椿説弓張月、読んだことある?

45. 赤瀬の碑

前:44. わざわい

赤瀬(あかせ)(いしぶみ)

寧王女(ねいわんにょ)は、利勇の放った刺客に襲われて絶体絶命だったときに、その身に白縫(しらぬい)の霊が乗り移ったことで超人の力を得、なんとかその場を逃げ出すことができました。その後、彼女は恩納嶽(おんながたけ)に分け入ったのですが…

翌日の明け方、ここに偶然、査國吉(さこくきつ)も到着しました。彼は新垣(にいがき)とその息子たちを逃がし、自分自身は手傷を負って別に逃れていたのです。

査國吉(さこくきつ)「…王女(わんにょ)! よくぞご無事で」
寧王女(ねいわんにょ)「お前こそ! ほかの皆はどうなりましたか!」

ここで二人は互いに、今まで見聞きしたことをそれぞれ交換しました。(白縫はいったん王女(わんにょ)の体から離れています。)王女(わんにょ)は、真鶴(まなづる)が自分を助けようとして死んだことを話し、改めて身も世もなく泣き崩れました。

査國吉(さこくきつ)がなぐさめかねて立ち尽くしていると… この場に、新たに二人の人物が現れました。山で暮らす狩人の夫婦のように見えます。

夫婦「もし。あなた様は、逃亡中の寧王女(ねいわんにょ)さまでございましょう」
王女(わんにょ)「えっ…」
夫婦「ここは蛇や猛獣が出て危険です。しばらく、我々の住居におとどまりください」

どうも、二人を助けてくれる様子です。二人は素直に感謝し、この二人についていくことにしました。この狩人夫婦は実に善良で、しばらくの間、二人をかくまいながら、精一杯にもてなしをしてくれました。滞在しはじめのころ、査國吉(さこくきつ)は傷が破傷風になって苦しみましたが、10月の中頃になって、これもなんとか治りました。

ある日、この夫婦は、都のウワサをいろいろと仕入れ、王女(わんにょ)査國吉(さこくきつ)に教えてくれました。

夫婦「都はたいへんなことになっておりますぞ。中婦君(ちゅうふぎみ)が産んだという子が、王の世継ぎに指名されたのです。その記念パーティの最中に、朦雲(もううん)国師(こくし)が、妖術をもってという獣を出現させ、これによって尚寧王(しょうねいおう)中婦君(ちゅうふきみ)が殺されました。利勇(りゆう)だけが、残った王子を連れて逃げていったということです」

寧王女(ねいわんにょ)「…尚寧王(しょうねいおう)! 父が! 死んだというんですか…」

寧王女(ねいわんにょ)はヒザから崩れて倒れ伏し、そして声をわななかせて泣きました。「母も父も失い、私にはもう生きる意味がない」

夫婦「王女(わんにょ)、まだ続きがございます。朦雲(もううん)は、をあなた様に向けて放ち、そのあとを兵たちもついてきています。このままここにとどまるのは危険です」

寧王女(ねいわんにょ)「そんなのを待つまでもない、私は今すぐ刀に伏してみずから死にます」

査國吉(さこくきつ)が王女を叱ります。「王女(わんにょ)、そうしてみすみす死ぬのは、親への孝行とは言いがたいですぞ! 逃げるんです。そうしていつか、逆賊・朦雲(もううん)を滅ぼしましょう。そうして国中を払い清めてこそ、無念の死をとげた王への孝行なんです」

寧王女(ねいわんにょ)「うう…」

査國吉(さこくきつ)寧王女(ねいわんにょ)を連れ、山を西の方向に越えて、より遠くに逃げることに決めました。狩人の夫婦にお礼を言って出て行こうとすると…

夫婦「ご無事で! 私どもは、追っ手を少しでも食い止めます」
王女・査國吉(さこくきつ)「えっ! お前たちが?」

狩人夫婦は敵が迫ると思しい方向に走り去りましたが、その直後、住んでいた家がマボロシのように消えてしまいました。少しの間、二人は驚きに立ち尽くしましたが、やがて二人は、これは神の助けだったのだろうと気づきました。

査國吉(さこくきつ)「我々を君眞物(きんまんもん)が助けてくれている… まだ希望は失われていない。さあ、行きましょう!」


さて、そのまま二人は海岸を目指して走りましたが… やがて、ガチャガチャという音をたてながら兵たちが追ってきました。先頭にいるのは、世にもあやしい猛獣、です。

査國吉(さこくきつ)「私がここを支えます、王女(わんにょ)は先に行ってください!」

査國吉(さこくきつ)はこう言うと敵の方向を振り返り、腰の刀をスラリと抜きました。この姿に激怒したが、一段と足を速めて隊から飛び出し、査國吉(さこくきつ)に飛びかかりました。國吉(こくきつ)は素早く二・三度、獣の攻撃をよけて、力の限りに刀を突き立てました。

しかし、不思議なことに、刀は獣の体に触れるやいなや、アメ細工のようにポキポキと砕けてしまいました。また、治りかけていた傷口が開いて、國吉(こくきつ)の体中から血が噴き出し始めました。

國吉(こくきつ)「な、なんだ、これは。おのれ、負けるわけにはいかん」

査國吉(さこくきつ)(もも)に食いつきました。査國吉(さこくきつ)は柄だけになった刀を投げ捨て、の首を脇に捕まえると、これを思い切り締め上げました。両者とも、あらん限りの力をこめて地面を踏みしめています。

「グググ」
國吉(こくきつ)「死ね、バケモノ。死ね」

この力勝負を決したのは、査國吉でもでもありません。朦雲(もううん)の放った兵たちが、査國吉の脇腹を左右から刺し貫いたのです。ついに勇士・査國吉(さこくきつ)までが、無残に命を散らしました。

王女(わんにょ)は、査國吉の決死の忠義を無駄にすまいと、単身、必死に走りました。やっと海辺に出ることができましたが、そこには二人の少年が待っていました。

王女(わんにょ)「あなたたちは?」
少年たち「話はあとです。乗ってください! 急いで!」

王女を乗せると、この少年たちの乗っている丸木舟は、風のようなスピードで岸から離れ始めました。ロクに漕いでいないのに、実に不思議なことです。これもまた、神の助けなのでしょうか。

やがて岸は遠くなりました。やっと追いついた(わざわい)も、もちろん泳いでは来られませんし、敵兵たちも右往左往しています。なんとか一息つくことができました… が、王女(わんにょ)の頭の中は疑問でいっぱいです。

王女(わんにょ)「あなたたちは誰なの? どうして私が来ると知っていたの?」
少年たち「順番にお答えします。まず我々は、毛国鼎(もうこくてい)の息子、鶴と亀」
王女(わんにょ)「!!」

鶴と亀は、今までの事情を語り始めました。涙なくしては聞けない、実に過酷な話です。すなわち、査國吉(さこくきつ)の協力で母を連れて逃げたこと、その母は胎児を奪われて殺されたこと、その後、富蔵河(ふぞうがわ)で父の亡霊を見たこと、です。

王女(わんにょ)「なんてこと…」
鶴・亀「母を葬った晩、我々は夢で父に会いました。そこでは父が『海に出て、丸木舟を見つけよ。そうしてその場で、寧王女(ねいわんにょ)を待て。必ず来るはずだから』と言いました。二人とも同じ夢を見たので、これは父からのメッセージだと確信し、さっき、あそこでずっとあなた様を待っていたんです」

それから王女と鶴・亀は色々と話を交換し、今回、実にたくさんの人々が命を落としてしまったことを知りました。毛国鼎(もうこくてい)査國吉(さこくきつ)新垣(にいがき)廉夫人(れんふじん)真鶴(まなづる)、そして尚寧王(しょうねいおう)

王女「すぐれた人々が、たくさん、たくさん死んでしまった…」
鶴・亀「…」
王女「そして、それらの人の霊は、きっと私たちを助けてくれているんだわ」
鶴・亀「そうですね…」

船は飛ぶように走り続け、三日後には、小琉球(しょうりゅうきゅう)の北の端に着きました。この島には200ほどの村があり、決して小さな島ではありません。しかし王女(わんにょ)たちが流れついたところは、(あし)が生い茂る無人の浜辺です。

鶴・亀「この近くに、赤瀬(あかせ)(いしぶみ)があるはずです。初代天孫(てんそん)氏が建造したという伝説がある石碑です。父の霊によると、そこにとどまれば、敵の攻撃をさえぎることができる、ということでしたが…」

一行は、やがてその石碑を見つけることができました。10メートル近い大きさの円柱型で、特に文字は彫られていません。しかし、前面にはひとりの美人の像が彫りつけられています。まるで生きているかのような精巧さです。

彼らはここに野宿しながら滞在しました。1日、2日とたち、そして3日目。とつぜん、まわりの水鳥たちがいっせいに飛び立ちました。

鶴・亀「来る! 朦雲(もううん)たちの手勢が近づいてくる」

やがて、地面を揺るがすような響きが大きくなってきました。50人ほどの兵たちが、やっと船でこの地に着いたのです。は、不思議な力で王女(わんにょ)がどこにいるのかをすぐに嗅ぎ当てることができるのでした。

鶴と亀が、これに応戦を始めました。少年と思ってあなどっていると思いのほか強く、兵たちはこの二人の太刀筋にひるみます。

鶴・亀「うおお」

しかし、悲しいかな、多勢に無勢と言わざるを得ません。12歳と14歳の少年は簡単に体力に限界が来て、敵に捕らえられてしまいました。

寧王女(ねいわんにょ)には、もう一度白縫(しらぬい)が乗り移ったようです。彼女の武芸は、なかなか人間離れしています。稲妻のようなフットワークで飛び回り、恐ろしい形相で得物を振り回しては、当たるをさいわいに敵をバラバラと斬り倒していきます。

兵たち「いかん、強すぎる。をけしかけろ!」

例の獣が出てきて、王女(わんにょ)に飛びつきました。王女は刀を突き立ててこれを迎え撃ちましたが、査國吉(さこくきつ)のときと同様、獣の体に触れた刃物は、たちまちボロボロに崩れてしまいます。王女(わんにょ)はとっさに飛び退き、(いしぶみ)の後ろに隠れました。

そこでおかしなことが起こりました。は、(いしぶみ)に彫ってある女性像を、王女(わんにょ)と見間違えたのです。そうして、石の表面にガチリと噛みつきます。すると、10メートルもある碑がグラリと揺れて… 島中に轟音を響かせながら倒れました。17,802年前に建てられて、どんな暴風雨にもビクともしなかった伝説の碑が、目がけて倒れたのです。

は、この石碑の下敷きになってしまいました。体を半分地面にめり込ませて、口から泡を吹き、動かなくなりました。敵兵たちも何人か巻き込んでおり、向こうにとってはかなりの大惨事です。

王女は無事でしたが、衣装の(すそ)が碑と地面にはさまっています。すぐには動けません。

王女(わんにょ)「ハア、ハア…」

兵たち「今しかないぞ! 王女(わんにょ)を討ち取れ!」

30人ほど残った兵たちが、一斉に王女を目指して突入してきました。この状況ではとても撃退できなさそうです。王女は死を覚悟しました。


そのとき、横の岸のヤブの中から、一本の矢が撃ち出されました。そしてそれは、ブンとうなって飛び、一度に敵を二体串刺しにしました。

そしてもう一本。ふたたび、別の二体が串刺しに。

さらにもう一本。

この「百発二百中」の矢筋(やすじ)は誰のものでしょう。

王女「…!」

敵兵たちは、これが誰の者なのかを確認する間もなく、パニックに陥って逃げていきました。鶴と亀は捕らえたのですから、命があるうちにいったん退却の道を選んだのです。

王女は、ひとり、矢の撃ち出された場所を、目を丸くして凝視しています。

そこからノッソリと現れた、威風凜然たる大男。左の腕だけが四寸長く、金の武具をまとったその姿は。

王女(わんにょ)の体を借りた白縫(しらぬい)の魂が叫びました。

王女「為朝さま!」


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