58. 舜天丸
■舜天丸
為朝・白縫・林太夫をのせた小舟は、数十里の距離をおそるべきスピードで進みました。明け方に出発して、目指す姑巴島に到着したのは、その日の昼下がりのころです。
姑巴島は、いざ目にしてみると、為朝たちが予想したよりも小さな島です。しかし、真ん中には、これに似合わないほど高い山がそびえており、中の谷を外界から隠していました。
為朝たちは舟を岸につけ、三人で上陸すると、この山に登っていきました。聞き慣れない鳥の声が聞こえ、心が洗われるような平和な風景です。そして、山の峰を越えて谷に入ると、中は桃の木の林でした。ここの桃は、季節を問わず、花が咲き、実がなっているようです。あたりは花の匂いに満たされており、酔うような、それでいて覚めるような、なんとも現世離れした感じです。
為朝たちは、この林の中で、少年が書物を朗読する声を聞きました。三人は、手近な木の後ろに隠れて、何が起こっているのかをうかがいました。書を読んでいるのは十代前半くらいの長髪の美少年、そしてそれを下座から見守っているのは、白いヒゲを伸ばした、ガリガリの老人です。どちらも木の葉で作ったような粗末な服を着て、花のクッションの上に座っています。
為朝は、少年が今読んでいる内容について、不思議と心当たりがありました。「おかしいな、この内容は、源氏に伝わる幻の兵書にそっくりだぞ。最後に持っていたのは、兄・義朝だったはずだが… 仙人が読むにしては、変だな」
少年は、兵書の内容がこの若さですっかり身についているようで、立て板に水のごとく、朗々と読みつづけます。時々老人がこれを中断して、内容についていくつか問題を出してみせるのですが、これに対しても打てば響くような素晴らしい賢さで、次々と難問を突破します。為朝でさえ、こんな天才的な子供は見たことがありません。
老人「ここまでの理解はお見事。それでは問う、高いところに立てこもる魔物がいる場合、どう戦えばよろしいか」
少年「はい、敵はすばやく、容易に狙いは定められません。そういうときは、穏顕覧吠吽莎賀の真言を五回唱え、手に印を組んで、その指の間から敵を眺めれば、隠れることはできなくなります。そうして、味方の隊が敵の統率を乱したスキを待ち、私はこう撃ちます!」
少年は手元の弓をすばやくつかみ、矢をつがえて上空に狙いを定めました。そこで目にも止まらぬ速さでこれを放つと… 矢につらぬかれたカラスが、バサリと目の前に落ちてきました。カラスは、木になっていた桃の実を盗んで去ろうとしていたようです。
為朝はこの技のすばらしさに、思わず「見事」と叫んで立ち上がってしまいました。白縫と林太夫はハッと息を呑みました。老人と少年も同じです。
為朝「あっ… すまん、邪魔をしてしまった」
老人「そこにおられるのは… 人間か。こんな場所に人間が訪ねてくるとは、なんと珍しい」
少年「どなたか知りませんが、ようこそ。歓迎いたしますよ。どうぞ、みなさまこちらへ。外の国の話など、聞かせてくれるとたいへん嬉しゅうございます」
為朝「おお、歓迎していただけるとはありがたい。わたくしは、巴麻島の神童に、ここ姑巴島をたずねて、『大いなる助け』を得よとの神託をいただいた者です。琉球国は今、たいへんな危機に陥っている」
老人・少年「ほう?」
為朝「妖術使い・朦雲が現れ、尚寧王を弑してみずから国王を名乗っているのです。これと戦おうとした者は、多く命をおとしました。お願いです、あなたたちのような仙人に助けをいただきたいのです。申し遅れましたが、わたくしは大里の領主をつとめる者…」
為朝が名を名乗る必要はありませんでした。さっきから為朝の顔を注視していた老人が、突然、体を震わせながら嗚咽をはじめたのです。くぼまった目からはとめどなく涙が流れます。そうしてしばし絶句したのち、やっと「…為朝さま!」と口にしました。
為朝「!? 私の名を?」
老人「私の顔を見忘れなさいましたか。確かに、ずいぶん変わってしまいましたからな… 7年。7年、お待ち申しました」
為朝「…紀平治。おまえは、紀平治か!?」
老人は、感極まるあまり、この問いに即答できずに再び泣き始めます。少年は、少しの間ポカンとしていましたが、今のやりとりで、起こっていることをたちまち理解しました。「父上! あなたが!」
為朝「ではお前は… まさか、舜天丸なのか! 夢ではないだろうな、夢なら覚めないでくれ。うおお!」
為朝は思わず少年の前髪をかきあげて確認しました。ここにいたのは、正真正銘、7年前の海難で為朝とはぐれた、紀平治と舜天丸だったのです。紀平治はすこし落ち着くと、ここに流れてきたいきさつ、そして、いつか見た鶴の化身とおぼしい仙人の助けを得てこの島にとどまり、舜天丸の教育をしていたことをざっと説明しました。
紀平治「仙人は、源氏の兵書を私にあずけ、舜天丸様の教育をお任せになりました。ですから私は、私の持てるものをすべて舜天丸様に受け継いでいただくべく、今日までひたすら、学問、武術の研鑽をコーチしておりました。今では彼は、何をとってもすっかり私より上、超一流です。私はずっと、今日のような日を夢見ていたのです。この舜天丸さまを、為朝さま、あなたにお会いさせるこの日を… もう、死んでも悔いはありません」
(紀平治は、高間夫婦が死に、そのとき大魚と化して彼らの命を救ったことにも触れました。これは大変悲しいことでしたが、これを聞いた一同は、高間の忠義の激しさに驚き、感動しました)
為朝は、紀平治の話を聞きながら、目に涙をにじませています。「鶴の仙人に助けられたというなら、不思議なことに、私たちもなのだ。あの童子は、明らかに彼の使いだ。彼は私に、何やら意味深な桃の枝をくれた。六つはしおれ、二つはつぼみのままだったが、それらがその後元気に開いたのは、この場面を予言するものだったのだな。つぼみだった二つは、紀平治と舜天丸だ。残りの六つは、私と妻、そして林太夫、陶松壽、鶴、亀ということなのだ。生きているぞ、あいつらは・・・」
これを聞いた紀平治と舜天丸は、ちょっとだけ微妙な表情になりました。そして、何かを察すると、急にうちしおれた様子になりました。
紀平治「…白縫さまは、この場にいらっしゃらないのですか? まさか…」
舜天丸「父上は、『私と妻』とだけ言い、『白縫』とおっしゃらないのですね。その『妻』とは、後妻ということですか…」
なるほど、二人がこう考えることはもっともです。為朝は説明をはじめました。
為朝「…白縫は、あの海難の日、海の神をなだめようと、みずから海に身を投げた」
紀平治「!!」
舜天丸「そ、そんな! 海の神よ、なぜこんな残酷な…(胸をかきむしる)」
為朝「…まあ話を最後まで聞いてくれ。白縫の身はそのとき滅んでしまったのだが、彼女の霊は私を追って、ここ琉球までついてきた。そうして、いろいろ縁あって、この国の王女に乗り移ったのだ。それが私の今の妻だ。…あそこにいるのが、白縫王女だ」
白縫は、目の前にいるのが舜天丸だと分かった瞬間から、そばにいた林太夫にすがりついて泣き崩れ、一言も言葉を発していません。頭を持ち上げる力もないのです。林太夫は困り果てて、オイオイと号泣する彼女を支えているところでした。
舜天丸もまた、嬉しさと戸惑いにむせび泣いて、彼女に声をかけました。「では、あなたが母上なのですね! どうしてさっきから泣いておいでなんです。私に一言、母の名乗りを聞かせてくれないんです」
白縫は、たまらず舜天丸を抱き寄せました。「名乗りが遅れたことを許しておくれ、舜天丸! わたしが乗り移っているこの体のまま、うかつに母だと名乗っても、簡単には信じられっこない。説明の順番を守る必要があったのです。…今までどんなに、お前のことを心配に思ったか! 生きていて欲しいとどれほど強く願ったか。舜天丸、立派になって…」
再び白縫は涙で声が出なくなりましたが、すぐに立ち直りました。「…いえ、私なんか、比べものにならないわね。紀平治よ、この荒磯にひとり舜天丸を守って、今日までどれほどの苦労をしたことでしょう。よくやってくれました。私は確信しましたよ、この舜天丸こそが、朦雲を滅ぼし、琉球を救う英雄になる運命なのですね。お前の前途に幸あれ、舜天丸よ!」
紀平治は、はじめは信じかねましたが、今ではこの女性が白縫であることを確信しました。「なんとめでたい日か。7年の月日を超えて、親子が集うこの日よ。バンザイ… バンザイ!」
為朝は、ここの一同に、林太夫の紹介もしました。「彼が、佳奇呂麻の島長の林太夫だ。私や白縫が今無事でいるのは、彼が実に献身的に活躍してくれたからだ。彼にも感謝しなければな」
舜天丸と紀平治は、事情を聞いて、彼にも感謝をささげました。林太夫は大汗をかいて恐縮し、「この場にご一緒できることだけでも、私ひとりどころか、私の島全体にとって名誉なことです」と答えました。
さて、紀平治は、訪れた人々みんなに、島の名産(?)の桃を振る舞いました。彼らが7年間これだけで生き延びたという、滋養満点の桃です。
為朝「ほう、この桃が… 桃は、破魔の象徴だ。今回、桃にまつわる事柄がずいぶん色々ある。これもまた神の助けだ。ありがたいことだ。そうそう、舜天丸よ、私からひとつだけ、さきの問答について注意したいことがあるぞ」
為朝「さきに聞いた話では、お前たちは、桃の枝で破魔矢をつくり、それらを伊勢・男山・阿蘇の神に見立てて拝んでいたそうだな。それは素晴らしいことだ。しかし舜天丸よ、さっきお前が射て落としたカラス… カラスは、これらの神の大もとである熊野の神の使者、八咫烏に見立てるべきものだぞ。ひとつの桃を惜しんでこれを撃ち殺すこと、これは不覚というべきではないかな」
舜天丸は父の言葉によろこんで答えます。「お言葉、まことにその通りです。わたくしは、この7年間、一切の殺生をせず、桃のみを食べて命をつないでまいりました。今回のカラスのことも、決して殺生ではありません。少しだけ懲らしめただけなのです」
舜天丸は、カラスに刺さっていた矢をそっと抜き取りました。矢は、カラスの羽根の端を縫い止めていただけだったのです。それは「カー」とひと鳴きすると、何事もなかったかのようにバサリと飛び立ち、空の向こうに消えていきました。
為朝は舌を巻きます。「…なんという技量だ。お前のその弓術、すでに古今に並ぶ者なし! さらにこの仁心、一国を治めるにふさわしい器と言えよう」
あの為朝がこう言うのだから、まさにベタボメですね。
その夜は、久しぶりに集まった面々で、月明かりの下、夜が更けるまでお互いに体験してきたことが語り明かされました。もちろん、今宵の再会のこと以外、楽しい話はほとんどありません。国を憂え、それに殉じて死んだ人々のことは、たいへん心の痛む話でした。しかしそれでもなお、一同は、ここから何もかも良くなっていくだろうという不思議な確信を胸にいだくことができました。