがあったのです。「生まれてくるその子は、短命ながら一国の王になる定めである」と聞かされたのです。まったく本気にもしていませんでしたが、こんなところで「国王」という言葉をふたたび聞くことになろうとは。

新垣(にいがき)「そんなばかな。それではあの人は、夫は、本当の反逆者となってしまうじゃないの。だめです、そんなことは、絶対…」

阿公(くまぎみ)は、目の前に居るのが毛国鼎(もうこくてい)の妻とは知りませんから、言っていることの意味がよくわかりませんでした。「何やらうわごとを言い始めたな。これまでじゃ」

新垣(にいがき)「鶴! 亀! はやく戻ってきて!」


富蔵河(ふぞうがわ)のほとりに遣いにやられた鶴と亀は、あたりに薬屋どころか民家さえほとんどなかったので、あの老婆に騙されたと気づきました。辛うじて付近の家でタイマツをもらい、急いで母のいる場所に戻ってきたのですが…

鶴・亀「母上! どこです!」

どこかでかすかに、赤子の泣き声が聞こえたような気もします。

鶴・亀「…生まれたのか?」

駕籠(かご)の中に新垣の姿はありません。老婆もいません。どこにいるのかとあたりを探すと、右手の草むらの中から女の足が突き出ているのを見つけました。

それが、母の変わり果てた姿でした。腹を裂かれ、中に居た赤子を盗み去られていたのです。兄弟が両肩をささえて助け起こしましたが、もう完全に死んでいました。

亀は、いくども母の体を揺すり、「返事をしてください、母上」と繰り返しました。涙があふれて止まりません。兄は多少の分別を保っていますが、こぶしを握りしめ、痛ましさと悔しさに煮えるような涙を流しているのは同じです。

鶴「あの老婆が、オレ達をだまして、母の(はら)を裂いて子を奪ったのだ。新生児の体はある種の薬に使うことができるというが、そのつもりなのだろうか」

亀「…すぐに追って、あの鬼ババアをを討つ!」

亀が怒りにまかせて立ち上がるのを、鶴は引き留めました。「いや、どちらの方向に行ったかさえ分からないのでは、この真夜中に追うのは無理だ。賊の仲間はほかにいるかも知れない。父上は、よりは、、といつも私たちに教えてくれた。あの老婆の罪は、きっと天が裁いてくれる」

鶴「だから今はまず… 母上が恥ずかしくないようにしてあげなくては」

鶴と亀は、母の遺体を駕籠(かご)に乗せ、富蔵河(ふぞうがわ)までよろよろと運んで行きました。父も母も失い、兄弟二人での悲壮な行進です。そうして母をしめやかに水葬しました。(当時の琉球には、土葬や火葬の習慣がないのでした。)英雄・毛国鼎(もうこくてい)の妻が、誰にも列席されず、カラスや犬ばかりに見送られるというのは、この上なくわびしいことでした。

鶴「そういえば、母の懐に、親の形見だといっていた例の短刀がなかったな」
亀「きっと、母を殺す凶器としてあの老婆が使ったんだ。そして証拠隠滅のために持ち去った」
鶴「きっとそうだな。…父は無実の罪に命をおとし、そして母は腹を裂かれて胎児を奪われて死んだ。そうして、宝の刀まで奪われた。神はほんとうにいらっしゃるのだろうか。こんな理不尽を、天は許してよいのだろうか」

兄弟は、白みはじめた空の下、滔々(とうとう)と流れる富蔵河(ふぞうがわ)を眺めて、父母の冥福を祈ってひたすら合掌していました。どちらからともなくむせび声が出て、それは二人の間で増幅し、やがてあたりをはばからない号泣となりました。

そのとき、二人の後ろで、ドサリとだれかが倒れる音がしました。

鶴・亀「何だ?」

そこには、ひとりの大男が、刀を抜きかけたままで仰向けに倒れ、血を吐いて死んでいる姿がありました。

亀「あっ、これは、父の家来だった、握翁報(あくおうほう)だ。どうしてこんなところに… 刀を抜きかけているところを見ると、オレ達を殺しにきたんだろうか」

鶴「きっとそうだ。オレ達の首を持って、王宮に投降するための手土産にしようとしたんだと思う。危ないところだった。しかし、どうして死んだんだろう。君眞物(きんまんもん)の助けなのかな」

風にそよぐ柳の葉が、不意に兄弟の目を引きました。その下には、人間のような姿がモヤモヤと浮かんでいます。高い官位をしめすその装束には、見覚えがありました。いいえ、見覚えがあるどころではありません。

鶴「あれは… 父上!? 助けてくれたのは、父上だったのですか」
亀「父上だ! ああ、無事だったのですか。父上! 亀ですよ!」

しかし、二人が喜んで柳の下に駆け寄ると、毛国鼎(もうこくてい)の姿はかき消すようになくなってしまいました。

亀「いない! どこにも」

鶴「…そうか。あれは父上の霊だったのだ。最後にオレ達を助けてくれたんだ」


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