57. 桃の花の童子
■桃の花の童子
戦に負けて疲れ果てていた為朝と白縫を間一髪で助けたのは、佳奇呂麻島の村長、林太夫でした。彼らを乗せた船は、敵に追いつかれる直前に松山の磯を出航して、氷の上を走る石つぶてのように沖に出ることができました。
為朝「そうだ、そういえばお前は佳奇呂麻の村長だ。七年ぶりくらいか」
林太夫「覚えていてくださいましたか」
為朝「うむ、最初はわからなかったが、辛うじてな。なぜオレたちがあそこにいると分かったんだ」
林太夫「夢のお告げがあったのですよ。それは追って説明しますが、まずは腹ごしらえをしてはいかがです」
林太夫は船底から弁当と酒を取りだし、二人にすすめました。島民が普段食べるような何でもない食事ではありますが、今の為朝と白縫にとってはこの上ない美味でした。
為朝「ああ、実に生き返るようだ。オレはさっき火攻めにあったとき、馬の腹を裂いてそこに隠れ、その馬の血をすすって喉をうるおしていた。馬の血肉をくらった者は、すぐに酒で毒を中和しないと、体中にカサブタができて死ぬと言われている。だからさっきまで非常に調子が悪かったのだ。太夫よ、お前の助け、値千金だ。恩は忘れん」
林太夫は謙遜し、さっき話しかけた『夢のお告げ』がどういうものだったのかを改めて説明しはじめました。
林太夫「おととい見た夢です。屋敷の門に、あやしい修験者が訪ねてきたのです。真っ赤な顔をして鼻が高い、大きな体の人でした。そして私に、『あさって、為朝と王女が松山の磯でピンチに陥るはずだから、行って助けてやれ。早く行かねば後悔するぞ』と言ったのです」
林太夫「私は、あなたは誰なのかと聞きました。あの人は、『讃岐の象頭山に住むものだ。崇徳院の使いで来たのだ』とだけ答えて、そのあとはかき消えるようにいなくなりました。ただの夢とは到底思えないような迫力でしたので、私は本当にここに来て見ることにしたのです。普段では考えられないほどスムーズに舟が進んだので、まるで神にでも導かれているように思いました」
為朝と白縫は、強い感動に打ちのめされたかのようです。「崇徳院が我らを今回も救ってくださったのだ!」 そうして、夫婦ともに、東のほうを向いて、身をなげうつように礼拝しました。林太夫も、よく事情は分からないながら強く感動しました。
為朝は、あらためて、さっきの戦の様子を説明しました。朦雲の軍にボロ負けして、陶松壽たちのような勇士が行方不明になっているというのは、林太夫にとってもきわめて痛ましいことでした。
為朝「…ところで、この舟は佳奇呂麻には向かっていないようだな」
林太夫「はい、そちらに戻るには、今日は風がよくないのです。今晩はいったん別の島で夜を過ごし、明日そこに向かおうと思います」
為朝「なるほど」
林太夫「目の前に小島がいくつか見えてきましたな。あの中のひとつ、巴麻島に舟をとめましょう。無人島ですから人に見つかることはないでしょう」
夜も更けかけたころに、三人をのせた舟は、無事に巴麻島に係留できました。水と食料はじゅうぶんに積んであるので陸にあがる必要はなく、三人は舟の中で眠って一夜を過ごすことにしました。ただ、波が舟をうつ音はけっこう大きく、実際に眠るには難しいようでした。
為朝は梶をマクラに星空を眺めていましたが、明け方近くに、島のほうからかすかな笛の音を聞きました。
為朝「む、この島には誰も住んでいないはずだよな」
林太夫「はあ、変ですね」
白縫「仙人でもいるのかしら」
為朝「仙人か。それだといいな。朦雲攻略のヒントでも教えてもらえるかも」
為朝は、白縫を連れて陸にあがり、太夫には留守番を頼んで、島の真ん中の山に登ってみることにしました。血にまみれた上着は脱いで、一応のみそぎをして身を清めてからから出かけました。
笛の音につられて島の奥に進むにつれて、あたりの風景には不思議な感じが漂いはじめました。心が澄むような平安さがあるのです。そして、ある木陰から、この笛の音の主が現れました。白い鹿を連れた子供です。水を汲んだヒョウタンを腰にさげ、桃の花を身につけています。彼は、為朝夫婦を見て、笛を吹く手を止めました。
為朝・白縫「あ…」
子供「(にっこり)我が師のおっしゃったとおりだ。大里の領主、為朝とその妻の白縫が来るとの予言、まことにその通りだね」
為朝「…それがしをご存じですか」
子供「もちろん。為朝さん、我が師から伝言がありますよ。お聞きなさい…
『朦雲を滅ぼそうと思うなら、ただちに姑巴島に渡ること。大きな助けがそこにある。しかし、為朝は現在43歳、絶命遊年にあたるため、戦いを起こすのは少し待ち、来年の春に行うのがよい。為朝が功をとげた後、私はお前に会うだろう。6年後に八頭山で待て』
為朝と白縫は、この一語一句を胸に刻むようにして聞きました。
為朝「ありがとうござる。あなた様のお師匠とはどういう方か、聞かせてもらえませんか」
子供「お師匠のことは、今は詳しく言えないんです。でもいつか分かるはずですよ。これを持っていってください」
子供は、腰に挿していた桃の枝を抜き取ると、為朝に渡しました。為朝はこれを両手でうやうやしく受け取りましたが、ちょっと意味がわかりません。これは何ですか、と問おうとしますが、子供は、じゃあね、とだけ言い残すと、白い鹿を連れて背を向け、テクテクと歩いて去りました。そしてすぐに、どこに消えたか分からなくなってしまいました。二人だけがこの場に残されました。
為朝・白縫「…この桃の枝は?」
桃の枝をよく見ると、八つの花がついています。上の二つはまだつぼみのままで、下の六つは、花は開いているものの、しおれかけています。
為朝・白縫「これに何か意味があるのか?」
為朝は持っている枝を裏返してみました。そこにはちいさな短冊がむすびつけられており、下のように記されています。左右が裏返った文字です。
いにしへのためしも思い
いづの海にこととふ鳥の
跡を見るかな
為朝はしげしげとこれを眺め… そしてあっと叫びました。
為朝「オレが書いたんだ、これは! 伊豆にいたとき、鶴がオレに謎の歌を運んできて… オレはそれへの返答としてこれを書いた。左右が裏返っているのは、これを受け取った者が、さらにこの短冊に転写したんだ」
白縫「ど、どういうこと。これは何を意味するの」
為朝「はっきりとは分からんが… あの鶴は、そもそもここから来たのだ。九州でオレに出会い、お前と出会う縁となり、伊豆のオレにも連絡をし、そして今もまた、気配をここに残している。八幡太郎・義家朝臣の放ったあの鶴が…」
白縫「私たちは、源氏の神に守られている…」
為朝「こうしてはおれん。すぐに、あの童子の言っていた姑巴島に行こう! 林太夫の守る舟に戻るんだ」
為朝たちは急いで舟に戻ると、林太夫に今あったことの説明をし、すぐに姑巴島に向かうよう頼みました。
林太夫「それはすばらしい吉兆じゃ、すぐ行きましょう!」
舟が出てしばらくすると、為朝が持っていた桃の枝についている花のうち、しおれかけていた六つの花が元気を取り戻し、生き生きとしてきました。そればかりでなく、つぼみのままであった上の二つも、朝の光をうけながら見る見るほころんで行き、馥郁とした匂いを振りまきながら、美しく開いたのでした。